Red Flood イデオロギーリスト/総集編(旧版)
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加速主義 (Accelerationism)
フューマニズム (Fiumanism)
旧秩序、それは歓待や好意を大いに喜ぶ老人たち、つまり政治的に堕落し精神的に破綻している者たちだ。ネイションがその運命に達することも、その道徳的な目的に向かって努力することも、そのような汚れた化石どもの支配下では不可能だ。民主主義という肥溜めから民衆を引き上げる為には、単に満たされた自由な人生を送りたいと願う者たちだけでなく、それを手に入れるエネルギーを持つ者たちも必要とする。
ガブリエーレ・ダンヌンツィオはそのような男の一人であった、そしてカルナーロ執政府が誇らしげに歌うものは深い余韻を残している。国民的で国際的な革命が今に迫っているという彼の主張は程なくして誤りだと証明されたにも拘わらず、彼の奮闘は世界中数多くの先導者たちが集まる燈台であり続けた。
フューメの聖火に照らされた都市国家のエートス及びその信奉者たちは、伝統的な政治圏に囚われない原則を中心に纏まった。革命的国民主義、反帝国主義的レトリック、単一政党の統治連合、階級協調主義的経済、これらはもちろん顕著な役割を果たすが、それと同等に――もしかすればそれ以上に――重要なのが謎めいた詩人王が体現する考え方であった。国政全体の刷新は政府機関だけで起こし得るものではない、それは劇場でも、詩会でも、喫茶店でも起こす必要があるのだ。
民衆をより良い未来に導くには生き生きとした魂が必要なのであり、つまり人生を自ら切り開くような者が必要なのだ。ディオニューソス的な人生に対するロマンティックな理解、最高の冒険への渇望、それを追求する為に必要な勇気は、至上の高みへ飛び立つことを願う者たちを必要とする――ただし、道行く人たち皆がそのような生き方に必要なエランを持っているとは限らない。しかしながら、そう願う者たちは来たる世界の先駆者となるであろう――そして、その世界は美しいのであろう。
未来主義 (Futurism)
速度。技学。戦争。1900年代のくすぶる緊張感の中、イタリアで猛烈なエンジンが唸り始め、その鬨は世界中に轟いたであろう。フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが著し、1909年に発表した宣言書は、芸術の一派としてだけでなく、食卓から戦場に至るまでの人生の改造を求めた政治的・哲学的エートスの凝集としても発展してきたのである。同時に、イタリア、ヨーロッパ、そして更に国境を越えて関心を集めるにつれて、その適用するところは「反伝統主義」以外の単純な政治的分類を受け付けないようになった。加速主義の中核を成す近代的イデオロギーの走りであることは議論の余地もないが、世界は今となって漸く未来主義の遺産を再評価しているところである。
マリネッティの教えとは過去との戦争であり、ブルジョワ的な道徳や伝統を激しく攻撃した。軍国主義、若さ、自動車から飛行機に至る革新性を喧伝した。同時に、創始者のレトリックにはエリート主義的な感覚もあり、優れた人間には英雄主義と慣習に囚われない行動とを熱く奨励した。社会主義とは頻繁に対立し、1920年代にはフューメ連盟と第二インターナショナルとの間に楔が打ち込まれた一方で、ほとんどすぐにそれは右翼的傾向を遥かに超えるものとなった。最初は国民派社会主義者、次には公的秩序を覆そうとする無支配主義者をも誘惑した。ロシアでは、未来主義は共産主義者と腕を結び、その中に大衆を解放し高揚させる為の社会規模の計画を想像した。このユートピア的気魄は大戦を生き延び、英雄的なパイロットや大胆な突撃大隊のイメージを永遠に高め、フューメやカフカースでの新国家建設における革命的未来主義者の参与を確かなものとした。
未来主義の目下の新奇さは徐に消えていったが、かつての課題は、革命に取り残された全世界と共に存続している。しかし地球はどのように、そして誰の下で再形成されるのだろうか? 政府はその統治の下で、生産者主導の資本主義や組合主義、国家管理の協同主義、そして共産主義といった多様な経済モデルを提示してきた。モーターは乗手を総力戦の恍惚へ、或いは幻想的ユートピアへと誘うのだろうか? 左右の両極は本当に対立しているのか? 未来主義はその目紛るしい勢いを維持できるのだろうか? それとも結局、重力が常に勝つのだろうか?
超現実主義 (Surrealism)
生者と死者の境界線は薄く、現世と来世を結ぶ銀色の糸は揺らめている。オーストラリアのアボリジニ文化においては、土地そのものがこの糸から誕生したとされ、彼らはこれを「ドリーミング」と呼んだ。まさにこの継ぎ目――この夢の如き世界の裂け目――から、超現実主義 (シュルレアリスム) は生まれ出た。
超現実主義は、アンドレ・ブルトンの頭脳から湧き出たもので全てを形成しているのではない、尤も彼自身はそれが真実だと思い込んでいるかもしれないが。この言葉は後にエスカドロンとして有名になるギヨーム・アポリネールが創り出し、超現実主義が最初に使われたのはエリク・サティの音楽を説明する為だ、つまり現実を超えた現実として。これ以来、同名の芸術運動が形になり始めたが、シュルレアリスムの教皇はアポリネールではなく、むしろ前述のブルトンであった――彼の二つの宣言書は、超現実の一対の聖書として、後に知られるようになる形式を定義したのである。
しかし1927年、初めて超現実主義は芸術から政治へと飛躍することとなるが、この際に起こったのがアルトー市長の施政との関与を巡った新生SFIO (労働インターナショナル・フランス支部/フランス社会党) からの超現実主義者たちの追放であり、これは彼ら独自の団体を設立することに繋がった。その団体こそフランス・シュルレアリスト党 (PSF) である。直ちに、PSFはその指導者によって支配されるようになり、そして超現実主義は19世紀の空想的社会主義と20世紀のアヴァンギャルドな感性との間の近親相姦から生まれた私生児として形を取り始めた。
左翼の中には、超現実主義を単にプロレタリアートの頭を嘘で満たす為にビスマルク流に宣伝された「ブルトン派修正主義」だとして非難する者もいるが、この運動自体はその創始者の開いた口から出てくる言葉をはるかに超えて枝分かれする。原始を呼び起こす近代性の力、意識に対する無意識の優越、弁証法に対する形而上学の勝利、現実の引き裂き、多くの者たちが共有する観念が存在し、非常に多様な手法で実行される――超現実主義のブーケの中では多くの花が咲いているのだ。結局のところ、「2+2=4」の論理が産業的虐殺を生む世界において、現実を超えたものを夢見る勇気ある者たちを誰が責めることができようか?
国民再活性主義 (National Rejuvenatism)
国民再活性の観念の台頭は、大戦後における――ダンヌンツィオの、新たに勝ち取った独立の――成功の物語であり、しかし失敗の物語でもある。ロシヤにおいて、内戦の勝者たちは勝ち取った灰の上に立ち上がるも、国際的な共感を得ることができなかった。フランスおいて、オルレアン朝復古が流刑法の廃止を巡り難航した。イタリアおいて、ファシスト連合の萌芽が保守派勢力との提携を試み自滅した。しかし最も重要な事は、新しく生まれ変わったポーランドにおいて、伝統的右派勢力が自治を引き換えにツァーリ主義の圧制者と協力し、その手を汚したことである。ヨーロッパの新国家はこれを目の当たりにして理解した、未来の国民主義はその見解を明確に近代的にしなければならず、そうしなければ滅びるだろうと。
このイデオロギーの実験場を務めたのがワルシャワであった。ドイツやロシアの支配から自由となっただけでなく、バラバラになった民衆をポーランド人へと作り変える為に受け継ぎもした、この国家の国民創造へのアプローチは、世界に漂う他の国民主義者たちへの教訓を示すだろう。フューメ連盟の前衛的な国民主義もまた、ダンヌンツィオやピアラシがまさに行ったような反体制的な左翼と右翼を団結させる新しい傾向が形成された時、教訓を示すだろう。独自の地域ブロックを確立し、意気盛んなピウスツキ元帥のサナツャ体制は、間もなくこの観念をさらに発展させるであろう称賛者と理論家を獲得し、戦後の停滞の中に新しい意味と誇りとを齎すことを約束した。
加速主義というラベルの下に集められた「再活性主義」のモデルは、その仲間たちと同様に折衷的であり、しばしば広範に適用される。もちろん、それを定義する共通の特徴もある。ネイションはその目覚めの為に強い手を必要とし、必然的に権威的な政府が誕生する。この政府は経済に強い影響力を及ぼす。何より重要なのは、国民再活性は人々に新しい国民同一性と神話とを――汎ゆる政策を通じて――植え付けることを求め、その神話は将来への行進の中で国民全員が共に物語らなければならない。
新常民主義 (Neo-Folkism)
民衆 (People) ある所、常民 (Folk) あり、そして常民ある所は、民俗的 (Folkish) となるであろう。ドイツのフェルキッシュ運動はロマンティックな過去と産業的な現在との狭間に存在するが、一方で近代性の脅威を受け入れ、歴史の歯車を前進させることを望む者たちも存在する。古代の神話と民俗信仰は甦り、そして第二の洗礼を受けるのだ、新常民主義のアイギスの庇護下で、過去の馬車が未来の暴れ馬に繋がれるように。
多くの国々がコスモポリタニズムの為すセイレーンの歌声に屈するか、或いは反動主義の殻に閉じ籠っていた時に、この常民主義の新顔は近代性の危機のから生まれ出た。新常民主義者たちはこうした回答を拒絶し、不可能を選択した。つまり近代性の歓喜を受け入れ、伝統主義の無関心や国際主義の利己的な行進に対抗する剣として振るったのである。ヤン・スタフニュク、マルク・オージェの肉欲主義団体、これら文筆家たちのインクが染み込んだ新常民主義者たちは、左翼にも右翼にも対抗し武器を取り、民衆の存立と子供たちの未来とを守る為に進むべき道を切り開いた。
自分たちの民衆に目を向ける新常民主義者たちは、古い理念に新しい光を当てる傾向がある。彼らの多くはキリストやエホバ、他の救世主的人物たちを捨て去り、自分たちの血に内在し土に眠る汎神論的――或いは異教的――信仰の再活性化を支持する。しかし、異質な宗教の全てを排除したいと願うのであれ、単に宗教を民衆の容貌に作り変えたいのであれ、全ての新常民主義者たちは生気論的な信仰観を受け入れ、生命そのものとそこから生まれる全てのものとを崇拝している。それ故に新常民主義者たちは、創造的エネルギーの共有などの見地に基づき、民衆の集団的運命を受け入れる傾向があり、経済管理手段の社会化に傾倒するとしても、国際労働者の唯物論崇拝に屈することはない。この同じ集団的運命の為に、民主主義は完全に踏み躙られるとまではならないが、しばしば地域レベルに縮小される。結局のところ、民衆の意志は、それを分断する代議士の存在が無ければ完璧に明示できるだのだ。
数千もの民衆が存在し、そして数千もの常民が存在する。新常民主義は、地域的なルーツを汲み取り、ネイション毎で大きく異なる。しかし何よりも重要なのは、彼らが一つの真実によって結ばれていることである。即ちそれは、原初の神々や古き英雄たちは未だ生きており、間もなく彼らは再び祖国を守るために戦うことになるだろう、という真実である。
フペリョート主義 (Vperedism)
ヨーロッパの観察者の目には通常、共産主義と加速主義とは永遠の敵同士に映るであろう。しかし――多くの反動的・穏健的な批評家が気づいているように――両者の教義には深い類似点がある、つまり世界を完全に再編成し、新しい人類を誕生させんとする大胆な衝動である。この類似性こそが、社会主義的なプロレタリア革命と新たな近代性たるアヴァンギャルドな計画との両方を包含する運動である、フペリョート (前進) 主義の根底にあるものなのだ。
フペリョート主義の名は、ロシヤ社会民主党――アレクサーンドル・ボグダーノフ率いるフペリョート派 (前進派) とヴラヂーミル・レーニンの信奉者たち――の中で、とある認識論的争点におけるマルクスの修正の質問を巡って分裂した事に由来する。前者が党内での権勢を振るうようになる一方で、レーニンは第二インターナショナルでの影響力を維持し続け、フペリョート主義者たちはその異端支持の為に苦い代償を払わなければならなかった。ボグダーノフは第9回インターナショナル会議で公式に弾劾され、フペリョート主義は共産主義運動の遠く辺縁にまで追いやられることになった。しかし、レーニンに批判者がいない訳ではなかった。多くの同志が共にボグダーノフを擁護する為に団結し、正統派マルクス主義の教義にとってはあまりに急進的で破天荒な人々の為の場所として、反対派の第三インターナショナルを結成した。
第三インターナショナルは明確な理論路線を強制するものではないが、通常二つの理想がフペリョート主義運動を定義している、一つは社会闘争以上に自然に対する人類の闘争の優先すること、もう一つは文化を中枢的役割とすることだ。これらは共に革命に対する急進的なプロメーテウス的未来像を創り出す。つまり革命は資本主義の抑圧に終止符を打つものとしてだけでなく、人類そのものを変革する出来事ともする――即ちそれは、内的な闘争から集団的な意志を解き放ち、輝かしい未来の為に共に闘う為に団結することである。20世紀の社会主義は全ての人に快適な生活を約束するだけに留まらず、さらに多くのことを要求しなければならない。つまり死そのものの廃止、静止物に対する終わりなき闘争、かつて神秘的な魔術と考えられていたものの共同実現である。そして何よりも社会主義は人類究極の宿命を成し遂げる義務がある。それは星を要求し宇宙全域に生命を拡大すること、そして宇宙の秩序の支配に達することだ。
そのような夢は厳しい現実に対して恐れ知らず過ぎるだろうか? それとも主流派の共産主義者たちが、19世紀の理想に囚われているだけなのだろうか? 戦禍に傷ついた人類にとってどれだけ暗いもののように思えたとしても、フペリョート主義者たちは素晴らしい未来が待ち受けていることを、そしてそれは想像を絶するほどに輝かしいことを信じ続けている。
技術家主義 (Technocracy)
近代の速さは、年を追う毎に加速している。新しい発明、新しい工場、新しいブレークスルー ――社会は、産業の鉄馬に括り付けられた砂袋のように遅れていく。旧時代の政府は未だに近代社会に対して理解も管理もできていない。古臭い認識に導かれたまま、経済危機や無政府状態に陥っている。秩序は革命のたびに、衝突のたびに、そして此処数十年の数え切れない戦争の一つ一つのたびに欠けていくようだ。
しかし、解決策はある。人類の聡明な頭脳が齎す新しい秩序、即ち技術家主義だ。この鉄の男たちは、技術科学的な政治形態を打ち立てることを望んでおり、それは暴徒の声に耳を傾けるようなことはないが、近代性の挑戦に適した、有能で合理的な国家の計画が重要とされる世界である。腐敗した政治屋、欺瞞に満ちたデマゴーグ、貪欲な産業企業家、こうしたものは全てが排除され、有能な専門家、知識豊富な科学者、才能ある技師、真実の先見者、つまり近代世界を征服し輝かしい未来へと導くことのできるエリートたち、彼らによる支配に置き換えられる。このような高邁な理想にも拘わらず、技術家主義運動は未だ始まったばかりだ。選挙で選ばれない知的エリートという着想はプラトンにまで遡れ、また科学的な政治形態はオーギュスト・コントによって描き出されたものの、初めて真の技術家主義者が登場したのは20世紀初めの事である。アメリカでは経済学者や技師が、哲学者だけが触れることのできるある種の倦怠感に対した、実行可能な技術的解決策について議論した。ロシアの宇宙主義運動は、人類が自らを完全な形に生まれ変わらせることを目指し、技術や科学を完璧に習熟した、社会のユートピア的未来像を紡ぎ出した。
産業が勝利を収めたところでは技術家主義も広まった。つまりヨーロッパの技師に訴え掛けることに成功し、イギリスの知識人の好みに適合し、また極東でも反響が見られたのだ。 世界が新しい時代に突入してく中で、この時代が秩序と進歩の時代となることを確かめる為、そしてこの真の新しき啓蒙時代が、過去数世紀にも亘る闇の上でかつてないほど光り輝くことを確かめる為に、技術家主義者が此処に在る。
無政府主義 (Anarchism)
社会無政府主義 (Social Anarchism)
共産主義者の計画の最終目標は、数多くの理論家が述べたように、階級や貨幣、そして国家の無い社会である。議論の余地はあるかもしれないが、要するに無政府主義のことだ。
