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Red Flood イデオロギーリスト/無政府主義編

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社会無政府主義 (Social Anarchism)

共産主義者の計画の最終目標は、数多くの理論家が述べたように、階級や貨幣、そして国家の無い社会である。議論の余地はあるかもしれないが、要するに無政府主義のことだ。

想像できるだろう、この事は過去1世紀の大部分に亘って政治的左派の中での不和の種となっていたのだ。国際社会主義運動創設の為の試みはその初期から、社会主義者と無政府主義者とは最終的なユートピアへの到達方法を巡った各々の対立が見られた。今日、社会無政府主義と呼ぶことのできるものは――かつてのディガーズ (真正水平派) のような平等主義運動を除けば――ミハイール・バクーニンの「集産無政府主義」から始まったもので、カール・マルクスの共産主義への道を権威的で中途半端に引き裂かれたものだとして断固反対した一団である。プレロレタリア独裁はツァーリ以上にひどい暴政を敷き得る手段であると、彼は主張したのだ。

彼はリバタリアン左派の地位を主張した最後の人物とはならなかった。バクーニンが生産手段の集団化を提唱した一方で、無政府共産主義は更に、こうして生産されたもの全てを共同利用の為に共有することが、人が繁栄を追求する為により一層良いとして、これを提唱する立場を取った。他方では、労働組合を望ましい自治単位として見做し、組合主義と交配する立場もある。また或いは、政党や運動などへの正式に参加は主張の本質を見失わせる為、大衆は大胆な革命的暴力行動を通じてこそ自分自身を解放するよう鼓舞できるだろうという立場もある。

国家権力の行使に関する政治的左派の道義心に仕える為であれ、或いはロマンティックな革命家の象徴になる為であれ、社会無政府主義者は政治的可能性の境界線の上に立ち続ける。継続している近代性の危機は、独裁体制に奉仕する大衆運動を生み出している一方で、自分たちを失望させている国家や市場に反抗する人民もますます増加させている。そしてもちろん、大戦の余波は国家社会主義者たちにその栄誉を与えたように思われたものの、古い論争が決着したとは言い難い。もしパリ・コミューンの後にマルクス自身が権力の革命的中央集権化に疑いを深めたのであれば、歴史はもっと多くの教訓を与えてくれるはずである。

個人無政府主義 (Individualist Anarchism)

太古より、人間は自分の首に支配の軛がかかっていると感じてきた。封建貴族、絶対君主、そして近代の代議士たちは皆、自らの被支配民の身体と魂とへ冷酷に鉄槌を下す機会があり、もはやその枷から解放されることを夢見ることさえできないほど衰弱した存在として縛り付けてきた。革命家と呼ばれる人たちの間でさえ、国家の命令による奴隷制への回帰という悲惨な事態をあまりに多くの者たちが容認している。社会の基本単位――個人――が束縛されたまままで、革命に何の価値があるというのか? その鎖を断ち切る為に必要なのは決意であり、これは政党やネイションのような抽象的な理念との戦いでは見出せず、人類が最も身近でよく知っているもの、即ち自分自身との戦いによって見出されるのだ。

マックス・シュティルナーの著作と最も密接に関連し、そして即ちフリードリヒ・ニーチェの哲学とも同様な個人無政府主義、その最も説得力のある表現は、労働組合のくだらないパンフレットの中でも政党のお世辞の言葉の中でもなく、侵食する国家の瘴気を押し返すとそれぞれ決意した英雄的個人の行動の中に見出すものだ。従って、他の多くのイデオロギーが基幹とする争点や政治的教義を掲げて結集するのに対して、個人主義者の核となる原則は多様な方法で体現され得る。伝統的な社会組織――良くも悪くも、大衆の力はそこから逃れられない――を完全に否定する訳ではないが、それらは単に目的の為の手段、国家を破壊する為に振るう道具であり、それ故、革命が覇権を獲得するにつれ、個人の首を絞める積み上げられた階層はそれぞれ最大限の闘志を以て破棄され、順番に破壊されなければならない。シュティルナーの信奉者から、ジュール・ボノーのような違法主義者、そしてボストン学派の市場無政府主義者に至るまで、各人は自分の魂から生まれた自由への道を見つけ、それを達成する為に力強く努力するのである――必要ならば、如何なる手段を講じてでも。

神秘無政府主義 (Mystical Anarchism)

