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Red Flood イデオロギーリスト/多頭制編

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アノクラシー (Anocracy)

共和国と王国、反動と革命、自由主義と権威主義。ある時代のイデオロギー闘争を、明確に定義された二つの陣営に単純化することは魅力的である。大戦の余波の中、新しい国際的な運動が盛んになっても、政治を論じる際に「自由」と「不自由」の境界の線引を試すことは未だ可能である――しかし、簡単に分類できないものもある。大戦とそれに続く不安定によって生じたこの勢力は、イデオロギー的綱領の全体化に対する執着を持たないものの、代議制的でもなく、また単なる平凡な軍事独裁制でもない国家を生み出した。専制的制度と民主的制度とのハイブリッドであるこのような体制は、アノクラシーとして分類される。

当然ながら、数多くの政府がこの分類に当たるだろう。ナポレオン3世のフランス第二帝政は、帝位の正当性が時折行われる国民投票によって裏付けられ、国家と経済が様々な利害関係者からの圧力によって自由化されていることから、これに合致するといえよう。時には、アノクラシーは言葉の上では立憲的で代議制的であっても、実際には単一政党が国家制度や後援ネットワークの統制を通じて支配的となったり、合法的なな反対派が狭い許容範囲にしか存在しなかったりする場合がある。また時には、権威主義的な体制と定義されながら、党内選挙や一部の事項についての国民投票のような、国民の政治意識を方向付ける為に民主的な機能を備えている場合もある。このハイブリッドな体制は、政府が当初意図した設計ではなく、内外の圧力によって時間を掛けて進化した状態であるかもしれない。

アノクラシーの観念には、理想主義的なものや教義的なものは殆どない。世界中の準専制国家や一党優位民主制国家を束ねていると称するようなアノクラシー・インターナショナルは存在しない。しかしながら、この体制が適切に管理された時、他の政府と同等に安定し、決断力のある統治が実現できる。指導力の質が、この体制が進化の体制となるか、或いは停滞の体制となるかを決定するのである。

国民民主主義 (National Democracy)

理想主義者が何を言おうと、ネイション間の競争はゼロ和ゲームである。大戦がそれを十分に証明している。その本質的な真実を忘れ、現在進行形の闘争を無視することは、全てを危険に曝すことになる。国民の混乱と政治の行き詰まりの産婆と成り果て堕落した自由主義は、その典型である。しかしながら、代議制民主主義の概念、つまり無関心な貴族ではなく、民衆がその政府に声を上げることに本質的な欠陥がある訳ではない。かつてのアテネやローマの市民民主主義は、参政権を愛国的義務と軍役奉仕とに密接に結びつけた。自由主義の罠――弱点――を取り除き、純化され強化された観念の遂行が実現する、それが国民民主主義だ。

しかし、この傾向を定義するものは、非自由共和主義という漠然とした観念以外に何があるのだろうか? おそらく、この名前を最初に作った理論家はポーランドの国民主義者ロマン・ドモフスキであろう。彼への信用はロシヤ帝国との融和を図る態度により失墜したものの、彼の組織であるエンデツャは民主的だが反多元的、かつ中央集権化されたポーランドという構想を推進した。戦後のフランスで短命に終わった極右政権は、君主主義と連携する者が主だったが、第三共和制の派閥主義をひどく糾弾する共和主義車の一派も参加していた。民主主義を完全に放棄する後継者がいる一方で、民衆とネイションの結束が政党と民主的プロセスを通じて表現され、時には指導者が民の体現者であると考えた後継者もいた。

実際には、国民民主主義はより強い政府権力を支持する。もし指導者や政党が民衆を体現しているならば、自由立憲主義が多数派の意思に課すある種の制限を排除することが可能となるであろう。こうして権力を得た体制は、政治的にも文化的にも国民の結束に対する脅威について考慮する必要がなくなるだろう。しばしばイデオロギーの名前の二つの部分が互いに競合することもあるが、このラベルは党内外の民主的構造を維持する政府を指しているのだ、それがどれほど反対派を落胆させようとも。自由主義の構造的腐敗から解放されたこのイデオロギーは、歴史書の中に埋もれることなどない唯一の代表的政府を可能にする、と彼らは反論するのである。

寡頭制 (Oligarchy)

人類史上最も古い組織形態たる寡頭制は、極めて単純な概念である。つまり血や地位、或いは富や使命などを通じて繋がった特定の人間同士が結束するというものだ。少数が多数を支配する政府のこの基本原則は、必要に応じて改良と明確化がされながら、いつの時代にも不変のものであり続けている。

この一見下品な存在は、その裏に多様性、形態、機能、そして現世代に至るまでこの現象が経験してきた複雑な発展の濃厚さを潜めている。諸制度の中庸 (Golden mean) であるとギリシャ哲学者たちによって考えられたこれは、君主制と民主主義の間の等距離点であり、従ってその美徳は国家を効果的に支配する能力と法の適用における固有の制約との両方であるとされた。大きな危機が迫った時、例えばギリシャでの危機やスペインの半島戦争のフンタで起こったように、地方の有力者は自分たちの私領を守る為に、そして立法者が不在でも法の支配を継続を確保する為に連合した。これらの場合、それは自然かつ地域的な統治要請への対応であったため、今日でも寡頭制というのは地域のエリートとの強い結びつきを持っている。近代世界において、このような制度は裕福なビジネスオーナーの派閥や準封建的なカシケらの集団、或いは強力な党占政治 (Partitocracy) や権威主義的だが分権的な体制、そうしたものなどに似ているかもしれない。