想像できるだろう、この事は過去1世紀の大部分に亘って政治的左派の中での不和の種となっていたのだ。国際社会主義運動創設の為の試みはその初期から、社会主義者と無政府主義者とは最終的なユートピアへの到達方法を巡った各々の対立が見られた。今日、社会無政府主義と呼ぶことのできるものは――かつてのディガーズ (真正水平派) のような平等主義運動を除けば――ミハイール・バクーニンの「集産無政府主義」から始まったもので、カール・マルクスの共産主義への道を権威的で中途半端に引き裂かれたものだとして断固反対した一団である。プレロレタリア独裁はツァーリ以上にひどい暴政を敷き得る手段であると、彼は主張したのだ。
彼はリバタリアン左派の地位を主張した最後の人物とはならなかった。バクーニンが生産手段の集団化を提唱した一方で、無政府共産主義は更に、こうして生産されたもの全てを共同利用の為に共有することが、人が繁栄を追求する為により一層良いとして、これを提唱する立場を取った。他方では、労働組合を望ましい自治単位として見做し、組合主義と交配する立場もある。また或いは、政党や運動などへの正式に参加は主張の本質を見失わせる為、大衆は大胆な革命的暴力行動を通じてこそ自分自身を解放するよう鼓舞できるだろうという立場もある。
国家権力の行使に関する政治的左派の道義心に仕える為であれ、或いはロマンティックな革命家の象徴になる為であれ、社会無政府主義者は政治的可能性の境界線の上に立ち続ける。継続している近代性の危機は、独裁体制に奉仕する大衆運動を生み出している一方で、自分たちを失望させている国家や市場に反抗する人民もますます増加させている。そしてもちろん、大戦の余波は国家社会主義者たちにその栄誉を与えたように思われたものの、古い論争が決着したとは言い難い。もしパリ・コミューンの後にマルクス自身が権力の革命的中央集権化に疑いを深めたのであれば、歴史はもっと多くの教訓を与えてくれるはずである。
個人無政府主義 (Individualist Anarchism)
太古より、人間は自分の首に支配の軛がかかっていると感じてきた。封建貴族、絶対君主、そして近代の代議士たちは皆、自らの被支配民の身体と魂とへ冷酷に鉄槌を下す機会があり、もはやその枷から解放されることを夢見ることさえできないほど衰弱した存在として縛り付けてきた。革命家と呼ばれる人たちの間でさえ、国家の命令による奴隷制への回帰という悲惨な事態をあまりに多くの者たちが容認している。社会の基本単位――個人――が束縛されたまままで、革命に何の価値があるというのか? その鎖を断ち切る為に必要なのは決意であり、これは政党やネイションのような抽象的な理念との戦いでは見出せず、人類が最も身近でよく知っているもの、即ち自分自身との戦いによって見出されるのだ。
マックス・シュティルナーの著作と最も密接に関連し、そして即ちフリードリヒ・ニーチェの哲学とも同様な個人無政府主義、その最も説得力のある表現は、労働組合のくだらないパンフレットの中でも政党のお世辞の言葉の中でもなく、侵食する国家の瘴気を押し返すとそれぞれ決意した英雄的個人の行動の中に見出すものだ。従って、他の多くのイデオロギーが基幹とする争点や政治的教義を掲げて結集するのに対して、個人主義者の核となる原則は多様な方法で体現され得る。伝統的な社会組織――良くも悪くも、大衆の力はそこから逃れられない――を完全に否定する訳ではないが、それらは単に目的の為の手段、国家を破壊する為に振るう道具であり、それ故、革命が覇権を獲得するにつれ、個人の首を絞める積み上げられた階層はそれぞれ最大限の闘志を以て破棄され、順番に破壊されなければならない。シュティルナーの信奉者から、ジュール・ボノーのような違法主義者、そしてボストン学派の市場無政府主義者に至るまで、各人は自分の魂から生まれた自由への道を見つけ、それを達成する為に力強く努力するのである――必要ならば、如何なる手段を講じてでも。
神秘無政府主義 (Mystical Anarchism)
多くの煽動家は宣言する、革命と社会の進歩とが永続的な変化を齎す為には、政治的な領域よりも深いところに行かなければならないと。ある者は文化的・社会的な特徴点を探究し、最良の政策やダイナミクスについて論じる。しかしながら、少数のプロメーテウス的な魂を持つ者は、魂の領域へと突入する。神秘無政府主義は説いている、霊的革命は社会的革命と同じくらい、いやそれ以上に重要であると。それは人類の集団的な魂に真の解放を齎し得る手段である。過去の古めかしい構造を取り壊し、人間の精神を閉じ込める制度や理念に対する無頓着な隷属から大衆を解き放つことで、究極の解放が可能となるのだ。
「正統派」神秘無政府主義として描き出されたものとは、主流の無政府主義理論を統合して形成されており、その実践と神秘哲学とは19世紀から20世紀初頭に掛けて、ドミートリイ・メレシュコーフスキイやゲオールギイ・チュルコーフなどを含む象徴派によって生み出された。他方で、中世のマルグリット・ポレートの著作や古代のグノーシス的な書物などのような、より遠く古いインスピレーションの源泉も主張されている。それ以来より広く拡散され、世界中の類似した成果は融合し、より大きなものへと統合された。神秘無政府主義者は他の無政府主義者の従兄弟たちと幾つかの要素によって大まかに区別することができる。第一に霊的な寛容さ、それは妥協のない道徳的価値観であり、殆どは曖昧なキリスト教的性質によるものだが、この道を外れてよりオカルトや東洋的な探究を好む者もいる。第二に神秘的な知覚の才能、自分の環境や譬喩的な文章から霊的な側面を認識する能力である。最後に、宇宙の究極の原理に対する深遠なる衝動である。
確かに、根本的に社会の解放とは目的の為の一つの手段に過ぎないと言えるだろう。「新しい人間」は内面的にも解放されなければならず、現実世界による束縛から自由ならなければならない。ある神秘無政府主義者はこの世界観をキリスト教の黙示録と結びつけ、また一方でより秘教的な信念の者もおり、或いはその両方を融合させる者もいる。個人の自由それ自体が、全ての人が神を分かち合う為の超越的な一体感――つまり神秘的な変容、真の意味での自己実現――即ち「超個人主義」の支持に凌駕されることとなる。進むべき道は明らかである。革命は二重でなければならず、それ以外に無い。
国民無政府主義 (National Anarchism)
無政府主義が国民主義の仲の良い同志であることは殆どない。多くの社会主義者の従兄弟たちと同様に、歴史的な無政府主義者の視点では、国民主義は人々の兄弟愛を阻害し、軍国主義を加速させ、そしておそらく近代国家の形成そのものと密接に関係するものとされている。この理論の大部分に議論の余地は無い。だが興味深い事実もある――1848年革命に際し、未来の無政府主義の指導者ミハイール・バクーニンは、ヨーロッパの大帝国を破壊する為の国民主義運動の大規模な協同蜂起を提唱し、フューメ連盟と全く無関係とは言えないようなイデオローグとして、この時期を過ごしたのである。
しかし他の多くの集団がそうであったに、大戦とその余波は古い均衡を打ち崩した。ピョートル・クロポートキンやジャン・グラヴのような著名な無政府主義者の多くは、祖国の戦争努力を支援する社会主義政党と同じように、革命の障害として見做された中央同盟国に対する、協商国の勝利を公然と支持した。これは秩序だったイデオロギー的団結ではなかったものの、如何に無政府主義の原則が国益と相互作用し得るかを示すものであった。さらに鮮烈だったのは、未来主義者の大御所マリネッティがブルジョワ的な政治と道徳とを破壊するという共通の願望に基づいて提唱した、イタリアの無政府主義者との同盟であった。それは日和見主義や挑発であったかもしれないが、全くの二律背反なのだろうか?
国民無政府主義は、その名の下にグループ化された幅広い運動を含めると、博愛主義の教訓を取り除いた――反国家的でありながら愛国的、さらに超国粋主義的でさえある――無政府主義であるとざっくり説明することができる。その組織の多くは戦後秩序に対する過激な右翼的批判を通じて威信を高めてきた。ある者たちにとって、自分たちが知っているような政府は、自分たちが支持するエリート主義的或いは英雄的な国民的理想を阻むものであるとして、より自律的な単位に分権化させなければならないとする。またある者たちは、国家の完全な破壊と、より根源的な同一性を反映した均質なコミューンへの分解を求めている。確かなことは唯一つ、それは中心が崩壊した時、民衆の手は正しい事と必要な事とを行う為に解放されるだろうということだ。
軍政無政府主義 (Stratocratic Anarchism)
歴史的な記録には、不当なヒエラルキーや搾取に代わるものを求める先見の明が数多くある。それらは人間の境遇の改善や個人の自由の名の下に信奉者を集め、時にはそれらの価値観に従って自律的に生きていく為に、より広範な文明から自分自身を分離することもある。歴史的な記録にはまた、このような先見の明を持つ人々が、大衆に対する戦力を倍増させる為の、軍事的な生産と調整とに影響力を行使できる能力がある、国家の組織的な軍隊によって抑圧された例も多くある。確立された権威に対抗して指揮されている革命に内在する燃え上がる圧力に直面する中で、新たな形態が時折現れる、それが軍政無政府主義である。
義賊を実践する集団ような、インスピレーションを与えるのに役立ったであろう準軍事的な組織が過去に存在したのはおそらく間違いないものの、大戦末期の紛争は革命が如何に指揮されるべきかを示す事例を与えた。ロシヤ内戦の中でも、傑出した革命的軍事指導者の一人が、献身的な無政府主義者たるネーストル・マフノーである。彼が社会主義者たちとの絶望的な同盟を結ぶ以前、そしてカフカースへと撤退する以前、彼はウクライナの諸コミューンのネットワークの防衛と統治とを交互に行った叛乱軍を率いていた。彼らの執った手段の道徳性は後年まで議論されている、それでも......
従って軍政無政府主義は、その運動がそれ自身とその利益を守る為にどのように望むかという疑問に対する答えである。それはリバタリアン的闘争への革命的エランを、軍隊的構造の器に熔接したものである。軍隊が民主的な組織となるのか、或いは住民がどのように動員されるのか、その日の命令は場所や状況に応じて異なるが、その結果は戦場において驚くほど効果的であることが証明できよう。もちろん、無政府主義者の仲間の中で論争にならない訳ではない――勝利の為に軍の規律が必要だとしても、銃声の止んだ後にそれが緩められると信じられるであろうか? しかしながら、真の自由に対抗して隊列を組む勢力がますます凶悪さを増しつつあるこの世界で、無政府主義者たちが挑戦してこなかったとは誰であろうとも言わせない。
無国家状態 (Statelessness)
無国家状態という言葉は、無政府主義に関係する言葉である――とはいうものの、無政府状態 (アナーキー) それ自体がそうである。結局のところ、無政府主義者の計画の最終目標は、国家又は汎ゆるヒエラルキーの廃止と、それを他の自発的な秩序に置き換えることを特色とする。しかしながら、その最も古い定義とは純粋に政府の不在を指し、熱望される政治的目標というより、むしろ陥ってしまう状態として述べられるものだ。それにも拘わらず、より良い分類が無い為に、革命的無政府主義というラベルの下に集められた三つの無国家的な状態がある。
第一に、公的秩序の崩壊した状態を意味する。官僚主義的かつますます中央集権化された国家が世界の大部分を支配するようになったが、これら全ては依然として、ホッブズの述べた「万人の万人に対する闘争」によって押し流され得ることへ恐怖を感じている。戦禍や災害などを被った地域では、人々の手の届く範囲を超えて存在する、明確な政治的権威が直ちに失われる。
第二に、中心都市や植民地の前哨基地から遠く離れたところに存在する、従来型の国家による統治を全く受けたことがない政治形態を意味する。そこには、権威が力や年功序列、或いは霊的な意義などに基づいて存在するかもしれないが、氏族や部族、又は群れは従来型の国家と同じような形ある境界線を持たない傾向がある。実際ところ、彼らは地図上の線に対して肩をすくめるような、移住・遊牧の民であるのかもしれない。
最後に、無政府主義の原則の完全な実現によって齎されるかもしれない無国家状態を意味する。推定上、この場合の社会は、それらを調整する為の包括的な組織無しに、高度に地方分権化された単位に回帰しているとされる。これは解放への道の前進なのか、それともルソーの述べた自由な自然状態への回帰なのかは、それが誰の夢であるか次第である。
前衛社会主義 (Vanguard Socialism)
レーニン主義 (Leninism)
共産主義のレーニン主義流派は、ハンガリー革命によって世界に紹介され、国際社会主義運動の左翼として確固たる地位を築いている。このイデオロギーは、RSDRP (ロシヤ社会民主労働党) の元指導者である同名の人物によって最初に提唱され、マルクス主義の厳格で教義的な解釈を支持し、他を妥協した修正主義と非難する原理主義的判断を行う。その核心的原則とは、即ちブルジョワ勢力との最終決戦におけるプロレタリア軍の最前衛を形成することを運命づけられた、訓練された職業革命家の集団によって革命が齎されるという前衛主義の原則である。
レーニン主義を真に理解するためには、その歴史を理解する必要がある。レーニンは彼の祖国おいて預言者となることはなかった。アレクサーンドル・ボグダーノフとフペリョート派に出し抜かれた彼は、RSDRPを独裁的に支配しようとしたと非難され、そして強制的にその仲間から追放された。しかし西側おいて、彼の思想は大戦によって耕された肥沃な大地を見つけた。常に社会主義者の最も急進的な人々が集まる場所であったドイツやハンガリーにおいて、その燃え上がる雄弁家は支持者を増やし、そしてユーラシア革命での活躍が認められたことで新生ドイツ政府の外務大臣に任命された。他の国際社会主義者だけでなく、ドイツの与党そのものをも批判し続けたことで、世界的にその信奉者――SPD (ドイツ社会民主党) が共産主義の目標から遠ざかっていると見做した革命の使徒たち――を集めた。1920年代末の内閣の最終的な崩壊によって、レーニン主義は理論の集積とそれに従う群れを持つようになった。
こうして世界中の社会民主主義政党に楔を打ち込んだレーニン主義は、それ自体の国際的前衛となっている――そして右派の人々を反逆者として、左派の人々を幼児としてそれぞれ酷評している。厳格な唯物論的エートスを、鉄の団結を成した党、国家管理経済、民族自決政策に結びつることでマルクス主義の科学に忠実な教義を作り上げ、共産主義の目標が小ブルジョワの裏切り者によって汚されることを決して許さない。1920年代の世界革命が明らかに停滞する中で、多くの幻滅した労働者はやがてこの呼び掛けを聞き、自分たちの手で歴史を切り開くことを決意するのかもしれない。
国民前衛主義 (National Vanguardism)
共産主義はその最初の表明 (即ち『共産党宣言』) から、労働者は祖国を持たないと考えた。マルクスとエンゲルスは18世紀と19世紀の革命家が封建制度を破壊した事を高く評価したが、ブルジョワが作り出したネイションは国際労働者階級の協力にとっての障害であるともした。この理念は左翼政治の広い範囲に影響を与えたが、全ての信奉者が国民主義を完全に放棄した訳ではない。ヴラヂーミル・レーニンのように、共産主義は小さなネイションの解放者である必要があると主張する者もいた。また、より強力な帝国と比較して自国民が生得的にプロレタリアであると考える者もいた。
大戦の勃発はヨーロッパの労働者階級の連帯における究極の試練の到来を示したが、殆どの面でそれは失敗した。1918年の革命は革命的社会民主主義者だけが主導した訳ではない――ドイツでは、カイザーに対して、正統派社会民主主義の路線には沿わない形の多様な反対の声が高まり、中には戦時中の国民共同体の感覚が国際兄弟愛的の疑似約束に取って代わったのだと考える者さえいた。戦争の余波の中で――1922年のイタリアで起きたプロレタリア=国民主義者蜂起が失敗したことを考えると――国民主義運動は周縁的で分裂した傾向で残存したものの、社会主義国家内の国民主義運動にはその理論を洗練し、そして新しい範囲内で煽動する為の時間があった。
国民前衛主義の特異な教義を厳守していると主張している政党は存在しないが、かつて加速主義がそうであったように、観察者によって名前が付けられるのに十分なほど顕著となっている。ドイツ革命から数十年、スパルタクス主義のモデルが国際資本主義の腐敗を打破するものであるかどうかは、依然として不確かである。反革命的な体制が力を付ける中、この共産主義の新しくかつ積極的な型は、もし革命を生き延びさせるならば、労働者を導く戦闘的な前衛党から労働者を一体にする国民的理想に至るまで、プロレタリアートを結集する為に可能な限り汎ゆる手段を使わなければならないと宣言している。これは社会主義を活性化させる力だと示すことができるだろうか? それとも、その魂の墓穴を掘ることになるのだろうか?