多くの煽動家は宣言する、革命と社会の進歩とが永続的な変化を齎す為には、政治的な領域よりも深いところに行かなければならないと。ある者は文化的・社会的な特徴点を探究し、最良の政策やダイナミクスについて論じる。しかしながら、少数のプロメーテウス的な魂を持つ者は、魂の領域へと突入する。神秘無政府主義は説いている、霊的革命は社会的革命と同じくらい、いやそれ以上に重要であると。それは人類の集団的な魂に真の解放を齎し得る手段である。過去の古めかしい構造を取り壊し、人間の精神を閉じ込める制度や理念に対する無頓着な隷属から大衆を解き放つことで、究極の解放が可能となるのだ。

「正統派」神秘無政府主義として描き出されたものとは、主流の無政府主義理論を統合して形成されており、その実践と神秘哲学とは19世紀から20世紀初頭に掛けて、ドミートリイ・メレシュコーフスキイやゲオールギイ・チュルコーフなどを含む象徴派によって生み出された。他方で、中世のマルグリット・ポレートの著作や古代のグノーシス的な書物などのような、より遠く古いインスピレーションの源泉も主張されている。それ以来より広く拡散され、世界中の類似した成果は融合し、より大きなものへと統合された。神秘無政府主義者は他の無政府主義者の従兄弟たちと幾つかの要素によって大まかに区別することができる。第一に霊的な寛容さ、それは妥協のない道徳的価値観であり、殆どは曖昧なキリスト教的性質によるものだが、この道を外れてよりオカルトや東洋的な探究を好む者もいる。第二に神秘的な知覚の才能、自分の環境や譬喩的な文章から霊的な側面を認識する能力である。最後に、宇宙の究極の原理に対する深遠なる衝動である。

確かに、根本的に社会の解放とは目的の為の一つの手段に過ぎないと言えるだろう。「新しい人間」は内面的にも解放されなければならず、現実世界による束縛から自由ならなければならない。ある神秘無政府主義者はこの世界観をキリスト教の黙示録と結びつけ、また一方でより秘教的な信念の者もおり、或いはその両方を融合させる者もいる。個人の自由それ自体が、全ての人が神を分かち合う為の超越的な一体感――つまり神秘的な変容、真の意味での自己実現――即ち「超個人主義」の支持に凌駕されることとなる。進むべき道は明らかである。革命は二重でなければならず、それ以外に無い。

国民無政府主義 (National Anarchism)

無政府主義が国民主義の仲の良い同志であることは殆どない。多くの社会主義者の従兄弟たちと同様に、歴史的な無政府主義者の視点では、国民主義は人々の兄弟愛を阻害し、軍国主義を加速させ、そしておそらく近代国家の形成そのものと密接に関係するものとされている。この理論の大部分に議論の余地は無い。だが興味深い事実もある――1848年革命に際し、未来の無政府主義の指導者ミハイール・バクーニンは、ヨーロッパの大帝国を破壊する為の国民主義運動の大規模な協同蜂起を提唱し、フューメ連盟と全く無関係とは言えないようなイデオローグとして、この時期を過ごしたのである。

しかし他の多くの集団がそうであったに、大戦とその余波は古い均衡を打ち崩した。ピョートル・クロポートキンやジャン・グラヴのような著名な無政府主義者の多くは、祖国の戦争努力を支援する社会主義政党と同じように、革命の障害として見做された中央同盟国に対する、協商国の勝利を公然と支持した。これは秩序だったイデオロギー的団結ではなかったものの、如何に無政府主義の原則が国益と相互作用し得るかを示すものであった。さらに鮮烈だったのは、未来主義者の大御所マリネッティがブルジョワ的な政治と道徳とを破壊するという共通の願望に基づいて提唱した、イタリアの無政府主義者との同盟であった。それは日和見主義や挑発であったかもしれないが、全くの二律背反なのだろうか?

