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Red Flood イデオロギーリスト/加速主義編

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フューマニズム (Fiumanism)

旧秩序、それは歓待や好意を大いに喜ぶ老人たち、つまり政治的に堕落し精神的に破綻している者たちだ。ネイションがその運命に達することも、その道徳的な目的に向かって努力することも、そのような汚れた化石どもの支配下では不可能だ。民主主義という肥溜めから民衆を引き上げる為には、単に満たされた自由な人生を送りたいと願う者たちだけでなく、それを手に入れるエネルギーを持つ者たちも必要とする。

ガブリエーレ・ダンヌンツィオはそのような男の一人であった、そしてカルナーロ執政府が誇らしげに歌うものは深い余韻を残している。国民的で国際的な革命が今に迫っているという彼の主張は程なくして誤りだと証明されたにも拘わらず、彼の奮闘は世界中数多くの先導者たちが集まる燈台であり続けた。

フューメの聖火に照らされた都市国家のエートス及びその信奉者たちは、伝統的な政治圏に因われない原則を中心に纏まった。革命的国民主義、反帝国主義的レトリック、単一政党の統治連合、階級協調主義的経済、これらはもちろん顕著な役割を果たすが、それと同等に――もしかすればそれ以上に――重要なのが謎めいた詩人王が体現する考え方であった。国政全体の刷新は政府機関だけで起こし得るものではない、それは劇場でも、詩会でも、喫茶店でも起こす必要があるのだ。

民衆をより良い未来に導くには生き生きとした魂が必要なのであり、つまり人生を自ら切り開くような者が必要なのだ。ディオニューソス的な人生に対するロマンティックな理解、最高の冒険への渇望、それを追求する為に必要な勇気は、至上の高みへ飛び立つことを願う者たちを必要とする――ただし、道行く人たち皆がそのような生き方に必要なエランを持っているとは限らない。しかしながら、そう願う者たちは来たる世界の先駆者となるであろう――そして、その世界は美しいのであろう。

未来主義 (Futurism)

速度。技学。戦争。1900年代のくすぶる緊張感の中、イタリアで猛烈なエンジンが唸り始め、その鬨は世界中に轟いたであろう。フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが著し、1909年に発表した宣言書は、芸術の一派としてだけでなく、食卓から戦場に至るまでの人生の改造を求めた政治的・哲学的エートスの凝集としても発展してきたのである。同時に、イタリア、ヨーロッパ、そして更に国境を越えて関心を集めるにつれて、その適用するところは「反伝統主義」以外の単純な政治的分類を受け付けないようになった。加速主義の中核を成す近代的イデオロギーの走りであることは議論の余地もないが、世界は今となって漸く未来主義の遺産を再評価しているところである。

マリネッティの教えとは過去との戦争であり、ブルジョワ的な道徳や伝統を激しく攻撃した。軍国主義、若さ、自動車から飛行機に至る革新性を喧伝した。同時に、創始者のレトリックにはエリート主義的な感覚もあり、優れた人間には英雄主義と慣習に囚われない行動とを熱く奨励した。社会主義とは頻繁に対立し、1920年代にはフューメ連盟と第二インターナショナルとの間に楔が打ち込まれた一方で、ほとんどすぐにそれは右翼的傾向を遥かに超えるものとなった。最初は国民派社会主義者、次には公的秩序を覆そうとする無支配主義者をも誘惑した。ロシアでは、未来主義は共産主義者と腕を結び、その中に大衆を解放し高揚させる為の社会規模の計画を想像した。このユートピア的気魄は大戦を生き延び、英雄的なパイロットや大胆な突撃大隊のイメージを永遠に高め、フューメやカフカースでの新国家建設における革命的未来主義者の参与を確かなものとした。

未来主義の目下の新奇さは徐に消えていったが、かつての課題は、革命に取り残された全世界と共に存続している。しかし地球はどのように、そして誰の下で再形成されるのだろうか? 政府はその統治の下で、生産者主導の資本主義や組合主義、国家管理の協同主義、そして共産主義といった多様な経済モデルを提示してきた。モーターは乗手を総力戦の恍惚へ、或いは幻想的ユートピアへと誘うのだろうか? 左右の両極は本当に対立しているのか? 未来主義はその目紛るしい勢いを維持できるのだろうか? それとも結局、重力が常に勝つのだろうか?