社会共和主義 (Social Republicanism)
共和国という言葉は、公共なるものを意味するラテン語の句、レース・プーブリカ (Rēs Pūblica) に由来している。しかし、多くのいわゆる「共和主義者」にとって、彼らの建設する国家は真に人民のものではない、単にライセンスの為のライセンスに過ぎないのだ。ほったらかしにされる自由。なんという茶番だ! 隣人が、都市が、ネイションが、そして世界が奴隷にされている時、どうして市民が自由でいられようか? これが「市民共和国」の没落であり、その実態は、資本と偽りの自由による策略にほかならない。
社会共和主義は、市民共和国という概念への不満と、それが社会主義全体に残したコスモポリタンな汚点から生まれた。この用語は1848年の革命的左派、即ちヨーロッパを跨いだ革命において、自由主義的派閥に反抗した勇敢なコミュナルや愛国者たちに起源を見出すことができる。しばしば悪評を買うこの英雄たちは、往時の国家に対し勇敢に立ち向かい、ネイションが人民を支配するのではなく、真にネイションの人民によって構成され統治される共和国を設立しようとした人々である。
普遍主義的原則の単純な適用に反対する社会共和主義は、時の織物の中にある正義の糸を辿り、国民体の内の自由なる伝統に目を向ける必要性を強調する。社会共和国とは国家ではなく、プラトンのポリスでもなく、国民全体が自分たちの支配者として組織されたものである。特定の歴史やネイションと結びついている為、その姿は国の数だけあるが、民主主義への貢献、国民的ロマン主義への重点、人民の人民による人民の為の前衛が共和国を導くことなど、共通の原理を持っている。しかしいずれの場合でも、時代を越えた解放と反支配の物語を紡ぎ、その中では生者が死者以上の栄誉を受けることはなく、祖先の炎が前進され、背後には過去の灰を残しゆく。
軍政社会主義 (Stratocratic Socialism)
社会主義革命と国家の軍隊とは伝統的に敵同士である――パリ・コミューンの粛清やロシヤ内戦での左派の敗北、植民地守備隊に制圧された無数の社会主義者と連携した叛乱は、彼らに傷跡を残した。しかしながら、特定の状況下において、社会主義者を公言する者自身が軍隊と国家の役割を担うことが見られ、それは大抵文民政府の権威の崩壊に起因する。政治的権力が軍隊に移譲されたのであれ、或いは軍閥が社会主義共和国の統治を志したのであれ、そうして現れた体制は軍政社会主義と見做される。
ある程度、大戦によってこの政治的協定への理論的口実が提供された。「総力戦」の観念は社会の完全な軍事化に努めたプロイセン参謀たちによって探究され称賛されていたにも拘わらず、類似した見解が1910年代後半の諸内戦の中で、ロシヤにおける社会主義者将校によるものを含めて、議論されていた。他方、メキシコ革命などでは、戦場で奮戦する一方で、自身の支配地域にて土地と社会の改革を実施する将軍もいた。義賊と軍事委員会 (Military Junta) の間のどこかで、赤軍司令官は公然と特定の地域における最高権威となり、それに従い統治する。
この社会主義の特殊な形態の下では、前衛党は軍隊に従属するか、若しくは軍隊それ自体が前衛党と同様の目的を果たすかのいずれかである。時に、軍事力増強と戦争が国家の焦点と資源に過大な規模で優先される。また時に、軍隊は社会主義政策を通じて国家設計を急速に実現する為の地均しの手段として、強引かもしれないが、効用である。従来型の軍事独裁制に由来すると伝統的にされてきた利点の多くは此処にも適応できるが、赤軍、人民民兵、或いは他の国家統治組織は、自身を手段ではなくを目的としてしまう恐れがある――それは言うなれば、特権的な将校の集団内により統治される、赤いプロイセンだ。しかし彼らは、革命が生き残る為の戦争へと向かわねばならない時、その任により適した者は他にはいないのだと――それなりの正当性を以て――反論するであろう。
国家社会主義(State Socialism)
革命が勝利したとて、闘争とは単純に終わるものではない。国家社会主義を実践していると認められる体制にとって、この重要な時期に党の統制を緩めることは、全てを危険――経済的立ち遅れ、ブルジョワ的逸脱、或いはもっと悪いもの――に曝すことになると、彼らは知っている。行政国家は年々洗練されてきているが、それを放棄する前に良い方向に利用することはできないのだろうか?
ある意味で、そしてマルクスとエンゲルスはプロレタリアートから切り離された存在として彼を非難するだろうが、こうした国家主義的な社会主義の形態はルイ・オーギュスト・ブランキの理論に類似するところがある。彼の変革のモデルは、革命的組織の権力掌握と、その後に社会主義の条件を構築する為の過渡的な独裁体制を形成を伴うとした。「ブランキ主義」は彼の生涯で蔑称となったが、この概念にはある種の実用主義があった。それ故に――革命を牽引した武闘派集団の反映であれ、支配地域に大衆的な社会主義政党が欠けている為であれ――中央集権的で権威的な国家を中心に展開する社会主義的統治形態が存在しており、それは官僚主義的能力を駆使して共産主義への道筋を構築する。
国家社会主義は、レーニン主義やフペリョート主義のような認知された世界的な傾向との直接的な繋がりはなく、前衛主義的な信念を持つ社会主義政府の包括的な用語として存在する。政府を統御する前衛党が存在し、政府は共産主義の究極の目的に向かって経済を統制する。新たなヒエラルキーを定着させるものだという批判がされることも度々あるものの、実際に物質的な改善や近代化を成す国家官僚の能力が正当性のある大衆的魅力を齎す。要するに、国家社会主義的モデルは革命を治療のように扱い、そして汎ゆる治療はたとえ患者が反対してもを実施しなければならないと考えている。プロレタリアートが泥の中から甦り、前途ある仕事の為に教育され、生産手段の駆動部が夜闇の内に煌めいた後、人民は前途ある道を自ら歩むことができるのだ。
大衆社会主義 (Popular Socialism)
スパルタクス主義 (Spartakism)
スパルタクス主義、国際的にそう呼ばれるこれは、ドイツ帝国崩壊後のドイツ社会主義レーテ共和国の正統なイデオロギーである。それは世界中の革命家によって模範的政体として支持されつつも、同じ場所で反対派に対する罪状として取締を受けた。それでも、如何にその用語が広く拡散したか、そして如何にドイツの社会民主主義者が1918年以来世界の社会主義の進化に影響を与えたかにも拘わらず、ドイツ革命の歴史的経緯と現在のスパルタクス主義が示すものとを切り離すのは、しばしば困難となるであろう。
そのイデオロギーの祖は、大戦以前の第二インターナショナルで既に支配的となっていた、正統マルクス主義的性質が殆どである。その核となる教義は、マルクス主義を世界を理解する為の総合的な科学的な体系――それは異なる階級の利害関係が対立し、経済状況が社会の文化と政治に影響を与え、資本主義の不安定化の結果から必然的な革命が生じるというもの――として確立することを志している。政党及び組織化された労働者運動は来たる危機に備えて育成され、その間に経済及び政治の改革の為の闘争を行う。
ドイツ革命は議会政党にその起源があるのだが、名称としてのスパルタクス主義は、スパルタクス団として知られる、極左社会民主党の成員の非公式集団を由来とする。この派閥は革命時に最も傑出した党派となり、その後の国家を指導している。今日のスパルタクス主義は、祖国ドイツで体制を構築するために多くの妥協を成してきたにも拘わらず、その芽が出た場所である第二インターナショナルの社会主義者と同じ性質を示している。つまり議会主義者ながら、資本主義の転覆と社会主義共和国の設立の時が来たる日の為に絶え間ない階級闘争に従事しているのである。反革命的改良主義者によって右から、強硬的革命家によって左から、そして新たな加速主義陣営によって正面から迫られているが、国際社会主義の第一の旗手であり続けている。
常民社会主義 (Folk Socialism)
カール・マルクス、彼の提唱した史的唯物論というモデルは、封建制から資本主義そして共産主義に至る生産様式の進化過程を理論化した。彼はそれを歴史の鉄則として扱わないよう警告したが、最初に成功を収めたマルクス主義革命は資本主義的発展の絶頂にある国で起こり、表向きには彼の理論が実証された。だとして、洗練不足の資本主義或いは封建制の生産様式の下で呻きながら解放を求める世界の一部に対し、何と声を掛けようか? よもや都市部において存在している社会主義運動が、いくら多くのマルクスやエンゲルスの著作を読んだとて、理想的な条件が満たされるのを待つにとどまりはしなかろう。
常民社会主義の観念は、国際社会主義運動内の明示的な動向ではないが、西欧ほどの産業化が成されていない地域へ第二インターナショナルの路線を適応する試みを描いている。社会主義共和国を目指すとは言え、産業労働者の不在と農村の生産者――特に農業従事者――の優勢故に、ドイツの社会民主主義者と同じ道を辿ったとて行き着きはしない。ヨーロッパにおいて実践された、都市労働者運動と親密に結びつく労働者階級の政党の作成するという正統派マルクス主義者のアプローチが、1918年のドイツとは似ても似つかぬ光景の中に定着していくには、その実行手段を調整せねばならないのだ。
こうした理由で、常民社会主義の傘下の運動は、西欧そして資本主義の中心たる北米を除いた国々で地位を固める傾向がある。公式的な社会主義正統派との繋がりは維持しつつも、第二インターナショナルの暗黙の了解の下で彼らは現地の状況に適応してきた。その最終目的は社会主義的制度の構築であるが、そこへ至る道は多くの紆余曲折を経る。資本主義が前資本主義的生産様式を揺るがしきれていない地域では、これらの社会主義者たちは農民階級を通じた未来への道を模索し、時にそれは資本主義時代の流血や搾取を完全に跳躍することもある。
革命的組合主義 (Revolutionary Syndicalism)
最初の社会主義国家は大部分が議会政党によって実現へ導かれたとはいえ、それは革命的行動の最初のモデルとして成功が与えられた訳ではない。大戦直前の数十年間、主にヨーロッパのラテン系諸国において、革命的組合主義の傾向はブルジョワ国家の基盤を揺るがし得るものだった。ますます多くの数の労働組合が権利や譲歩への関心を喚起させる為に組織され、政党から独立した全国的組織にまで団結した。ここで1つの疑問が生じた。そこから、一国の統治が労働組合自身の手に移りうるのではないか?
