Red Flood イデオロギーリスト/反動主義編
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貴族的反動 (Aristocratic Reaction)
文明の長征は、より洗練された階層化を齎した。武力に長けた上級カーストに、神格や家柄などに正当化された、知識と名声とを持つ人々が協力した。大衆が国家の舵取をすべきだという考えは、異端どもや山賊どもを由来にするものに過ぎない――啓蒙時代後期までこの考え方は存続していた。
悲しいかな、人間の欲望は自身が消費するものに合わせて成長するものだ。歴史的時間の内のほんの瞬く間に、大衆主義と平等主義の亡霊とがこの社会秩序を覆したのである。そして今、このような思想の為に流された血の海に跨がった近代性の誤りに対する叛乱が存在する。それは玉座に対する従順な信奉ではない、むしろ貴族的反動という積極的な反論である。
この傾向の支柱となっているのは、人間の不平等性を認識すること、そしてその帰結を理解することである。暴徒による政治が、大戦や1919革命の以外のどこへ導くことができるというのか? 代議制民主主義が特権を与えているものが、次の選挙までにしか及ばない欺瞞や計画でなければ何であるというのか? それ故に、彼らはエリート主義的体制、つまり、臣民を支配し、指導し、庇護する為に用意された、貴族による宮廷政治を命じるのである。一般大衆の関与は従って、公的に認可された経路――祭り、或いはポグロム――に制限され、それ以外では抑制される。
貴族的反動は、近代の問題に対抗する古いエートスを象徴している。ギロチンの後に、産業化の後に、そして国民皆兵の後に世界は過去と決別したが、その過去はより色褪せない伝統の創造を経て後世に再接続され得る。例えば、このモデルが拠り所とするものは、文化や信仰、そして血のような崇高な特質であり、必ずしも過去の王たちの血を継いだ貴族ではない。加えて、フランス革命の特性を嫌悪しているにも拘わらず、国防の必要性から封建的国家ではなく中央集権的国家を作り出す傾向がある。そしてもちろん、長い眠りから覚めた後に、下層大衆は再びこのイデオロギーの魅力を理解するようにならねばならない。その為、馬上に跨がりやってきて、あなたの世界の崩壊に終止符を打ち、かつて自然であると認識された原則へ回帰することを約束するのだ。
反動大衆主義 (Reactionary Populism)
進歩とは神話だ、もしその苦しみを経験した者がいなければ。歴史の転換点、即ち常識となる出来事、これも逆行を求める人々にとっては同様に苦難として迎えられた。共和制と自由の為のフランス革命が存在したところに、玉座と祭壇、そして古い権利の為のシュアヌリ (ふくろう党) が存在した。ヨーロッパの力と影響が及んだ極東では、農民たちが皇帝を崇敬し夷狄を打ち払うという、二重の叫びの下に団結した。民衆が自らを動揺させたものを打ち砕く為、その拳を振り上げる時、それは反動大衆主義という形を取る。
反動を起こされる現在の瞬間とは、言わば動く標的、移ろいゆくものであるということを忘れないことが重要だ。例えば、反動的傾向の現在の姿は、必ずしも共和主義や国民主義に反するとは限らず、第二次産業革命とそれに続くものに反する場合もある。経済や家族風景の大規模崩壊、労働不安やプロレタリア化、そして公生活の世俗化の進展に直面する中で、その跳ね返りは終末的なものとなり得る。確かに、改革や革命はこうした不調を癒やすものとして処方されたが、同時にこの環境が排外主義者や反社会主義運動を生み出したのだ――フランス反セム主義者連盟やロシヤの黒百人組などは、その例である。大戦はそのような組織の、救いの為に過去へ遡りたいという願望を強固にしただけであった。もし近代性がこのような危機を齎したのであれば、それが何の役に立つというのか?