超現実主義 (Surrealism)

生者と死者の境界線は薄く、現世と来世を結ぶ銀色の糸は揺らめている。オーストラリアのアボリジニ文化においては、土地そのものがこの糸から誕生したとされ、彼らはこれを「ドリーミング」と呼んだ。まさにこの継ぎ目――この夢の如き世界の裂け目――から、超現実主義 (シュルレアリスム) は生まれ出た。

超現実主義は、アンドレ・ブルトンの頭脳から湧き出たもので全てを形成しているのではない、尤も彼自身はそれが真実だと思い込んでいるかもしれないが。この言葉は後にエスカドロンとして有名になるギヨーム・アポリネールが創り出し、超現実主義が最初に使われたのはエリク・サティの音楽を説明する為だ、つまり現実を超えた現実として。これ以来、同名の芸術運動が形になり始めたが、シュルレアリスムの教皇はアポリネールではなく、むしろ前述のブルトンであった――彼の二つの宣言書は、超現実の一対の聖書として、後に知られるようになる形式を定義したのである。

しかし1927年、初めて超現実主義は芸術から政治へと飛躍することとなるが、この際に起こったのがアルトー市長の施政との関与を巡った新生SFIO (労働インターナショナル・フランス支部/フランス社会党) からの超現実主義者たちの追放であり、これは彼ら独自の団体を設立することに繋がった。その団体こそフランス・シュルレアリスト党 (PSF) である。直ちに、PSFはその指導者によって支配されるようになり、そして超現実主義は19世紀の空想的社会主義と20世紀のアヴァンギャルドな感性との間の近親相姦から生まれた私生児として形を取り始めた。

左翼の中には、超現実主義を単にプロレタリアートの頭を嘘で満たす為にビスマルク流に宣伝された「ブルトン派修正主義」だとして非難する者もいるが、この運動自体はその創始者の開いた口から出てくる言葉をはるかに超えて枝分かれする。原始を呼び起こす近代性の力、意識に対する無意識の優越、弁証法に対する形而上学の勝利、現実の引き裂き、多くの者たちが共有する観念が存在し、非常に多様な手法で実行される――超現実主義のブーケの中では多くの花が咲いているのだ。結局のところ、「2+2=4」の論理が産業的虐殺を生む世界において、現実を超えたものを夢見る勇気ある者たちを誰が責めることができようか?

国民再活性主義 (National Rejuvenatism)

国民再活性の観念の台頭は、大戦後における――ダンヌンツィオの、新たに勝ち取った独立の――成功の物語であり、しかし失敗の物語でもある。ロシヤにおいて、内戦の勝者たちは勝ち取った灰の上に立ち上がるも、国際的な共感を得ることができなかった。フランスおいて、オルレアン朝復古が流刑法の廃止を巡り難航した。イタリアおいて、ファシスト連合の萌芽が保守派勢力との提携を試み自滅した。しかし最も重要な事は、新しく生まれ変わったポーランドにおいて、伝統的右派勢力が自治を引き換えにツァーリ主義の圧制者と協力し、その手を汚したことである。ヨーロッパの新国家はこれを目の当たりにして理解した、未来の国民主義はその見解を明確に近代的にしなければならず、そうしなければ滅びるだろうと。

このイデオロギーの実験場を務めたのがワルシャワであった。ドイツやロシアの支配から自由となっただけでなく、バラバラになった民衆をポーランド人へと作り変える為に受け継ぎもした、この国家の国民創造へのアプローチは、世界に漂う他の国民主義者たちへの教訓を示すだろう。フューメ連盟の前衛的な国民主義もまた、ダンヌンツィオやピアラシがまさに行ったような反体制的な左翼と右翼を団結させる新しい傾向が形成された時、教訓を示すだろう。独自の地域ブロックを確立し、意気盛んなピウスツキ元帥のサナツャ体制は、間もなくこの観念をさらに発展させるであろう称賛者と理論家を獲得し、戦後の停滞の中に新しい意味と誇りとを齎すことを約束した。