政治的な組合主義の起源は、無政府主義の軌道上のどこかにある。ロシヤの無政府主義者ミハイール・バクーニンは選挙主義を斥け、労働者組織を動員してストライキを以て権力を掌握するという計画を展開した。更にアメリカの産業別組合の影響を受けて、1800年代末までに戦闘的な労働組合組織の波がヨーロッパの海岸に押し寄せ、急速に移りゆく産業風景へと洪水を起こした。主要な議会派社会主義者が臆病な改良主義者と見做されていたイタリアのような国々では、労働争議の最前線に立つ男たちが直接行動を以て、政党政治や理論的議論を足蹴にした。そうした活動の頂点で、ジョルジュ・ソレルのような哲学者たちは、反議会的社会主義、又は創造的で解放的行為としての階級闘争と暴力、これらについてのより高邁な理論を提唱し始めた。
今日、ベルリンからどのような進軍命令が発されようとも、組合主義者の潮流は健在である。労働組合が政府との協力を断ち、ゼネストを実行したことでフランスが大戦から脱落したことは、その原理と力の両面の現れであることを忘れてはならない。他の左翼運動が自らの地盤を固め、当初の希望に妥協を加える中で、ブルジョワ議会制の腐敗から切り離され、鼓舞される階級闘争のイメージは、社会主義の伝統的な枠組みを越えても、刺激を与え続けている。国家と党の古びた機関が新旧両方の欠点に直面する中、労働者自身は舞台袖で待機する、中途半端な戦いや臆病な同情などない、彼らだけに最も適したその戦闘を始める為に。
国民組合主義 (National Syndicalism)
「組合主義」という言葉はしばしばより左翼的な流派についても同様に使われるが、それだけでは長きに亘る影響を与えるようになったもう一つの傾向を無視することになるだろう、そう国民組合主義だ。その兄弟たちと同じように、大戦以前のフランスで生まれ、その後ヨーロッパの他のラテン諸国にも多大な影響力を持つようになった。合法的社会主義政党の政治的限界に不満を抱いた労働組合――フランス語ではサンディカ (Syndicats) ――は自らの目標の為のストライキや扇動をが可能な非議会的組織として自己組織化を始めていった。事実、いつか労働組合が適切に大規模ゼネラル・ストライキを実行したならば、国家の統治が彼ら自身の手に移るだろうと、論じられていた。
しかしながら、組合主義の母国たるフランスでは、第三共和制に反対する左右両翼の急進派が互いに思想を交配させ始めていた。ジョルジュ・ソレル、組合主義のおそらく最も重要な理論家たる彼は、自由主義国家の明白な腐敗に対する革命的暴力に魅惑され、このことは彼をシャルル・モーラス率いる君主主義組織アクション・フランセーズに接近させた。その二つの潮流の不条理な同盟は、民主主義への反対を理由に結ばれ、非民主社会主義をモーラスが明白に評価したという、並びに統合国民主義をソレルが一時的に受容したというエピソードにより示される。これだけではない――イタリアでも、類似する関係が愛国主義を受容した組合主義者の指導者たちとANI (イタリア国民主義者協会) のような反自由主義国民主義者との間で構築されていた。
実際には、国民組合主義はより左翼的な組合主義者と一部の習合的な加速主義陣営との中間部分を占めるようになっている。相当数の反マルクス派組合主義者がフューメの事例へと吸われていったが、革命的国民主義を信じるのと同等に階級闘争を信じる闘士たちの中核は残されている。そのままの唯物論や高尚な理論以上のものに動機づけられた彼らは、プロレタリアの活力という新秩序を求め、自由主義ブルジョワ的輿論の無方針性を打壊し、人生と仕事の意味を取り戻そうとしている。しかしながら、国民組合主義者たちの中での政府と経済の詳細への見解は多岐に亘り得るものであり、ある者は純粋な組合基盤のモデルを好み、またある者はネイションを団結する為の協同主義に惚れ惚れするのである。
修正社会主義 (Revisionist Socialism)
民主社会主義 (Democratic Socialism)
今となっては忘れがちだが、その最終目標にも拘わらず、そしてルーデンドルフ将軍が軍事化を強いたにも拘わらず、社会民主党(SPD)はドイツ帝国の主流の政党であった。それは地下で密に会合し粛清すべき人々のリストを記す戦闘的な徒党ではなく、ブルジョワ国家とから妥協を引き出し、代表を要求した公衆からの支持の為の運動を起こす、公的な組織であった。もし彼らの違法化によって強いられた転換点が無ければ、1930年代のSPDどのようになっていただろうか? おそらく実際には、民主社会主義の砦となっていただろう。
この傾向は決して斬新ということはない。プロレタリアートが特に発達していたイギリスでは、19世紀のチャーティスト運動が議会権力を動かす為に改革支持の公的示威活動に努めた。暴動というより、これが当時の方法であった。民主主義諸国に参政権が拡大するにつれ、革命的闘争だと考えられていたものに対して、民主主義的な働き掛けを実行ことがより可能となった。もし社会主義が庶民を代表するものだと主張するならば、公正な運動を以て彼らの支持を得ることができるはずだ。
民主社会主義はこのように、自国の代議政治体制を通じて仲介されたプロレタリア闘争へのアプローチなのである非合法かつ暴力的な闘争は権威的な政治運動を作り出す傾向があることを認識し、投票箱を通じた国家機関と経済の掌握を以て、民主主義の改良を民主主義の内にて努めることを選ぶ。漸進主義的で腐敗しやすいとして一部勢力から非難を受けることがあるものの、こうした運動の晴れ姿は一般大衆に対する魅力を高め、理想の上では国家による弾圧を抑制することもできよう。しかし同等に大事なのは、民主社会主義的政党はその基盤たる信頼を失った場合、平和的に排除できるということだ。如何にブルジョワ政治がどれほど腐敗しようとも、銃剣に支えられた一部の国々で発生している権威主義者の塹壕は現れない。社会主義への道は未だ歩まれている――自発的に、人民の支持を共に。
農本社会主義 (Agrarian Socialism)
産業革命はヨーロッパにおける大変革であった。これは生産関係のような大きな構造をどれほど様変わりさせただろうか、賃金労働や都市化の下で家族構造をどれほど変化させただろうか。もし政治哲学や政治的論説が同様の衝撃を受けずにいたとしたら、それは異常と言わざるを得ない。大量生産化は常軌を逸したものなのか、それとも文明の次の真っ当な段階なのか? 社会主義におけるマルクス主義の潮流は、その解釈と新世界の衝撃に対する反応とを伴い、ヨーロッパで優勢を占め、そして世界中へと拡散した――しかし、これはその先達たちに対し完全に取って代わった訳ではない。特に産業革命の開始又は到来が遅れた地域では、農民たちと改革者たちとがその地域の状況に適応させた大衆的な社会主義の観念を発展させる為の時間がより多くあったのである、そうして生まれたのが農本社会主義だ。
多くの社会主義運動がベルリンの例に注目している一方で、目下の問題から別の結論を導いた運動も存在する。産業社会主義から共産主義へ向かう最終的努力、或いは革命の為に労働者を組織化する都市政党の創設は、世界中の未だ農家が人口の大半を占める地域では公然と異質なものと見做されるかもしれない。農民層を革命的階級として育て上げ、マルクスの描いた目標へのもう一つの道を計画する為に、スパルタクス主義のモデルを調整する者も存在するが、彼らの状況の実際的な現実に焦点を合わせたままでいる者もいる。小農家は、理論的には生産手段を所持しているとされる――しかし彼らはブルジョワだろうか? 剰余価値を溜め込んでいるのだろうか?
農本社会主義の方向はそれ故、農村の状態を改善する為の改革へ傾いている。なおも土地と生産手段の社会的統制を目指しているが、全ての中で最も古く物語のある手段に主眼を置いている、つまり食料だ。ロシヤの社会革命党のように、マルクス主義を考慮しながらも議会政党として留まった勢力は、未来の革命を追い求めようとはせず、既存の政治制度の中で活動することを厭わない傾向にある。しかしながら、異なる文脈においては、こうした潮流は政党による統合がなくとも、政府に提示する為の要求と政治的綱領とを持っているかもしれない。その人生をユートピアへの過渡期として扱われたり、無知蒙昧な体制支持者の集団として扱われたりした者たちは、自分たちの声を持たないことに満足している、そのようになど言わせる訳にはいかないだろう。
空想的社会主義 (Utopian Socialism)
戦争によって荒廃した世界において、未だより良い未来を見る勇気ある者たちが少しばかりだが存在する。社会主義、その暴力的冷笑主義やマルクス主義、そして加速主義に汚されていないもの――真の人類同胞、歓喜に満ちた全地球の仲間たち。ロンドンの歴史家たちが何を説こうとも、ドイツの理論家がどう反論しようとも、空想的社会主義の理念は依然として息絶えてはいない、むしろ目覚めつつあるのだ。
空想的社会主義と呼ばれるものは実のところ、シャルル・フーリエのリビドー的ファランステールや、アンリ・ド・サン=シモンの機械音の産業主義など、多くの教義から構成されている。しかし、こうした多様性にも拘わらず、これら全ては一つの幻想の中で結ばれている。つまり、人間性そのものの極致だ。空想主義者は一般的に人間の本質に肯定的な見方を持ち、暴力革命を提唱することは殆ど無く、そして新世界を創り出す為に必要である強固な道徳的原則の重要性を強調しつつも、その代わりに資本主義の不正を打ち倒す勤勉な労働の力を信じている。空想主義を中傷する者たちはこの感情をナイーヴだと言ったり、この夢は不可能であり、近代性の鉄の試練が与えられると言ったりするのを好むようだ。しかし、この高邁な理想は今なお支持者を集めている。
些細な欲から解放され、他者と互いに完全な調和を成した中で生きている、人類の為の新たな春についての構想は、近代性の危機を克服する希望の煌めきに引き寄せられる内にこれを知った者たちを、魅了して止まない。世界中に暗雲が立ち込める中、地球人類はこう自問する。空想的社会主義は本当に歴史の掃き溜めへ送られることが運命付けられているのか? それとも、平和と栄華の新時代に人類は優雅に歩みを進め、その夢がいつか単なる幻を越えたものになるのか?
宗教社会主義 (Religious Socialism)
社会学者や社会主義者に名付けられる以前から、連帯は存在していた。共同体や慈善事活動には、信心者の共同体とその善行の場があった。1800年代のアメリカ及びヨーロッパにおける革命政治は、しばしば反教権的色合いを帯びたり、或いは完全に無宗教的であったりしたが、社会主義運動の中では、その政策が公然と宗教的であることはないとはいえ、少なくとも組織的な宗教に対し親和的な者は未だ多く存在していた。イギリス政治における労働党系派閥は、マルクス以上にメソディズムの教義に負っているという冗談さえあるほどだ。やがて、「大衆のアヘン」を捨て去る決心ができない虐げられた人々へ訴え掛ける、ゴルディアスの結び目を切る者が現れ、そして宗教社会主義というものを明確に打ち立てるだろう。
確かに、啓蒙的パラダイムにおける個人主義から立ち直ろうと試みる運動はこれだけではないが、労働者運動への重要性は明白である。その真偽はともかくとして、社会主義者の訴えに感化されたかもしれない人々の多くは、神殺しの急進主義の亡霊を前にすると、すぐに目を背けてしまった。土地改革の約束が地方を味方に付けるには不十分である場合、如何に彼らの古い伝統が社会主義との共通点を持つかについて明瞭化することで疑念を払拭できるかもしれない。依然として既存の教会ヒエラルキーはこれらの傾向を異端として宣言できるとしても、ドイツ革命を認めたボニファティウス10世の決断を無視し難いことだろう。宗教的連帯と階級的連帯は、揺らぐ旧秩序に取って代わるに必要な連合体となり得るだろうか?
当然ながら、宗教社会主義の解釈はその宗派毎に異なるものであり、その運動における政策に対する信仰からの影響の程度もまたそうである。政党に所属にする者もいれば、教会や農民組織に所属する者もいる。キリストのレトリック、仏教の反物質主義、イスラームにおけるザカートの観念、或いは他の宗教における社会主義と類似する教義、いずれを強調するのであれ、共通する因子はその社会的・経済的正義における観念が信仰――即ち、どのような宣言書よりも永続的な基盤――に根ざしているということだ。
秘教社会主義 (Esoteric Socialism)
多くの世俗的な信条体系は、宗教のようになってしまうのではないかと揶揄されてきている。あるイデオロギーや運動の実践を見て、極めて偏狭な宗派と同等に教条的なものであるとして描写することは、古臭く取るに足らないレトリックに過ぎない。そのジャブが唯物論者や無神論者を公言する者の世界観に放たれれば、一層愉快なものとなるし、社会主義者と徹底した共産主義者はこれをよく知っている。しかしながら、近代世界における意味の探究が汎ゆる種類のカルトや学者集団を生み出すにつれて、社会主義をニッチな霊的幻想と渾淆させたものが現れるのは必然であった。そうした組織が自身の政治権力を見出した時、その結果として生じた統治形態は、秘教社会主義と名付けられた。
この社会主義思想の系統が、主として非唯物論的と考えられるからだろうと、或いは単に霊的又は千年王国的幻想と密接に関係しているからであろうと、その結果は従来の社会主義運動とは全く別物となる。秘教社会主義者のモデルは、前衛党や議会政党などではなく、宗教団体や秘密結社を主な政治的権力の中心として当てにしており、おそらく初期段階では既存政党の中で機能しているかもしれない。この組織の構造はしばしば非民主的かつヒエラルキー的であるものの、構成員を招き入れる儀式は、その集団との連帯及びその政治的原則への貢献を保証する役割を果たすであろう。如何に誤りを犯し得る者が平等を追求したとしても、その働きに霊的な次元を与えることで、戦友を慈しむのであれ初心な大衆を慈しむのであれ、その者の意志を強めらるのだ。
1930年代に入ると共に大部分が理論的となったこの世界では、一体どの傾向が優勢となり得るのかは分からない――それはマルクス主義を第一とする分派だろうか、それとも同様の結論に至ったより霊的な世界観だろうか。社会主義の曲解であろうと、或いは社会主義により大きな意味を与える手段であろうと、秘教社会主義を簡単に分類するのは不可能だ。だが、近代性の痛ましい痙攣に苦しめられる世界もまた同様である。その使者は、もし人民が自らの労苦や不安からの解放を求めるならば、同様に彼らの魂も解放すべし、と主張するのである。
国民派社会主義 (Nationalist Socialism)
永続する連帯を見つけるのは難しく、取り分け他の連帯と対立してしまうものだ。赤旗を振るう人々は反愛国的勢力だとしてしばしば非難されるが、彼らの全てが自らの国旗を忘れた訳ではなく、利害の一致を見ている訳でもない。それは十分に発達した意識が無いからだろうか? 若しくは、祖国を否定することが、その国の労働者階級の歩調から外れた行進となってしまうからだろうか? 後者を選んだ社会主義政党は、国民派社会主義のイデオロギーを定義するようになった。
この現象は20世紀初頭における幾つかの流行の集大成だ。後発開発途上国では一般に、それは国民創造計画のもう一つの現れである。この場合、その支持者は国家指導の経済政策を、生産力向上と大衆の国民的連帯とを促進させる発展手段として見做している。ヨーロッパでは、大戦の勃発が国際的同胞愛を以上に祖国を選んだ社会主義者を多く生みだしもし、一部には指導された戦争経済と集団統一の意識とを自分たちの目標に似たものとして見るようになる者さえいた。それ以前の場合でも、多くのイタリア人がアフリカでの彼らの帝国の拡大と大戦への参戦とを革命的使命として見做した――世界の裕福な諸帝国と比較すれば、イタリアはむしろプロレタリア的ネイションではなかったか?