フランスの君主主義が失敗した為に、またロシヤ白軍にツァーリを戴く能力が無かった為に、今のところ、伝統主義的傾向は共通の理想を持つ一般大衆の手の中に留まっている。反動大衆主義の回帰すべき牧歌的過去は文脈によって異なるが、一般的に同様の核となる教義は持っている。それは信仰、伝統、そして同一性――即ち、人種やナショナリティ、或いは他の文化的ラベルなど――である。自由主義や社会主義への敵意を露わにしつつも、その政治の大衆的特質は、無慈悲で暴力的な資本主義からの脱却だけでなく、しばしば政治参与において幾分かの多様性を許しさえもする。反動大衆主義とは、動乱に直面した時、秩序を取り戻す為に、そして疎外された民衆に意味を与える為に、血を流すことも厭わない者たちが掲げる旗なのである。
宗教原理主義 (Religious Fundamentalism)
ここは堕落した世界だ。我々の霊性に対する誓約と道徳的原則は歪曲され、捨て去られている。聖なる神託を伝える人間の仲介者が、世俗の権力に膝を突き、その弱さで戒律を希薄化させている。民衆は道を見失い、物質的な目的或いは自身の情熱にのみ奉仕し、そうして被った代償に気づいていない。見よ――これが終末の時でないならば何なのか――これが大患難、ラグナロク、カリ・ユガ、七つの太陽でないならば何なのか? しかし、これまでの多くの人々と同じように、ある者たちはこの意味の危機に対して、自らの文化における最初の原則へと立ち返り、宗教原理主義というマントを身に纏うことで対応したのである。
このイデオロギーが処方する万能薬は常に、それを活気づける信仰毎に異なるものだが、その枠組は似通っており、実用主義や再解釈の余地が殆どない宗教的教義に基づく政府を規定する。時には、教会や宗派におけるヒエラルキーがネイションにおけるヒエラルキーとなり、そして聖なる者たちが平信徒と並んで政府の役人となるのである――完全に取って代わるほどではないが。場合によっては、神又は他の非物質的象徴が公式の国家元首となり、日々の統治の中で大事にすべき価値観を明確化させるかもしれない。国家はこれに応じて、その権力を世界と宗教的理想とを一致させる為に用いるのだ。
宗教原理主義はいつの時代においても変化しないものであると見做されているかもしれないが、そうではない、その現在の形態は近代性に対する深く熟考された反動なのだ。例えば、歴史的な宗教的権力と政治的権力との分離傾向は、これを齎す一つの原因である。或いは、諸外国における技学や理念の誕生が、貿易や植民地主義によって為され、大衆の政治的自律性と精神的幸福とを脅かしていることも、この一つだ。しかし何よりも、これは目下、無秩序の時代への反動を示している、即ち、自らの世界における居場所、自らの目標、自らの所属する共同体、人間によるそれらへの理解に対する疑義が、唯物論、聖像破壊運動、自由個人主義によって振り撒かれた時代への反動を。原子化、疎外化、アノミーに対する反応は数多く存在するが、数世紀、いや数千年紀に亘る変化に耐え続けてきた価値観が、その身を守る為に目覚めたならば、大地と大空は引き裂かれることになるであろう。
反動秘教主義 (Reactionary Esotericism)
信条というものの中には、我々が知っているような政治組織に対し全く見向きもしないものがある。デマゴーグによって結集された大衆主義の風潮に、複雑な真実への理解が望めるだろうか? 唯物論者の前衛や腐った貴族のような、自らとその国家とを貶め欺くばかりの者たちに、それらの救贖ができるというのか? 原初の真実をその教義で覆い隠した、肥え太り弱々しい宗教団体を人々が信頼できるというのか? そうだとして、意味の崩壊、秩序の劣化と頽廃、これらに対する答えとは何なのか? 陰で努力する者、共に行進する同等の啓蒙を受けたエリートを求める者、彼らの為に反動秘教主義という流派が存在する。
秘められた霊的知識を探究する秘密結社の存在は文明の持つ古くからの特徴であるが、この形態を他と区別する部分は過去に対する熱い憧れである。確かに、この半球の全ての地域で、霊性のタブーに触れ、しばしばその地域おける宗教の主流派を逸脱するか、或いは外国の宗教と習合するような組織が存在している。ヨーロッパにおけるアンシャン・レジームの断絶、そして世界中で起きた伝統的社会秩序の崩壊は、自由主義、世俗主義、経験論という新しい現状に対抗し、秘的諸秩序が提携できる状況を生み出しつつあるかもしれない。例えばもし、啓蒙思想が人間を真の意味から引き離したものであるならば、その価値とは結局何だったのか? 近代性の様相から疎外されたこれらの反体制派は、様々な流派を形成しているが、一般的に世界から失われた古代の形而上学的な知識に重きを置いている。そして、彼らの使命とはそれをもう一度、陽の当たる場所へと連れ出すことである。
反動秘教主義へ政治運動を推移させていくことは、簡単な務めではない。議会主義に対抗するには本質的にエリート的過ぎるが、その結社は既存の政党の中においても、並立する影響力のある権力体として機能するかもしれない。或いは、この結社と陰謀的性質は、議会の外での活動を調整に役立つかもしれない。秘教主義者の綱領のその緻密な細部は場所によって異なるだろうが、権力に関する目標はその本質的性格を保持している。即ち、その国に相応しい者が結社へ加入し、その者以外の人々、つまり過去数世紀に亘り自分たち自身に対する支配を尽く失敗させてきた者たち、それを支配する位置に就くということである。
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