加速主義というラベルの下に集められた「再活性主義」のモデルは、その仲間たちと同様に折衷的であり、しばしば広範に適用される。もちろん、それを定義する共通の特徴もある。ネイションはその目覚めの為に強い手を必要とし、必然的に権威的な政府が誕生する。この政府は経済に強い影響力を及ぼす。何より重要なのは、国民再活性は人々に新しい国民同一性と神話とを――汎ゆる政策を通じて――植え付けることを求め、その神話は将来への行進の中で国民全員が共に物語らなければならない。

新常民主義 (Neo-Folkism)

民衆 (People) ある所、常民 (Folk) あり、そして常民ある所は、民俗的 (Folkish) となるであろう。ドイツのフェルキッシュ運動はロマンティックな過去と産業的な現在との狭間に存在するが、一方で近代性の脅威を受け入れ、歴史の歯車を前進させることを望む者たちも存在する。古代の神話と民俗信仰は甦り、そして第二の洗礼を受けるのだ、新常民主義のアイギスの庇護下で、過去の馬車が未来の暴れ馬に繋がれるように。

多くの国々がコスモポリタニズムの為すセイレーンの歌声に屈するか、或いは反動主義の殻に閉じ籠っていた時に、この常民主義の新顔は近代性の危機のから生まれ出た。新常民主義者たちはこうした回答を拒絶し、不可能を選択した。つまり近代性の歓喜を受け入れ、伝統主義の無関心や国際主義の利己的な行進に対抗する剣として振るったのである。ヤン・スタフニュク、マルク・オージェの肉欲主義団体、これら文筆家たちのインクが染み込んだ新常民主義者たちは、左翼にも右翼にも対抗し武器を取り、民衆の存立と子供たちの未来とを守る為に進むべき道を切り開いた。

自分たちの民衆に目を向ける新常民主義者たちは、古い理念に新しい光を当てる傾向がある。彼らの多くはキリストやエホバ、他の救世主的人物たちを捨て去り、自分たちの血に内在し土に眠る汎神論的――或いは異教的――信仰の再活性化を支持する。しかし、異質な宗教の全てを排除したいと願うのであれ、単に宗教を民衆の容貌に作り変えたいのであれ、全ての新常民主義者たちは生気論的な信仰観を受け入れ、生命そのものとそこから生まれる全てのものとを崇拝している。それ故に新常民主義者たちは、創造的エネルギーの共有などの見地に基づき、民衆の集団的運命を受け入れる傾向があり、経済管理手段の社会化に傾倒するとしても、国際労働者の唯物論崇拝に屈することはない。この同じ集団的運命の為に、民主主義は完全に踏み躙られるとまではならないが、しばしば地域レベルに縮小される。結局のところ、民衆の意志は、それを分断する代議士の存在が無ければ完璧に明示できるのだ。

数千もの民衆が存在し、そして数千もの常民が存在する。新常民主義は、地域的なルーツを汲み取り、ネイション毎で大きく異なる。しかし何よりも重要なのは、彼らが一つの真実によって結ばれていることである。即ちそれは、原初の神々や古き英雄たちは未だ生きており、間もなく彼らは再び祖国を守るために戦うことになるだろう、という真実である。

フペリョート主義 (Vperedism)

ヨーロッパの観察者の目には通常、共産主義と加速主義とは永遠の敵同士に映るであろう。しかし――多くの反動的・穏健的な批評家が気づいているように――両者の教義には深い類似点がある、つまり世界を完全に再編成し、新しい人類を誕生させんとする大胆な衝動である。この類似性こそが、社会主義的なプロレタリア革命と新たな近代性たるアヴァンギャルドな計画との両方を包含する運動である、フペリョート (前進) 主義の根底にあるものなのだ。