国民派社会主義、その教義たるものは具体的とは言い難い。その信奉者の一部は加速主義若しくは社会主義のより権威的な形態の方へ引き寄せられた者もおり、なおも残留した者たちによってしばしば定義されたものが残されている。これらの運動は未だ一般的に議会主義的かつ社会主義的であるが、労働者に祖国無しという古くからのマルクス主義路線を受け入れるには遠く及ばないところに留まっている。このため、彼らと第二インターナショナルを公言する政党とは対立する傾向にある。加えて、実践的な開発主義的理由の為か、或いは連帯の意識からか、これらの社会主義者たちは「愛国的ブルジョワジー」はその富と産業にによって社会主義の課題に貢献できるとし、彼らに対しより融和的な傾向がある。国民派社会主義は、文章でも精神でも修正主義的として非難されるにも拘わらず、ベルリンの社会民主党はその感性において全てのプロレタリアの代弁者たり得ないことを思い起こさせるのだ。
進歩主義 (Progressivism)
進歩民主主義 (Progressive Democracy)
世紀の変わり目に産業機械が発展し、それを取り巻く生活が形を変えていくにつれて、社会改革者たちが数十年間指摘してきた問題は、大半の一般民衆にとっても無視できるものではなくなった。不衛生な生活環境と病気の蔓延、労働者の酷使とそれが引き起こす暴動、これら全てが行動を要求した、それは血塗れの革命で社会全体を転覆することに抵抗を感じる人々にさえ。政府の管理能力が向上すると共に、そして統計的測定や科学的研究の新たな手法が編み出されると共に、以下のような疑問が生じた。これらを民衆の状況を改善する為に使えないだろうか? その結果として発生した傾向は進歩民主主義と名付けれらた。
このイデオロギーが単に「進歩主義」と認識された場合でも、人間と社会とをより良くするという大義の中に根本的な信念が表されていることは同じである。啓蒙思想における経験論により病気の原因を発見されるにつれ、またその議論よって教育の価値や不可侵の権利を支持されるようになるにつれ、野蛮に対抗する、目指すべき普遍的理念が存在することは広く認識された。この理念へ向かって進む障害は、貧困、貧弱な公衆衛生、非識字といった諸問題に特定された――そして、それらに対する意識が高まるにつれ、改革を志す者たちが大衆政治の世界にその原因を持ち込んでいった。
進歩民主主義はそれ故、進歩の価値を支持し、それを追求するために民主国家的な手段を採る傾向がある。もちろん、進歩それ自体はその定義付けに対し異議を唱えており、それは自由主義や保守主義がそうであったように、歴史上その時々の問題に対応する為に時代を経て進化してきたからである。公衆衛生の価値は、一方では都市衛生への病原菌説の適用を齎したが、他方では優生学計画への遺伝率の適用も齎した。教育の価値と世俗主義は公立学校と植民地の文明化の使命を正当化してきた。しかし何よりこれは、政治的現象として、大きな社会的苦難に直面した時、国家は国民的努力を通じてこれらを改善することが可能であり、またそうすべきだと考えているのだ。
進歩協同主義 (Progressive Corporatism)
1789年フランス革命によって解き放たれた稲妻は、もはや覆水盆に返らずであること証明した。革命とは世界中で直線的かつ普遍的なプロセスであるとはとても言い難く、覆そうという試みも多くあったが、玉座や祭壇は時代を経る毎に世俗における権威を喪失していった。生まれたばかりの自由主義の情勢に対する明らかな批評は伝統主義者たちから齎されたが、彼らだけではなかった。19世紀半ばには、新しい別の批評者が現れた、それが進歩協同主義だ。
人類の協同組織化という観念は古代からあるものだ。プラトンやアリストテレスでさえ、人々が社会の役割に従って組織体へと分類されるモデルを思い描けていたのである。各自の職業毎に組織化されていた封建時代のヨーロッパの大ギルドは、この実践における一つの例だ――しかし、それらは伝統主義者の理想だけに留まりはしないだろう。産業化と階級間緊張が激化するにつれて、そして家族やギルドのような伝統的な社会関係が崩壊が疎外感を齎すにつれて、社会主義者や哲学者たちは人々の間の連帯を再構築する為の新しい組織を提唱し始めていった。
このサン=シモンやデュルケムの世界に、カトリック社会教説が入り込んだ。教皇レオ13世は協同主義の研究を任じ、そして1891年に回勅『レールム・ノヴァールム』(新しき事がらについて) を発表し、その内容は正義と尊厳を基盤とした経済の必要性を強調し、祝福を労働組合に与え、資本と労働の間の協調をを親身に呼び掛けた。聖ペトロの玉座の継承者の全員が同様の考えではなかったものの、資本主義と社会主義の間の道の為の――啓蒙思想そのものを否定することのない――バチカンの研究は、多くの人々を奮起させたのである。
宗教的分配主義に根ざすものであれ、ギルド社会主義に根ざすものであれ、進歩協同主義は依然として、自由主義におけるアノミーや戦闘的近代政治における非人間化、そして反動主義の隔世遺伝の間で舵取りしている。集団的組織と階級全体に権利を付与している国家は、より幅広い社会の改善と調和の為の協調を促す。紛争に引き裂かれた世界の中にも、依然として互いに愛し合う為の時間が存在することを強調しているのだ。
自由社会主義 (Liberal Socialism)
1789年の後継者たちと1918の後継者たちとの間、自由個人主義的伝統の子孫たちと集産社会主義者たちとの間、そこには深い隔たりが生じている。しかし、ドイツ社会民主党 (SPD) はそれが不可能となるまで、議会制度の中で活動していた。エドゥアルト・ベルンシュタイン、SPD右派の頭目であった彼でさえ、社会主義を自由主義の組織化された形態の一つであると定義したのだ。両派の野望を一致させる使命は、自由社会主義の理論家たちに掛かっているのかもしれない。
この傾向の基盤は一般的にイギリス人の改良主義者たちから始められたとされるが、完全にそうとは言い切れない。ジョン・ステュアート・ミル、表向きは19世紀にイギリス自由主義の導燈であるとされる彼は、社会組織の原則として民主主義の理想を記したが、これを実現する為の手段として経済的再分配と労働者所有の協同組合とが必要であるとも考えた。時代を下れば、フェビアン協会が道徳的経済について、これは搾取的なランティエ階級を切り捨てて社会正義に貢献するものだとして説くようになった。プルードンの称揚した労働者自主管理やゾンバルトが記した混合経済もまた、ヨーロッパ大陸にその種を蒔いた。ドイツ及びハンガリーの革命に参加した者たちの内、自由主義者の場合、自らを革命後の新しい現実に適合させていくにつれて、また一部の社会主義者の場合、革命の成果を保護する為の動員と国家テロルの下で苦慮するにつれて、内在する政治的懸念はこのイデオロギーの更なる拡大を生じさせた。
こうして現実に自由社会主義国家が実現されたのである。これは実践において、分権的秩序、平等主義と主意主義の原則、及び官民混合経済を求める。革命的な中産階級の忠義を守る為であれ、或いはブルジョワジーに尽く挫折させられてきた自由への野望を成し遂げる為であれ、政治的二極化に拘わらず、世界の一部における反体制的時流としてこうして残り続けてきたのだ。社会主義よ、正義と自由の名の下にあれ!
左翼大衆主義 (Left Wing Populism)
選挙遊説を行う者の多くは、あなたにこう言うだろう「民衆の為に」と。時には、マイクの前に立っていない時にも、これが本心たることもある。しかし多くの改革者の夢は「普通の政治」によって打ち砕かれてきており、それは妥協と腐敗が必然的にその手を汚させ、かつ野心を飲み込ませるからだ。庶民の不満が高まり、制度がそれ自身の維持にしか興味が無い為に彼らの声に応えられないことが証明される時、誰かが、そして庶民の運動が、民意を反映する為に政治的土俵へ足を踏み入れるだろう。彼らの綱領やレトリックが社会主義又は進歩主義との類似点を持つ場合、これは左翼大衆主義の一形態として分類されるだろう。
大衆主義というラベルは極めて曖昧だが、この文脈においては、幾つか共通の特徴がある。その大衆主義運動は従来の政党の外側で生まれ、抗議活動などの公的なキャンペーンとして出発した後に、独自の政党を形成したり、既存の政党の内部派閥となったりする。彼らが左翼として説明される場合、その理由は、経済的再配分を課題としたり、平等主義的な社会改革を主張したりすることである傾向がある。しばしばカリスマ的指導者か特定の不満を背景に始まり、通常は社会主義に分類されるようなものよりも、教条的でなく、習合的でさえある、政治的綱領を策定する傾向がある。
左翼大衆主義運動は、定着した政治的利害に反抗し険しい道を進むにも拘わらず、固有の長所を数多く持っている。精力的かつ正真正銘の指導者は既成の候補者たちよりも広く支持者を集めることが可能であり、政党間の垣根を越えて、そして政治的に無関心な人々にも訴え掛けられる能力を持つ。更に、良心の呵責に因われない、或いは現状維持への意欲を持たないこの人物は、その政治的障害に対して思うがままに力を発揮することができる。大衆主義運動の矛盾が自らを破滅させてしまうのか否か、またこの運動が自らの批判する支配体制に内に取り込まれてしまうのか否か、そして民主主義が自らを復活させる能力を未だ持っていることを証明できるのか否か、これらは決して予測できず、不明瞭なままなのである。
社会国民主義 (Social Nationalism)
暗記型のマルクス主義のアプローチではネイションを、その国境を越えた労働者の連帯に反対するブルジョワの創造物として見做している。また、国民主義を利用することの内在的危険を理解する者もいる。これは即ち、国内外両方の敵への攻撃を活気づける為に旗を振るうような場合があるということだ。しかし、こうした警告にも拘わらず、左翼政治、議会制民主主義、国民主義が連携作用する場所、つまり進歩主義と国民主義とが政治運動の中で意図的に結合された場所が存在する。特に大戦以後の各地で国家独立が果たされていくにつれ、この傾向は社会国民主義として定式化されていった。
ネイションの理想がかつて伝統や反動と真っ向から対立したことは忘れられるものではなかろう。共和派国民主義はヨーロッパの多くの地域で封建制の残滓を、聖職者の特権的地位から祖国を分つ貴族の荘園の領地に至るまで打ち砕いた。さらに、1789年と1848年の革命は自由主義的な性格だと考えられているものの、平等主義者の陰謀から共産主義の創始者たちまで、多くの参加者が政治的左翼の出身であると認識されている。独立闘争や、未だ根強い封建的権力制度、或いは他のナショナリティによる支配の時代の余波により、大衆の政治的動員を実行するには困難な諸国において、国民同一性は依然として国を跨いだ集団性を構築するための強力な手段である。我々はイタリア統一に関する次の言葉を忘れてはならない。「我々はイタリアを成した、今我々はイタリア人を成さねばならない。」
社会国民主義はその定義によれば進歩的イデオロギーとされ、民衆の物質的状態と社会的地位の向上を必然的に伴う。それは全国民に国民同一性を教え込むことに夢中な同輩たちとは異なるのだ。それを生み出す条件――新たに勝ち取られた独立、或いは封建的な立ち遅れ――は確立された世界的大国の辺縁、特に帝国主義的所有物の中で、成長に導かれる傾向がある。世界的な勢力均衡が移りゆき、そして政治意識が世界の周縁で育ちゆく中で、かつてのフリュギア帽が再び人々に被られるのかもしれない。
自由主義 (Liberalism)
古典的自由主義 (Classical Liberalism)
1600年代及び1700年代ヨーロッパの哲学的・政治的潮流が近代の政治理解にどれほど影響を与えたか、それは計り知れない。君主の玉座や司教の祭壇のような伝統的中央権力、或いは封建主義やギルドのような伝統的社会関係は、人類と政府の本質に関する論説によって明白かつ暗黙に問われている不可侵性を持っている。世界のその他の地域の接触を通じて、また印刷機と民衆の識字率向上との手伝いもあり、数多くの地球規模の政治思想が――自由主義と保守主義の最も基本的な理念から生まれ――このヨーロッパの啓蒙時代の陰に存在してきた。数世紀に亘る発展を経た今、古典自由主義の定義が固まり始めたのである。
啓蒙的自由主義思想の根源は多くの原則があった。ロックやド・コンドルセは自然権――それは集団的というより個人的なもの――を解説し、これを人々に気づかせ、実践させた。彼らが望んだ政治的転換の程度は様々だが、その希望は立憲主義に基づく制限君主制であれ完全な共和制であれ、人民を代表する政府を手にすることである。商業貿易における重商主義的、国家統制的なパラダイムもまた、その未来を自分自身で切り開くことができる賢い個人の中に美徳や可能性を見た、新しいブルジョワ知識人たちの潮流による挑戦を受けた。
それでも、前述の原則は自由主義全体にとっての共通遺産である。古典的自由主義は、主に新しい秩序の下に発生した経済問題にどのように対応するかについて、時間の経過と共に分化した他のイデオロギーと比肩してもはっきりとしている一つの傾向となった。ある面では、この流派は自由主義の守旧派であり、国家の役割を拡大する余地があると考える者も他には存在する中で、彼ら自身は個人の自由の原則を固守している。しかしながら、忘れてはならないことは、多くの国々において自由主義は劇的な変動を通じて登場したことだ。封建的秩序が残る世界の一部では未だに、古い自由主義の綱領は知る勇気を持つ者たちにとって革命的な可能性を秘めているのである。
社会自由主義 (Social Liberalism)
君主主義が絶対主義や立憲主義といった異なる系統へ分かれていったことと同じように、自由主義の潮流も必然的にそれぞれの流れへ分かれていった。一度フュリギア帽が戸棚に仕舞われてしまえば、自由と権利の意味するものは何かという疑問は、純粋に理論的なものではなくなった。哲学者や革命家が集うサロンの外では、偉大なる自由主義の実験が行われた広い社会があり、そこには差し迫った懸念事項が未だ残されていた。この対応として、19世紀末に新たに分化した傾向は、社会自由主義と呼ばれるようになった。
自由主義学派の中での差異は早くから発生していた。アダム・スミス、自由市場経済の第一人者である彼は、財産を個人的な制度ではなく社会的なものとして見做した。議会主義者にして哲学者のジェームズ・ミルもまた、効果的な統治と参政権拡大の線に沿って啓蒙的自由主義を発展させ、その息子たるジョン・ステュアート・ミルは更に踏み込んで、自由と権威の望ましい制限についての考察を行った。おそらく国家には全ての市民が自らの権利について学び、行使できる状況を維持する積極的義務があるのだろうと、彼は考えたのである。このような理論に基づき、世界の自由主義的な諸政党は最初の福祉国家の建設を開始したのだ。目下の物質的欲求についてより適切に対処され、手の届く所に自分自身を成長させる為の道具があることを以て、個人は自然権よって保証されたものを活用する力を得るのである。
社会自由主義は依然として啓蒙思想の産物である。如何に社会改革を提起しようとも、そして如何に労働者と資本家の関係を円滑にする為に介入をしようとも、やはり国家を社会の究極的な管理者と考えることはない。個人は未だ自らの運命をその手の内で握っているが、彼らの政府はそうした諸個人をより良く育てる社会的な善と安全とを調整するのである。自由主義の覇権に対する過去1世紀に亘る挑戦にも拘わらず、これが単なる崩壊の時を迎えていない現状ではなく、意識的かつ継続的な選択であることに、希望は未だ残されている。
リバタリアン資本主義 (Libertarian Capitalism)
カール・マルクスは、封建主義を捨て去る中でブルジョワジーが革命的役割を果たしたと記したが、直近の問題はそれと替わったものがどのように生き残るか、ということになる。個人が集団に取って代わった時、どのように新発見の自由を維持させるのか? 啓蒙思想とその不満の解決策は、自由主義の成果を後退させることにある訳ではなく、また達成したものを擁護することに懸かっている訳でもない。そう、その解決策は、この努めが未だ終わっていないということを認識することなのだ。資本主義は必要悪でも、可能な選択肢の中では最も増しなものでもなく、前向きで生産的な理想であり、人類繁栄の為の最も完璧かつ公正な手段なのである。準備不足の者はその結論に躊躇するかもしれないが、そうでない者はより大胆なもの、つまりリバタリアン資本主義の道を選ぶのだ。
この傾向の知的背景は甚だ明らかに、自由主義の進化である。自らの利益を目的に合理的行動をする為の個人の能力を強調し、そして基本的人権――特に財産権――への準原理主義的考えを遵守する。しかしながら、ヒエラルキーと国家権力に内在的な暴力とに対する無政府主義的解釈へ明確に目を向ける者もいる。その結果は相当多岐に亘るが、その最終的目標は、最小限の統治を行う自由主義国家である――これは時に、国防と法執行への関与が主である夜警と見做される。また、表現の自由は基本的価値観であるが、大衆が新たな束縛を自分自身に設けてしまうような投票しないように、特定の原則が政治議論の問題となるべきでないという考えを抱く者もいる。
世界中での国家主義的傾向の侵略とは対照的に、リバタリアン資本主義は英雄的で自然体なものを提示する。一方では自由主義国家の最終的堕落であると、他方ではその最も純粋な搾取的表現であると、それぞれ非難されながらも、大戦終結以後、従来の自由主義政党ではある程度の信頼を得ている。私利私欲の為であろうと、或いは権威的潮流に対して抗う咆哮としてであろうと、その支持者たちはその約束を信じている。つまり無限の可能性が、世界を根本から作り変えんとする大胆な者たちを待っているという約束をである。人間がこれを手にすることを阻止する、如何なる権利が暴君にあるというのか?