国民無政府主義は、その名の下にグループ化された幅広い運動を含めると、博愛主義の教訓を取り除いた――反国家的でありながら愛国的、さらに超国粋主義的でさえある――無政府主義であるとざっくり説明することができる。その組織の多くは戦後秩序に対する過激な右翼的批判を通じて威信を高めてきた。ある者たちにとって、自分たちが知っているような政府は、自分たちが支持するエリート主義的或いは英雄的な国民的理想を阻むものであるとして、より自律的な単位に分権化させなければならないとする。またある者たちは、国家の完全な破壊と、より根源的な同一性を反映した均質なコミューンへの分解を求めている。確かなことは唯一つ、それは中心が崩壊した時、民衆の手は正しい事と必要な事とを行う為に解放されるだろうということだ。

軍政無政府主義 (Stratocratic Anarchism)

歴史的な記録には、不当なヒエラルキーや搾取に代わるものを求める先見の明が数多くある。それらは人間の境遇の改善や個人の自由の名の下に信奉者を集め、時にはそれらの価値観に従って自律的に生きていく為に、より広範な文明から自分自身を分離することもある。歴史的な記録にはまた、このような先見の明を持つ人々が、大衆に対する戦力を倍増させる為の、軍事的な生産と調整とに影響力を行使できる能力がある、国家の組織的な軍隊によって抑圧された例も多くある。確立された権威に対抗して指揮されている革命に内在する燃え上がる圧力に直面する中で、新たな形態が時折現れる、それが軍政無政府主義である。

義賊を実践する集団ような、インスピレーションを与えるのに役立ったであろう準軍事的な組織が過去に存在したのはおそらく間違いないものの、大戦末期の紛争は革命が如何に指揮されるべきかを示す事例を与えた。ロシヤ内戦の中でも、傑出した革命的軍事指導者の一人が、献身的な無政府主義者たるネーストル・マフノーである。彼が社会主義者たちとの絶望的な同盟を結ぶ以前、そしてカフカースへと撤退する以前、彼はウクライナの諸コミューンのネットワークの防衛と統治とを交互に行った叛乱軍を率いていた。彼らの執った手段の道徳性は後年まで議論されている、それでも......

従って軍政無政府主義は、その運動がそれ自身とその利益を守る為にどのように望むかという疑問に対する答えである。それはリバタリアン的闘争への革命的エランを、軍隊的構造の器に熔接したものである。軍隊が民主的な組織となるのか、或いは住民がどのように動員されるのか、その日の命令は場所や状況に応じて異なるが、その結果は戦場において驚くほど効果的であることが証明できよう。もちろん、無政府主義者の仲間の中で論争にならない訳ではない――勝利の為に軍の規律が必要だとしても、銃声の止んだ後にそれが緩められると信じられるであろうか? しかしながら、真の自由に対抗して隊列を組む勢力がますます凶悪さを増しつつあるこの世界で、無政府主義者たちが挑戦してこなかったとは誰であろうとも言わせない。

無国家状態 (Statelessness)

無国家状態という言葉は、無政府主義に関係する言葉である――とはいうものの、無政府状態 (アナーキー) それ自体がそうである。結局のところ、無政府主義者の計画の最終目標は、国家又は汎ゆるヒエラルキーの廃止と、それを他の自発的な秩序に置き換えることを特色とする。しかしながら、その最も古い定義とは純粋に政府の不在を指し、熱望される政治的目標というより、むしろ陥ってしまう状態として述べられるものだ。それにも拘わらず、より良い分類が無い為に、革命的無政府主義というラベルの下に集められた三つの無国家的な状態がある。

第一に、公的秩序の崩壊した状態を意味する。官僚主義的かつますます中央集権化された国家が世界の大部分を支配するようになったが、これら全ては依然として、ホッブズの述べた「万人の万人に対する闘争」によって押し流され得ることへ恐怖を感じている。戦禍や災害などを被った地域では、人々の手の届く範囲を超えて存在する、明確な政治的権威が直ちに失われる。

第二に、中心都市や植民地の前哨基地から遠く離れたところに存在する、従来型の国家による統治を全く受けたことがない政治形態を意味する。そこには、権威が力や年功序列、或いは霊的な意義などに基づいて存在するかもしれないが、氏族や部族、又は群れは従来型の国家と同じような形ある境界線を持たない傾向がある。実際ところ、彼らは地図上の線に対して肩をすくめるような、移住・遊牧の民であるのかもしれない。

最後に、無政府主義の原則の完全な実現によって齎されるかもしれない無国家状態を意味する。推定上、この場合の社会は、それらを調整する為の包括的な組織無しに、高度に地方分権化された単位に回帰しているとされる。これは解放への道の前進なのか、それともルソーの述べた自由な自然状態への回帰なのかは、それが誰の夢であるか次第である。


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