フペリョート主義の名は、ロシヤ社会民主党――アレクサーンドル・ボグダーノフ率いるフペリョート派 (前進派) とヴラヂーミル・レーニンの信奉者たち――の中で、とある認識論的争点におけるマルクスの修正の質問を巡って分裂した事に由来する。前者が党内での権勢を振るうようになる一方で、レーニンは第二インターナショナルでの影響力を維持し続け、フペリョート主義者たちはその異端支持の為に苦い代償を払わなければならなかった。ボグダーノフは第9回インターナショナル会議で公式に弾劾され、フペリョート主義は共産主義運動の遠く辺縁にまで追いやられることになった。しかし、レーニンに批判者がいない訳ではなかった。多くの同志が共にボグダーノフを擁護する為に団結し、正統派マルクス主義の教義にとってはあまりに急進的で破天荒な人々の為の場所として、反対派の第三インターナショナルを結成した。

第三インターナショナルは明確な理論路線を強制するものではないが、通常二つの理想がフペリョート主義運動を定義している、一つは社会闘争以上に自然に対する人類の闘争の優先すること、もう一つは文化を中枢的役割とすることだ。これらは共に革命に対する急進的なプロメーテウス的未来像を創り出す。つまり革命は資本主義の抑圧に終止符を打つものとしてだけでなく、人類そのものを変革する出来事ともする――即ちそれは、内的な闘争から集団的な意志を解き放ち、輝かしい未来の為に共に闘う為に団結することである。20世紀の社会主義は全ての人に快適な生活を約束するだけに留まらず、さらに多くのことを要求しなければならない。つまり死そのものの廃止、静止物に対する終わりなき闘争、かつて神秘的な魔術と考えられていたものの共同実現である。そして何よりも社会主義は人類究極の宿命を成し遂げる義務がある。それは星を要求し宇宙全域に生命を拡大すること、そして宇宙の秩序の支配に達することだ。

そのような夢は厳しい現実に対して恐れ知らず過ぎるだろうか? それとも主流派の共産主義者たちが、19世紀の理想に囚われているだけなのだろうか? 戦禍に傷ついた人類にとってどれだけ暗いもののように思えたとしても、フペリョート主義者たちは素晴らしい未来が待ち受けていることを、そしてそれは想像を絶するほどに輝かしいことを信じ続けている。

技術家主義 (Technocracy)

近代の速さは、年を追う毎に加速している。新しい発明、新しい工場、新しいブレークスルー ――社会は、産業の鉄馬に括り付けられた砂袋のように遅れていく。旧時代の政府は未だに近代社会に対して理解も管理もできていない。古臭い認識に導かれたまま、経済危機や無政府状態に陥っている。秩序は革命のたびに、衝突のたびに、そして此処数十年の数え切れない戦争の一つ一つのたびに欠けていくようだ。

しかし、解決策はある。人類の聡明な頭脳が齎す新しい秩序、即ち技術家主義だ。この鉄の男たちは、技術科学的な政治形態を打ち立てることを望んでおり、それは暴徒の声に耳を傾けるようなことはないが、近代性の挑戦に適した、有能で合理的な国家の計画が重要とされる世界である。腐敗した政治屋、欺瞞に満ちたデマゴーグ、貪欲な産業企業家、こうしたものは全てが排除され、有能な専門家、知識豊富な科学者、才能ある技師、真実の先見者、つまり近代世界を征服し輝かしい未来へと導くことのできるエリートたち、彼らによる支配に置き換えられる。このような高邁な理想にも拘わらず、技術家主義運動は未だ始まったばかりだ。選挙で選ばれない知的エリートという着想はプラトンにまで遡れ、また科学的な政治形態はオーギュスト・コントによって描き出されたものの、初めて真の技術家主義者が登場したのは20世紀初めの事である。アメリカでは経済学者や技師が、哲学者だけが触れることのできるある種の倦怠感に対した、実行可能な技術的解決策について議論した。ロシアの宇宙主義運動は、人類が自らを完全な形に生まれ変わらせることを目指し、技術や科学を完璧に習熟した、社会のユートピア的未来像を紡ぎ出した。

産業が勝利を収めたところでは技術家主義も広まった。つまりヨーロッパの技師に訴え掛けることに成功し、イギリスの知識人の好みに適合し、また極東でも反響が見られたのだ。 世界が新しい時代に突入してく中で、この時代が秩序と進歩の時代となることを確かめる為、そしてこの真の新しき啓蒙時代が、過去数世紀にも亘る闇の上でかつてないほど光り輝くことを確かめる為に、技術家主義者が此処に在る。


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