国民自由主義 (National Liberalism)
フランス革命とナポレオン戦争がヨーロッパを跨ぎ自由主義の啓蒙的概念を広げたものの、それと共にネイションという観念も運んできた。何と言っても、共和制とはフランス国民全体を意識的に強調していたものであり、彼らの分断された統治議会を強調したものではなかったのだ。この騒動の後、旧体制が自らの復活を追求していた頃に、二つの理想はその大望の挫折と、それらの上に立つ王や帝国への反抗の為に一致団結するようになる幾つかの事例を得た。加えて、1800年代後半を通じて、既に政府内で発言力を持った幾つかの自由主義運動が国益への関心を高めた。その結果、国民自由主義と呼ばれるものが現れたのである。
このイデオロギーは一見すれば矛盾の縺れのようにも見えるであろう。国家独立の遅れた地域では、全国民の団結と、国家の独立維持の為の富国強兵策に没頭することがあり、これは個人の権利と自由な経済行動とを支持する自由主義の基本についての妥協に繋がった。保護主義や地場産業を支える国家的補助はもはやタブーではなく、強力な中央政府の存在は国民動員、又は同一性に大きな隔たりがある住民の統制を維持することなどに必要な取引条件となった。それ故に、長く帝国に隷属していた地域もちろん、初めは地域主義を締め付けようとしていたオーストリア=ハンガリーやドイツ帝国をも含め、様々な地域で自由主義は支配的な性質となった。さらに海を越えて、アメリカ合衆国の進歩主義運動にも、より積極的な外交政策を追求し、地域と移民者の同一性を統一的なアメリカ国民主義の内への包摂を意欲的に試みた自由主義改革者が参加していた。
だが、この国民自由主義の遺産となるのは何であろうか? それは啓蒙思想の基盤が主張するものの限界を例証するものであろうか? それは「棍棒」外交と産業戦争に対する力感豊かな反論、活力ある国民国家と並び行進する自由主義であろうか? それが真実であろうとなかろうと、このイデオロギーの実用主義は中央の他党に影響力のある協力者を作り出す。反対派には彼らの高邁な理念を維持させておけばいい――彼らはいずれ我々の努力に感謝できるようになるであろう。
保守主義 (Conservatism)
自由保守主義 (Liberal Conservatism)
政治的ラベルは対象を変え続ける。自由と保守、左翼と右翼、反動主義者と革命家、こうした用語は絶対君主制の全盛期やフランスの球戯場の誓いから具体的に変化してきた。20世紀の半ばにおいて、これらが表すものは、彼らがどのような現状について論及しているかによって評定されなければならない。これは、二つの移ろいゆく理想の名を冠するイデオロギーを描写する時、特に重要であり、即ち自由保守主義についてもそうである。
啓蒙思想の哲学者たちは、必ずしも統一された傾向を体現した訳でなかった。ある種の自由主義的或いは共和主義的野心に二の足を踏みつつも、民間資本主義の勃興と個人の権利の観念とに大賛成する者は数多くいた。イングランドのバークやフランスのド・トクヴィルらは、彼らが非難したフランス革命のような出来事とは対照的な、改革的として見做される傾向の代表者であった。封建主義についての問題がもはや適切でなくなった時、彼らの後継者が警告したり部分的に採用したりしたものも同様に、新たな改革派や急進派へと転じた。
自由保守主義、現在の政治的空間においてのこれは、啓蒙思想的な計画を受け入れつつある。自由市場や議会政治など、そうしたものは解決済みの問題だ。しかし、個人の権利と伝統的価値観との信条の十字路には、自己責任を原則として自らのアプローチを組み立てる者もいる。公衆道徳は支持する価値のあるものだが、富の再分配や社会工学はより偏見的な目で見られるようになった。体制全体を覆し得る集産的急進主義対して、或いは横暴な政府介入に対して懐疑的な自由保守主義は、自由民主主義の冷静な考え直しとして機能し続けている。エドマンド・バークが第一次フランス革命によって撒き散られた流血への反対に立ち上がった場所で、彼の後裔たちは同様の嵐へ立ち向かう準備をしているのだ。
社会保守主義 (Social Conservatism)
我々の知る世界を摩耗させる、潜在的な趨勢やプロセスが存在する。大衆の識字率向上は、啓蒙思想の理想を大衆へ齎した。大洋越えたところでさえ、国王や教会の優位性は疑問視された。資本主義の新時代は、職人たちを団結させていたギルドを台無しにした。産業化とそれに伴う都市化は、古い職業と家族関係を破壊した。
浸食、これもまた一つのプロセスだ。全てが海へ流されてしまう前に、基礎を固めたる必要がある。自由主義的な統治が現れる以前から、長い間社会の根底としての役割を果たしていたものを無くした際の影響について考える哲学者は存在しており、彼らは少なくとも慎重な考慮をしないことはなかった。そして今、程度に差はあれど、正当性を主張しているのである。
社会保守主義にもし国家や文化の垣根を超えた統一された特徴があるとしたら、それは伝統的な社会構造――労働、家族、文化の前述の形態――を維持し守り抜きたいとする願望である。これと従来の反動主義的運動とをイデオロギーの部分で区別する要素は、自由民主主義的政治構造の中で活動することを望んでいる点だ。こうした範囲の内で、世俗主義よりも信仰が、個人の幸福よりも集団の幸福が、公衆道徳を奨励する為の法律を駆使する国家によって奨励・支持されるだろう。しかしながら、この保守政権の経済政策は政党毎に異なる場合がある。ある政党は家庭や地域経済への世界的混乱の影響を減らす為に支出増額、補助金、そして保護主義を唱えるだろう。一方で可能な限り怠惰や逸脱を抑制する為に緊縮財政を好む政党も存在するだろう。
そこへ到達する手段に相違はあるものの、古くから変わらないものが齎す心地良い抱擁は、世界中どこでも十分な魅力を持っている。個人の権利や議会政治といった啓蒙思想の遺産を破壊してしまう必要はないが、社会保守主義者の保証するものは、人々を一つするとして知られるものに基づく共同体である。近代性の保証したものがその帰結に直面し、不満を抱いた人々が血気盛んな急進主義に誑かされるような世の中で、我々が未だ失ってはいないもの、それを手に取って胸に抱く時が来たのかもしれない。
右翼大衆主義 (Right Wing Populism)
大衆の叛乱とは、左翼や右翼だけの現象ではなく、また常に新秩序を求める声だけではない。歴史の記録の中には、国王の名の下での農村叛乱から、古くからの暮らしぶりを破壊する新たな生産手段に対する猛烈な抗議に至るまで、始まってしまった変化を取り消そうとする試みが多く残されている。しかしながら、全ての右翼的煽動者たちを原始人や逆行的な蒙昧主義者として分類することもまた誤りである。時には、政治運動がカリスマ的人物と大衆の上げた不満の声に包まれたものとなり、その声明は古い価値観、国民的誇り、強い指導力といった馴染みのある言葉を語りながらも、彼らは熱心な民主主義者であるかもしれない。保守主義がこのような装いで現れ、旧弊的な政治体制を揺るがす意図を持つ場合、それは右翼大衆主義の一形態であると断定できる。
その左翼的な片割れと同じように、この傾向は時折、政治構造の外側の運動として生じた後に、政党を形成したり、或いは既存の政党の一派閥となったりする。同様に、既成の政治的舞台の外で始まることは、折衷的で習合的な政治的綱領を齎す。他の保守主義のように、その経済的目標は、高い税金と制限を策定する体制の打倒であったり、若しくは古くからの産業や国内産業を保護する為の規制国家的な統治の追求であったりするだろう。これを右翼として定義するのは、伝統的秩序に対しより重きを置く傾向である――もし大抵の一般庶民が今日と変わらないような明日の訪れを望んでいるのならば、政党エリートによる隠れ社会主義や、資本家による経済的エリート主義は、本当に民衆の代表たり得るのだろうか?
右翼大衆主義は、政治的部外者に対する汎ゆる障害にも拘わらず、驚くほど実効的であることを証明できる。本気であるという印象、そして時折生まれる共通の優先事項、これらはこの運動が得られる投票基盤や選挙同盟の拡大を可能とする。同様に、過去の政治手均衡を保つ為の行為を覆すことに恐れを抱かないことは、指導者の予想する以上の早さでネイションを作り変えることを可能とする。護民官の称号を取り戻すことで、保守主義はもはや単なる現状維持ではなく、民衆に権力を取り戻すものであると見做されなければならないのだ。
国民保守主義 (National Conservatism)
過去おけるネイションの前衛は、恣意的に描かれた封建政治を克服した市民の権利を称揚していた為、殆ど自由主義と同一視されていたであろう。1848年の蜂起は衰退した諸公国や軋む諸帝国の下で湧き上がり、教会や玉座に敬虔とされる者を主とする体制支持者に対抗する、ブルジョワと都市を主とする革命的中核を据えた。しかし時の流れは当時の政治的問題を変化させ、そして大衆政治の台頭と共に、現状維持と保守の主流派との顔は移り変わってきた。国益はグローバル資本の陰謀の中に取り込まれてしまったのか? 社会主義の台頭は全てのネイションを赤い波で洗い流してしまうのか? 我らの知る世界は、国民保守主義を必要としている。
この傾向が優先するものとは、端的に言えば、行使可能な民主的手段による国民同一性と国益との保全である。その関心は地域毎に異なるが、家族や文化的慣習、民衆の同一性のような、同じであると認識できる伝統における特質を明示する傾向がある。もちろん、保守主義との親和性を持たない訳はなく、ネイションに掛かる圧力は、これまで適切であると考えられてきた大きさ以上のツールキットを要求するだろう。伝統的社会秩序の保護を強調する保守派がいる一方で、国民保守主義の系統は単純な企業規制と産業助成から国力と安定との為の徹底的な協同主義に至るまで、国家が高邁な志の目標の為の行動的かつ創造的な役割を果たすことをより求めている。
その自由主義的な親類と同じく、国民保守主義も近代の苦難に対する集団的応答として進化してきた。それは世界的危機――地図上のの線を無視するほどのそれ――に直面した時、自国と国民を守る為の強い手が必要であると主張している。しかし、怒りに任せて武器を振りかざせば保とうとしている変わらない現状を本質的に危険に晒すことになるのであり、それ故このイデオロギーは弱りゆく世界に向けたより権威的な対応とは区別されて存在し続けている。
多頭制 (Polyarchy)
アノクラシー (Anocracy)
共和国と王国、反動と革命、自由主義と権威主義。ある時代のイデオロギー闘争を、明確に定義された二つの陣営に単純化することは魅力的である。大戦の余波の中、新しい国際的な運動が盛んになっても、政治を論じる際に「自由」と「不自由」の境界の線引を試すことは未だ可能である――しかし、簡単に分類できないものもある。大戦とそれに続く不安定によって生じたこの勢力は、イデオロギー的綱領の全体化に対する執着を持たないものの、代議制的でもなく、また単なる平凡な軍事独裁制でもない国家を生み出した。専制的制度と民主的制度とのハイブリッドであるこのような体制は、アノクラシーとして分類される。
当然ながら、数多くの政府がこの分類に当たるだろう。ナポレオン3世のフランス第二帝政は、帝位の正当性が時折行われる国民投票によって裏付けられ、国家と経済が様々な利害関係者からの圧力によって自由化されていることから、これに合致するといえよう。時には、アノクラシーは言葉の上では立憲的で代議制的であっても、実際には単一政党が国家制度や後援ネットワークの統制を通じて支配的となったり、合法的なな反対派が狭い許容範囲にしか存在しなかったりする場合がある。また時には、権威主義的な体制と定義されながら、党内選挙や一部の事項についての国民投票のような、国民の政治意識を方向付ける為に民主的な機能を備えている場合もある。このハイブリッドな体制は、政府が当初意図した設計ではなく、内外の圧力によって時間を掛けて進化した状態であるかもしれない。
アノクラシーの観念には、理想主義的なものや教義的なものは殆どない。世界中の準専制国家や一党優位民主制国家を束ねていると称するようなアノクラシー・インターナショナルは存在しない。しかしながら、この体制が適切に管理された時、他の政府と同等に安定し、決断力のある統治が実現できる。指導力の質が、この体制が進化の体制となるか、或いは停滞の体制となるかを決定するのである。
国民民主主義 (National Democracy)
理想主義者が何を言おうと、ネイション間の競争はゼロ和ゲームである。大戦がそれを十分に証明している。その本質的な真実を忘れ、現在進行形の闘争を無視することは、全てを危険に曝すことになる。国民の混乱と政治の行き詰まりの産婆と成り果て堕落した自由主義は、その典型である。しかしながら、代議制民主主義の概念、つまり無関心な貴族ではなく、民衆がその政府に声を上げることに本質的な欠陥がある訳ではない。かつてのアテネやローマの市民民主主義は、参政権を愛国的義務と軍役奉仕とに密接に結びつけた。自由主義の罠――弱点――を取り除き、純化され強化された観念の遂行が実現する、それが国民民主主義だ。
しかし、この傾向を定義するものは、非自由共和主義という漠然とした観念以外に何があるのだろうか? おそらく、この名前を最初に作った理論家はポーランドの国民主義者ロマン・ドモフスキであろう。彼への信用はロシヤ帝国との融和を図る態度により失墜したものの、彼の組織であるエンデツャは民主的だが反多元的、かつ中央集権化されたポーランドという構想を推進した。戦後のフランスで短命に終わった極右政権は、君主主義と連携する者が主だったが、第三共和制の派閥主義をひどく糾弾する共和主義者の一派も参加していた。民主主義を完全に放棄する後継者がいる一方で、民衆とネイションの結束が政党と民主的プロセスを通じて表現され、時には指導者が民の体現者であると考えた後継者もいた。
実際には、国民民主主義はより強い政府権力を支持する。もし指導者や政党が民衆を体現しているならば、自由立憲主義が多数派の意思に課すある種の制限を排除することが可能となるであろう。こうして権力を得た体制は、政治的にも文化的にも国民の結束に対する脅威について考慮する必要がなくなるだろう。しばしばイデオロギーの名前の二つの部分が互いに競合することもあるが、このラベルは党内外の民主的構造を維持する政府を指しているのだ、それがどれほど反対派を落胆させようとも。自由主義の構造的腐敗から解放されたこのイデオロギーは、歴史書の中に埋もれることなどない唯一の代表的政府を可能にする、と彼らは反論するのである。
寡頭制 (Oligarchy)
人類史上最も古い組織形態たる寡頭制は、極めて単純な概念である。つまり血や地位、或いは富や使命などを通じて繋がった特定の人間同士が結束するというものだ。少数が多数を支配する政府のこの基本原則は、必要に応じて改良と明確化がされながら、いつの時代にも不変のものであり続けている。
この一見下品な存在は、その裏に多様性、形態、機能、そして現世代に至るまでこの現象が経験してきた複雑な発展の濃厚さを潜めている。諸制度の中庸 (Golden mean) であるとギリシャ哲学者たちによって考えられたこれは、君主制と民主主義の間の等距離点であり、従ってその美徳は国家を効果的に支配する能力と法の適用における固有の制約との両方であるとされた。大きな危機が迫った時、例えばギリシャでの危機やスペインの半島戦争のフンタで起こったように、地方の有力者は自分たちの私領を守る為に、そして立法者が不在でも法の支配を継続を確保する為に連合した。これらの場合、それは自然かつ地域的な統治要請への対応であったため、今日でも寡頭制というのは地域のエリートとの強い結びつきを持っている。近代世界において、このような制度は裕福なビジネスオーナーの派閥や準封建的なカシケらの集団、或いは強力な党占政治 (Partitocracy) や権威主義的だが分権的な体制、そうしたものなどに似ているかもしれない。
寡頭的体制は、公然にエリート主義的であれ暗黙の徒党に作られたのであれ、関係者の間での絶えず変化する要求、同盟、苦情、利害が複雑に絡み合った網目構造を誇る。寡頭制は無数の可動部品を持つ複雑な機械であり、そこにその弱みも強みもある。つまり、偉大な政治家はその不安定な均衡を維持したり、より大きな目的のためにそれを破壊したりして、自身の目的のためにそれらを利用することができるが、これらの隠れた利害関係は自らの権力への侵害に対して連合する可能性も非常に高く、彼の支配権が行き過ぎれば公正な警告を与えるだろうということだ。
軍団寡頭制 (Praetorian Oligarchy)
軍隊は、その欠点も栄光も含めて、全ての歴史を通じて人類文明の礎の一つであり、重要な政治的プレーヤーであった。それは諸制度と汎ゆるネイションにとっての運命の輪を務め、そして今日でもその名に相応しい、全ての国家にとって欠くことのできない道具である。この現実の暗い真実とは、時として、この権力への接近が権力に対する飽くなき渇望を生み出すばかりであるということだ。
必要性からであれ野心からであれ、「国家を持つ軍隊」の典型は可能性と危険性の両方を持っている。決められた政治的目標が武力を用いて追求され、戦闘的な組織を作ることを必要とするようになるかもしれない。やがて、その運動自体が軍服を着て、軍鼓の響きに合わせて行進し、その組織は厳格な規律と指揮系統に従い、その指導者は今や厳粛な敬礼で迎えられ、その神話は兵士の信条に変容していると悟るのだ。また文民政府が、おそらく国家に対する責任を果たすことができず、速やかに軍の権威に取って代わられることもある。言うなれば、ネイションを守る最後の砦が単にその目的を果たすだけである。国家が自らの軍隊を信頼し、様々な理由から与えられた領土に対して例外的な命令権の行使を許可しただけということもあり得る。それは一時的なものであったり無期限であったりするが、軍人に対する敬意は紛れもないものである。
このような場合をカウディーリョたちや他の専制者のような派手なカリスマ性と混同してはならない――これはワンマンではないのだ。あなたは政治システム全体が、一人の元帥ではなく、制度としての軍隊に服従する様の目撃者となる。独自のルール、独自の社会の中の社会、そして独自の象徴や物語を持つギルドだ。委員会 (Junta) を通じてであれ一人の独裁者を通じてであれ、これはカーストの美徳によって事務員や商人を支配する戦士の自然的特権の成就なのである。
金権政治 (Plutocracy)
身分を示すものというのは、決して君主制における王冠や祭服だけに限定されるものではなかった。中世ヨーロッパの商人共和国や革命以後の自由主義国家、そして古き共和政ローマであれ、高貴な生まれというよりも、むしろ己が財産とそれが齎す影響力とで自らの地位を築いた者たちの階級が存在した。人々の顔に貼り付いた大コオモリダコ、ブルジョワジーの独裁、そして同様のもの――金持ち貴族の政治への影響力に対する批判はどこへ行っても彼らに付き纏っている。寡頭的な権力機構も珍しくなく、世襲的統治者が相続した財産を用いて自身の富を築くことも見られるが、金権政治では純粋に富により選ばれたエリートによって政府が支配されている。
しかし、ただの欠陥のある民主主義や権威的体制を金権体制に陥らせるものは何だろうか? 自らの等級から利益追求の為の筆頭代表者を選出する、富よって直接任命された者たちの評議会が存在することは稀である。むしろ、エリート層が自らの影響力を行使したり、又は自分たちの利害を代表する為に自分たち自身を公選役人に据えたり、こうした既存制度の破壊の中で金権政治は成長する。或いは、オランダ東インド会社――独自の外交権、裁判権、貨幣鋳造権を持っていた組織――のように、投資家理事会よる政府の公然な傀儡化が、おそらくは国家の崩壊によって、為されるかもしれない。
金権政治は、大半の場合に蔑称として使われている。左派からも、右派からも、全国民の大多数からさえも、この体制における優先順位は、この階級の直接的利害にのみ合致するのではないかと疑いを掛けられている。これは、物質的な利益が上層部に生じれば下層部は損失を被ること、或いは国際的投資が国内投資以上に優遇されるということを意味し得る。しかしながら、最も慈善的となるのは、金融エリートが彼らの投資の安定を維持することで既得権益を持ち、彼らの利害と国家の利害を一致させることである。このような状況では、物質的な儲けに向けた金欲まみれの目線が貴重な資産となり得るのだ。
臨時政府 (Provisional Government)
時折、古い世界が死に絶え、新しい世界が生まれることがある。独立は政治闘争や武装闘争をによって達成される。政府は民衆によって転覆される。憲法改正の必要性が非常に差し迫るものとなれば、体制は自らの再構築の為に進んで解体され、それ自身か或いはかつての政治的外部関係者と合意の条件について再交渉する。しかしながら、それがどう達成されようとも、未来の荒々しい獣は新たに誕生した権力の前に跪き、未来の抽象的な疑問は「今どうするか」という実際的な現実に道を譲る。その中間地点にあり、この新国家を管理するものは多くの場合、臨時政府である。
イデオロギーというより妥協としての性格が強いこの用語は、政府が初期の構造を作り出す間、日常的な社会機能を維持する一時的な制度として説明される。政治における現実として、大変革を求める運動がその変革の後の生活がどうあるべきかについて、特に行政の緻密な細部における、統一された見解を持つことは殆どない。暫くの間、論議を監督し公的秩序を維持する為に幾つかの機関を設置しなければならず、これは一般的に任命制か集団指導体制を伴う。移行期間が終了した後、しばしば就任選挙を経て、権力は先の運動によって樹立が推進された政府へと移譲される。
臨時政府の矛盾は、その表面上に多く存在する。政府の最終的計画が如何に民主的であるとしても、それを保護する為の手段はしばしば公衆の意見を受け入れる余地は殆どない。プロセスの安定は最重要だが、その期間を過ぎた時には解体されるような設計も同様に重要なのだ。この手続を見守る強き手は、独裁の到来の兆候なのだろうか? 手を緩めるのが早過ぎれば、政府の慎重な交渉を崩壊の危険に曝してしまうことになるのだろうか? この境目の状態では、暫くの間はどのようなことでも可能である。だが気をつけねばならない、政治において、一時的な解決策以上に永続的なものは存在しないということを。
植民地政府 (Colonial Government)
植民地主義のような、一見自明であるものでさえ時と共に進化してきた。だが不変の特徴も存在する。即ち、土地や市場、資源の追求における、或いは自身らの宗教や帝国の範囲の拡張における、その正当化である。しかし領有が宣言された土地が拡大し、そして技学と行政の専門知識が増えるにつれて、統治体制はより洗練されてきた。植民地政府について考察する時は、常にその支配の手段について研究する必要がある。
植民地は、その宗主国にとって不可分のものではない。そうなることは植民地事業の最終的目標かもしれず、まさにそれを理由として直接的な植民が奨励されることもあるが、海外領土には通常、宗主国と同様の政治体制が敷かれることはない。代わりに、時の植民地政府はその本国政府に応じて行動する傾向があり、法律や統治法の承認の為に本国へ提出することさえある。しかしながら、数世紀を経て植民活動が減退し、居住地域の更なる拡大が経済的・戦略的な理由から主張されるようになると、安定した統治と資源採掘とを確実にする為に、行政はより複雑化せざるを得なくなった。一方で、本国への発言権を与えられていなかった植民地でも地方政府の権限はより強化され、時として、表向きには有力者が行政の政策へと地元の利害関係を持ち込める、任命された機関或いは諮問機関が設置されることもあった。また一方で、既存の権威――王や酋長など――は植民地制度とますます結びつき、その地位や人脈を首都への税金や新兵の徴収の為に用いることで、その制度の範囲内においてある程度の自治権が与えられた。
植民地政府はそれ故、外国の地図に描かれたような、単なる境界線以上の要素を持つ。政治的にも商業的にも、植民者の流入や費用の掛かる守備隊の設置のなしに、こうした領土を管理することが可能となるこの関係は、見掛け以上に複雑である。概して、植民地はより大きな自治政府を目指す傾向があり、特に大戦による損失とそれが齎した社会政治的な緊張とを抱えた植民地ではより顕著である。未だ世界に残されている植民地群は、末期の英領インド帝国のような劇的な限界点へと向かうのか、若しくは継続的な支配関係の見直しがされるのか、どうなるかは誰にも分からない。
専制主義 (Despotism)
絶対君主制 (Absolute Monarchy)
近代以降の殆ど全ての君主制は、「王冠を戴く共和国」と呼ぶに相応しい、衰退し、自由化された形態の内で存続している。今や大半の王室は憲法や民主的に選出された議会のような抑制と均衡によって制限されており、国王や女王というものはその王国の象徴元首に過ぎないのである。しかしながら、「カエサルの物はカエサルに」という古い格言は未だ忘れられてはいない。
絶対君主制とは、その王国における全ての権力と特権とを一人の者の手の内に集約することであり、その者は通常生まれ持っての権利として、自身以前に先代よって征服され支配された土地を受け継ぎ、統治と管理を行う権利を得る。だがこれは数世紀に亘る貴族やブルジョワなどとの激しい闘争の末の結果であり、最終的に国王自身が国家全体の権化であることを確認するものである。君主とは、臣民と汎ゆる形態の神との仲介者であり、王権の政治的身体における健全性と聖性は、社会全体における健全性と聖性と同一なのだ。より伝統的思考の持ち主にとって、国王とは王権という蒼穹に浮かぶ太陽なのであり、その力と威厳によって汎ゆる天体は軌道を描き、引き寄せられる。しかしながら、「絶対的」という言葉は欺瞞的かもしれない。もし君主がその支配域の全てに干渉できるとしても、未だ君主には一連の成約が存在するのである、その中にあり得るのが、君主は自身が従う王国の基本法に叛くことはできないというものだ。また君主は道徳に反することも、王国の実定法を決定する原則たる自然法に挑戦することも不可能である。そして君主の「絶対性」は普遍性を伴うものでもなく、彼に代わって統治する行政官集団の存在が前提としてある。
旧時代的な形式の君主の殆どは大戦後に退位し、汎ゆる種類と色の共和国に取って代わられた。しかし、これは君主制という理念に致命傷を与えたとは言い難い。偉大なる家系とその支持者たちは、未だ世界中の包領や要塞の上に誇らしげに立ち、革命に反撃を行う機会を待っている。平民どもや寡頭政治家どもが権力を手にしてしまう、ほんの小さな機会を与えてしまったという失敗に学ぶことは、神の権利を取り戻す最初の一歩なのである――可能な限りの、汎ゆる手段を通じて。
立憲君主制 (Constitutional Monarchy)
もし歴史が直線的に進歩してきたと考えるならば、政治制度の進化が明確に見て取れよう。古代の神王からローマの寡頭制へ、さらに封建的臣従を通じ啓蒙絶対君主へ至り、そして近代世界において遂に、頂点、究極、至上なる完全な統治体制に達した、それこそが立憲君主制だ。
「議会制」とも「民主的」とも呼ばれたりするこの君主制の形態は、最広義の意味で理解される自由主義、その疑いようのない勝利の証左である。それは19世紀に至るまでヨーロッパのアンシャン・レジームやアジアの多くの体制――新しい時代の到来、即ち効率性、節度、長期的継続性、プロフェッショナリズムを認めず、そうするつもりもない抑圧的で時代錯誤な存在――によって支配された、古びた専制主義を克服した事の現れである。しかし、多数派の暴政の、過度な共和主義の、そして緻密な民主主義の弱みを知らぬまま、それを最も野蛮な醜悪さを以て崇める煽動的な大衆主義者の恐ろしさを認識している。成文憲法と伝統的憲法の両方を、そして同様に代議制民主主義を、繁栄に必要な改革を成し遂げる為に、個人の自由を尊重しながら務めねばならない賢明な政治家の信頼できる同盟者として利用するのだ。ド・トクヴィルやコンスタン、ロックが予見したように、市民社会は制限と自由とが健全に渾淆した時にのみ存在できるものであり、その為、民衆の声を届けつつも、最悪の衝動による支配を決して許さず、王や女王を自由に対する脅威ではなくその保証人として維持するのである。イギリスやイタリア、オランダなどの諸国では勝利を収めており、そして西洋化されたネイションであればどこでも、その力は誰をも待たせることのない安全と自由へ唯一つの道であるとして受け入れられている。
しかしながら、他の地域ではこの物語は甘いものではなく、君主に掛けられた民主的制限は権力を振るう枠組みとなるばかりではなく、野心的な王にとっては汎ゆる手段を講じてでも破壊し脱出する為に努める牢獄となる。だがしかし、これはその道具としての汎用性を証明するものではないか? 抑圧者が鳴らす歯軋りの音は、それが機能している証なのではないか? 常識と合理性の時を越えた行進によって立憲君主は具現化し、一縷の甘ささえ持たず、遍く陣営の急進派を恐怖に陥れるだろう!
立憲独裁制 (Constitutional Dictatorship)
ある体制が挑戦を受け、その全重量を耐えるに力及ばぬ時もある、だがそれを認めることを恥じることはない。これは普通、日和見主義者や革命家共が腐肉を貪るハゲタカの如く襲い掛かる絶好の機会となろう。しかし、国がこのような陰湿な勢力に陥れられるのを見過ごすのではなく、国が再び自立するに十分な健全性を得るまで、憲法に立脚した独裁者を任命することにより国家は窮地を脱するかもしれない。
憲法の下に任じられた独裁者は例外的な時勢下で、政治的・軍事的危機を乗り切るために、正統な政府の権威を通じて、特別な権限を一時的に付与された人物である。その先例はギリシャ世界でも見られるが、最も有名なのは古代の共和政ローマだろう。ローマから、我々はこの特異な制度が採り得る多くの形態を例証できる有用な譬喩を描き出せるだろう。もし独裁者がキンキナートゥスの如き、体制の原則と合法性に身を委ねる者であれば、国を脅かす問題点に対し外科的修正を試み、役目を果たした後に退陣するだろう、そして継続性を損なうこと無く正常な状態を復元するだろう。むしろスッラの如き者ならばおそらく、精力的な指導者だが、それでも未だ彼に権限を与えた制度の意義に身を委ねる者であり、最初に体制を弱体化させた癌の如き腐敗を取り除く為の多数の改革を実行するだろう。彼の後は、新しく、より健全な、しかしまだ認められる状況が標準的となる。独裁者に権力を授ける体制にとって不幸な事例となるが、カエサルの如き者を選択した時であろう。そのカエサルは、制度に対してその正当なプロセスを逆手に取った野心的で抜け目ない政治家であり、彼自身が思い描いた王国を築く為に、そして彼に現在与えられている権限の憲法的・法的制限に打ち勝つ為に、こうした並外れた権力を用いだろう。
独裁者の管轄権限と能力との正確な限界は、それらを授けた政府の信任や必要に合わせて変化するものの、一般的には一線を越えることのないことを保証する為に設置されたある種の安全条項が存在する。そのような決定の危険性は絶対的に明らかである――もし独裁者に退陣の意志が無ければ、彼に続くのはブルートゥスの如き者か、或いはオクターウィアーヌスの如きものか、多くの不確実性の中に存在するのが、そのような疑問だ。
軍事独裁制 (Military Dictatorship)
力というものは簡単に理解できるものだ。国家は、その正統性が失われたと見抜かれた時、重火器類とそれを効果的に扱う組織が、数世代に亘る市民的規範や伝統に勝ることを知るだろう。苦境に立たされた文民指導層の要請を聞き入れたのであれ、若しくは国民的危機への反応としてクーデタを起こしたのであれ、こうして権力は軍隊ヒエラルキーの手に渡る。集団的な委員会 (Junta) が構成されるか、或いは指導的地位を明確なものとした元帥の先導を伴って、軍事独裁制の時代は幕を開ける。
こうした政府形態は人類史において千年以上に亘り記録されてきており、多彩かつ、時代を越えて軍事的権威の現れであリ続けている。これが示す形態や性格は柔軟であり、極東の幕府における征夷大将軍や、ラテンアメリカにおける属人主義的なカウディーリョ、さらに1600年代のイングランド共和国における超宗教的支配をも理論的に包含するほどである。この独裁ではよくあることだが、将軍たちの根底にあるイデオロギーが何であれ、その無党派的性質と、その全体的目標は国家にとって喫緊の脅威の回避である事とを宣言するだろう。近代軍隊の官僚制的実情も様々であり、ある時は上意下達の緊急政府となり、またある時は政府の協議事項を支持する意思がある文民協力者から政党を形成する。
軍事独裁制は、実際には社会の普段の活動の中に例外状態を導入する。通常の権利と保証の制度は形を変えるか、若しくは完全に停止され、これに伴い街道には軍事化された警察が、物陰には秘密警察が配置される。非軍事的な役人や政治家は存在するが、その決定は統治派閥の拒否権に服属している。最後に、しばしばこの体制は自らを一時的措置と称するものの、この「一時的」が指す期間は統治派閥の気紛れ次第である――結局、一人か二人の将軍の命が尽きるまでは一時的であり続けるのだ。こうしたことにも拘わらず、惨禍を回避する為の緊急措置は常に正統性を保持するであろうし、再び戦火の暗雲が立ち込めたなら、軍事優先のこの政府は動員を準備する為の適切な手段となるかもしれない。
属人独裁制 (Personalist Dictatorship)
権力は複雑で、脆く、魅力的なものである。権力は人間の野望と頽廃によって生み出され、相続、宗教的権威、軍隊の指揮、或いは民主的に選ばれた人々の代表など、様々な原則に従って組織され秩序付けられてきた。だが実のところ、これは蜃気楼に過ぎない。権力とは、それを征服する勇気ある者に運命づけられているのだ。
ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、社会における権力の源泉を解剖・分析した結果、合法的支配と伝統的支配とに対比される「カリスマ的支配」と呼ばれるものが存在し、一定の場合にそれが見られるとした。このような状況では、古代ギリシャの僭主のように、権力は正当な政治的プロセスによらず、例外的な手段を通じて手綱を握るようになった指導者が持つ、その者に固有と認識された気質、若しくは実際に固有である気質に負っているのである。このような首領が権威を振るう方法に、形式的な諸制度への信任や規約に沿ったものは殆どなく、むしろ愛情または恐怖によって支持者に抱かせる忠誠心が利用されるのである。この主従間の忠誠という完全に属人的な概念の存在が、こうした体制が属人独裁制と呼ばれる理由である。このような現象は普遍的で世界中でどこでも見られるものだが、その奇妙な誕生の為に、これらの政府形態が長続きすることは殆どない。
属人主義的な独裁者は殆ど常に折衷的で、かつその統治は複雑で、ほぼほぼ一貫性の無いイデオロギーと強烈な指導者崇拝が伴っている。しかしながら、その相乗効果の中にこそ最高の資質があり、それは瞬く間にに変化する内外の挑戦に立ち向かうことのできる、とても順応的かつ実用的な体制なのである。その最も明確な欠点は、そのような方法で権力を手にした者は悪徳と奢侈に流されやすく、それは何故なら、アクトン卿が記したように「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」からであり、浮世の快楽は効率的で高邁な政治家たる為の素晴らしい気晴らしになるからである。
革命的国民主義 (Revolutionary Nationalism)
大戦における殺戮の数年間と報復主義者の失望とは、急進的な政治的反応を生じさせた。ドイツでの社会主義モデルの形成、又はポーランドやフューメの体制が加速主義として具体化したことなど、これらはイデオロギー圏に衝撃を与えた。しかし全ての反応が、多数の模倣者や転向者を伴ってその目的を達した訳ではない。加速主義がまだそのラベルを公認する前、他の習合的な国民主義運動は20年代に盛衰を繰り返した――それが最も劇的だった地はイタリアだろう。再活性主義者と反動主義者の中間に位置し、自分たちを結びつける中核となる傾向を持たない、これらの団体やその支持者は革命的国民主義の名の下に集められる。
イタリアの事例は失敗したものの、ロマンティックな国民主義者、反議会主義者、そして非主流派社会主義者――さらに未来主義者さえも――を一つの陣営に纏める試みは有益であった。大戦以前のヨーロッパの政治的緊張が齎した5年に亘る惨劇は、表面上誰も満足することはなく、自由主義的代議制の現状に対する多数の劇的な拒否反応を引き起こした。赤色ドイツでも、東部兵士評議会によって、この拒否反応に好戦的で国民主義的な心情を含み得ることが証明された――カイザーを追放しドイツを復活させようとした男たちに率いられて。
しかし、革命的国民主義を構成する教義とは何なのだろうか? ある面において、この集団は "そうではないもの" を以て定義される、即ち反動主義者ほど近代性を軽蔑せず、また一般的な加速主義者ほど反伝統でもない、非自由主義的な前衛主義であると。議会政治を、民衆の声に応えるには腐敗し過ぎているとして、そして明確な展望を持つには分裂し過ぎているとして拒絶し、国家を再形成する為の決断力ある行動を採れるように設計された、権威的な政府を作り出す。正統な経済政策というものは無いが、協同主義のような、国益と安定の為に経済への国家介入や調整ができるものを好む。政治的非主流派である彼らの運命は未だ不明である。フューメは革命的極右のコズ・セレブレ (大きな事件) となった一方で、後に残された者たちは自らが世界を揺るがす出番が来るのを待っているのだ。
神権政治 (Theocracy)
選挙の利点だとか宮廷の噂話だとか、そうしたものは脇において問おう。聖職者以上に思慮深く公正な統治ができる者が他にいるだろうのか? 聖なるものについて熱心に学ぶ人々以上に正義を知る者が他にいるのだろうか? 神権政治に答えはない――宗教的権力と世俗的権力との間に境目は無いのだから。
近代性の猛攻にも拘わらず、世界には少数ながら依然として地元の宗教を代表する者たちによって伝統的な統治がされている国家が存在する。聖職における有力な大祭司であれ、異端宗派の狡猾な指導者であれ、カリスマ的な預言者であれ、全ての神権政治家は信仰の委任から権力を引き出し、自身の国家を神の意志を地上に実現させるものとする。ありがちな想像とは裏腹に、これは多様な形態を取るだろう。一般的には保守的であり、社会の大いなる平準化を説く同宗教の信者たちとは全く異なり、神権政治家は必ずしもを進歩それ自体を邪悪とは見做さない。王朝の保持、金銭的買収、階級理論、こうした些細な懸念から解放された数多くの宗教的優先事項は、社会改革の呼び掛けに類似する。更に言えば、俗世を離れた修道士、賢人、その他の聖なる人々、こうした者たちが争いの時代を経ていく中で知識の伝達を保証したのではないのか? 確かに、このような政府形態は教条主義的ではあるが、必ずしも逆行的ではない――そして、多くの信仰は適応を経て遠く広くに伝播されてきたのだ。
多くの人々はこう言う、近代世界の嵐の中で神は死んだ、汎ゆる不思議は現実的な説明ができる、神権政治は歴史書の中に追放されるべきだ。しかし、人と人との絆は階級、ネイション、政治における垣根を超越でき、そしてどのような信条においても、それを疑う者が存在しないということはあり得ない。霊性への、偉大な様式への、より偉大な真実への畏敬、これは高慢な人々を謙虚あらしめるだろう。結局のところ、信仰だけで山は動かせる、そう言われていないだろうか?
反動主義 (Reactionism)
貴族的反動 (Aristocratic Reaction)
文明の長征は、より洗練された階層化を齎した。武力に長けた上級カーストに、神格や家柄などに正当化された、知識と名声とを持つ人々が協力した。大衆が国家の舵取をすべきだという考えは、異端どもや山賊どもを由来にするものに過ぎない――啓蒙時代後期までこの考え方は存続していた。
悲しいかな、人間の欲望は自身が消費するものに合わせて成長するものだ。歴史的時間の内のほんの瞬く間に、大衆主義と平等主義の亡霊とがこの社会秩序を覆したのである。そして今、このような思想の為に流された血の海に跨がった近代性の誤りに対する叛乱が存在する。それは玉座に対する従順な信奉ではない、むしろ貴族的反動という積極的な反論である。
この傾向の支柱となっているのは、人間の不平等性を認識すること、そしてその帰結を理解することである。暴徒による政治が、大戦や1919革命の以外のどこへ導くことができるというのか? 代議制民主主義が特権を与えているものが、次の選挙までにしか及ばない欺瞞や計画でなければ何であるというのか? それ故に、彼らはエリート主義的体制、つまり、臣民を支配し、指導し、庇護する為に用意された、貴族による宮廷政治を命じるのである。一般大衆の関与は従って、公的に認可された経路――祭り、或いはポグロム――に制限され、それ以外では抑制される。
貴族的反動は、近代の問題に対抗する古いエートスを象徴している。ギロチンの後に、産業化の後に、そして国民皆兵の後に世界は過去と決別したが、その過去はより色褪せない伝統の創造を経て後世に再接続され得る。例えば、このモデルが拠り所とするものは、文化や信仰、そして血のような崇高な特質であり、必ずしも過去の王たちの血を継いだ貴族ではない。加えて、フランス革命の特性を嫌悪しているにも拘わらず、国防の必要性から封建的国家ではなく中央集権的国家を作り出す傾向がある。そしてもちろん、長い眠りから覚めた後に、下層大衆は再びこのイデオロギーの魅力を理解するようにならねばならない。その為、馬上に跨がりやってきて、あなたの世界の崩壊に終止符を打ち、かつて自然であると認識された原則へ回帰することを約束するのだ。
反動大衆主義 (Reactionary Populism)
進歩とは神話だ、もしその苦しみを経験した者がいなければ。歴史の転換点、即ち常識となる出来事、これも逆行を求める人々にとっては同様に苦難として迎えられた。共和制と自由の為のフランス革命が存在したところに、玉座と祭壇、そして古い権利の為のシュアヌリ (ふくろう党) が存在した。ヨーロッパの力と影響が及んだ極東では、農民たちが皇帝を崇敬し夷狄を打ち払うという、二重の叫びの下に団結した。民衆が自らを動揺させたものを打ち砕く為、その拳を振り上げる時、それは反動大衆主義という形を取る。
反動を起こされる現在の瞬間とは、言わば動く標的、移ろいゆくものであるということを忘れないことが重要だ。例えば、反動的傾向の現在の姿は、必ずしも共和主義や国民主義に反するとは限らず、第二次産業革命とそれに続くものに反する場合もある。経済や家族風景の大規模崩壊、労働不安やプロレタリア化、そして公生活の世俗化の進展に直面する中で、その跳ね返りは終末的なものとなり得る。確かに、改革や革命はこうした不調を癒やすものとして処方されたが、同時にこの環境が排外主義者や反社会主義運動を生み出したのだ――フランス反セム主義者連盟やロシヤの黒百人組などは、その例である。大戦はそのような組織の、救いの為に過去へ遡りたいという願望を強固にしただけであった。もし近代性がこのような危機を齎したのであれば、それが何の役に立つというのか?
フランスの君主主義が失敗した為に、またロシヤ白軍にツァーリを戴く能力が無かった為に、今のところ、伝統主義的傾向は共通の理想を持つ一般大衆の手の中に留まっている。反動大衆主義の回帰すべき牧歌的過去は文脈によって異なるが、一般的に同様の核となる教義は持っている。それは信仰、伝統、そして同一性――即ち、人種やナショナリティ、或いは他の文化的ラベルなど――である。自由主義や社会主義への敵意を露わにしつつも、その政治の大衆的特質は、無慈悲で暴力的な資本主義からの脱却だけでなく、しばしば政治参与において幾分かの多様性を許しさえもする。反動大衆主義とは、動乱に直面した時、秩序を取り戻す為に、そして疎外された民衆に意味を与える為に、血を流すことも厭わない者たちが掲げる旗なのである。
宗教原理主義 (Religious Fundamentalism)
ここは堕落した世界だ。我々の霊性に対する誓約と道徳的原則は歪曲され、捨て去られている。聖なる神託を伝える人間の仲介者が、世俗の権力に膝を突き、その弱さで戒律を希薄化させている。民衆は道を見失い、物質的な目的或いは自身の情熱にのみ奉仕し、そうして被った代償に気づいていない。見よ――これが終末の時でないならば何なのか――これが大患難、ラグナロク、カリ・ユガ、七つの太陽でないならば何なのか? しかし、これまでの多くの人々と同じように、ある者たちはこの意味の危機に対して、自らの文化における最初の原則へと立ち返り、宗教原理主義というマントを身に纏うことで対応したのである。
このイデオロギーが処方する万能薬は常に、それを活気づける信仰毎に異なるものだが、その枠組は似通っており、実用主義や再解釈の余地が殆どない宗教的教義に基づく政府を規定する。時には、教会や宗派におけるヒエラルキーがネイションにおけるヒエラルキーとなり、そして聖なる者たちが平信徒と並んで政府の役人となるのである――完全に取って代わるほどではないが。場合によっては、神又は他の非物質的象徴が公式の国家元首となり、日々の統治の中で大事にすべき価値観を明確化させるかもしれない。国家はこれに応じて、その権力を世界と宗教的理想とを一致させる為に用いるのだ。
宗教原理主義はいつの時代においても変化しないものであると見做されているかもしれないが、そうではない、その現在の形態は近代性に対する深く熟考された反動なのだ。例えば、歴史的な宗教的権力と政治的権力との分離傾向は、これを齎す一つの原因である。或いは、諸外国における技学や理念の誕生が、貿易や植民地主義によって為され、大衆の政治的自律性と精神的幸福とを脅かしていることも、この一つだ。しかし何よりも、これは目下、無秩序の時代への反動を示している、即ち、自らの世界における居場所、自らの目標、自らの所属する共同体、人間によるそれらへの理解に対する疑義が、唯物論、聖像破壊運動、自由個人主義によって振り撒かれた時代への反動を。原子化、疎外化、アノミーに対する反応は数多く存在するが、数世紀、いや数千年紀に亘る変化に耐え続けてきた価値観が、その身を守る為に目覚めたならば、大地と大空は引き裂かれることになるであろう。
反動秘教主義 (Reactionary Esotericism)
信条というものの中には、我々が知っているような政治組織に対し全く見向きもしないものがある。デマゴーグによって結集された大衆主義の風潮に、複雑な真実への理解が望めるだろうか? 唯物論者の前衛や腐った貴族のような、自らとその国家とを貶め欺くばかりの者たちに、それらの救贖ができるというのか? 原初の真実をその教義で覆い隠した、肥え太り弱々しい宗教団体を人々が信頼できるというのか? そうだとして、意味の崩壊、秩序の劣化と頽廃、これらに対する答えとは何なのか? 陰で努力する者、共に行進する同等の啓蒙を受けたエリートを求める者、彼らの為に反動秘教主義という流派が存在する。
秘められた霊的知識を探究する秘密結社の存在は文明の持つ古くからの特徴であるが、この形態を他と区別する部分は過去に対する熱い憧れである。確かに、この半球の全ての地域で、霊性のタブーに触れ、しばしばその地域おける宗教の主流派を逸脱するか、或いは外国の宗教と習合するような組織が存在している。ヨーロッパにおけるアンシャン・レジームの断絶、そして世界中で起きた伝統的社会秩序の崩壊は、自由主義、世俗主義、経験論という新しい現状に対抗し、秘的諸秩序が提携できる状況を生み出しつつあるかもしれない。例えばもし、啓蒙思想が人間を真の意味から引き離したものであるならば、その価値とは結局何だったのか? 近代性の様相から疎外されたこれらの反体制派は、様々な流派を形成しているが、一般的に世界から失われた古代の形而上学的な知識に重きを置いている。そして、彼らの使命とはそれをもう一度、陽の当たる場所へと連れ出すことである。
反動秘教主義へ政治運動を推移させていくことは、簡単な務めではない。議会主義に対抗するには本質的にエリート的過ぎるが、その結社は既存の政党の中においても、並立する影響力のある権力体として機能するかもしれない。或いは、この結社と陰謀的性質は、議会の外での活動を調整に役立つかもしれない。秘教主義者の綱領のその緻密な細部は場所によって異なるだろうが、権力に関する目標はその本質的性格を保持している。即ち、その国に相応しい者が結社へ加入し、その者以外の人々、つまり過去数世紀に亘り自分たち自身に対する支配を尽く失敗させてきた者たち、それを支配する位置に就くということである。
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