寡頭的体制は、公然にエリート主義的であれ暗黙の徒党に作られたのであれ、関係者の間での絶えず変化する要求、同盟、苦情、利害が複雑に絡み合った網目構造を誇る。寡頭制は無数の可動部品を持つ複雑な機械であり、そこにその弱みも強みもある。つまり、偉大な政治家はその不安定な均衡を維持したり、より大きな目的のためにそれを破壊したりして、自身の目的のためにそれらを利用することができるが、これらの隠れた利害関係は自らの権力への侵害に対して連合する可能性も非常に高く、彼の支配権が行き過ぎれば公正な警告を与えるだろうということだ。

軍団寡頭制 (Praetorian Oligarchy)

軍隊は、その欠点も栄光も含めて、全ての歴史を通じて人類文明の礎の一つであり、重要な政治的プレーヤーであった。それは諸制度と汎ゆるネイションにとっての運命の輪を務め、そして今日でもその名に相応しい、全ての国家にとって欠くことのできない道具である。この現実の暗い真実とは、時として、この権力への接近が権力に対する飽くなき渇望を生み出すばかりであるということだ。

必要性からであれ野心からであれ、「国家を持つ軍隊」の典型は可能性と危険性の両方を持っている。決められた政治的目標が武力を用いて追求され、戦闘的な組織を作ることを必要とするようになるかもしれない。やがて、その運動自体が軍服を着て、軍鼓の響きに合わせて行進し、その組織は厳格な規律と指揮系統に従い、その指導者は今や厳粛な敬礼で迎えられ、その神話は兵士の信条に変容していると悟るのだ。また文民政府が、おそらく国家に対する責任を果たすことができず、速やかに軍の権威に取って代わられることもある。言うなれば、ネイションを守る最後の砦が単にその目的を果たすだけである。国家が自らの軍隊を信頼し、様々な理由から与えられた領土に対して例外的な命令権の行使を許可しただけということもあり得る。それは一時的なものであったり無期限であったりするが、軍人に対する敬意は紛れもないものである。

このような場合をカウディーリョたちや他の専制者のような派手なカリスマ性と混同してはならない――これはワンマンではないのだ。あなたは政治システム全体が、一人の元帥ではなく、制度としての軍隊に服従する様の目撃者となる。独自のルール、独自の社会の中の社会、そして独自の象徴や物語を持つギルドだ。委員会 (Junta) を通じてであれ一人の独裁者を通じてであれ、これはカーストの美徳によって事務員や商人を支配する戦士の自然的特権の成就なのである。

金権政治 (Plutocracy)

身分を示すものというのは、決して君主制における王冠や祭服だけに限定されるものではなかった。中世ヨーロッパの商人共和国や革命以後の自由主義国家、そして古き共和政ローマであれ、高貴な生まれというよりも、むしろ己が財産とそれが齎す影響力とで自らの地位を築いた者たちの階級が存在した。人々の顔に貼り付いた大コオモリダコ、ブルジョワジーの独裁、そして同様のもの――金持ち貴族の政治への影響力に対する批判はどこへ行っても彼らに付き纏っている。寡頭的な権力機構も珍しくなく、世襲的統治者が相続した財産を用いて自身の富を築くことも見られるが、金権政治では純粋に富により選ばれたエリートによって政府が支配されている。

しかし、ただの欠陥のある民主主義や権威的体制を金権体制に陥らせるものは何だろうか? 自らの等級から利益追求の為の筆頭代表者を選出する、富よって直接任命された者たちの評議会が存在することは稀である。むしろ、エリート層が自らの影響力を行使したり、又は自分たちの利害を代表する為に自分たち自身を公選役人に据えたり、こうした既存制度の破壊の中で金権政治は成長する。或いは、オランダ東インド会社――独自の外交権、裁判権、貨幣鋳造権を持っていた組織――のように、投資家理事会よる政府の公然な傀儡化が、おそらくは国家の崩壊によって、為されるかもしれない。

金権政治は、大半の場合に蔑称として使われている。左派からも、右派からも、全国民の大多数からさえも、この体制における優先順位は、この階級の直接的利害にのみ合致するのではないかと疑いを掛けられている。これは、物質的な利益が上層部に生じれば下層部は損失を被ること、或いは国際的投資が国内投資以上に優遇されるということを意味し得る。しかしながら、最も慈善的となるのは、金融エリートが彼らの投資の安定を維持することで既得権益を持ち、彼らの利害と国家の利害を一致させることである。このような状況では、物質的な儲けに向けた金欲まみれの目線が貴重な資産となり得るのだ。

臨時政府 (Provisional Government)

時折、古い世界が死に絶え、新しい世界が生まれることがある。独立は政治闘争や武装闘争をによって達成される。政府は民衆によって転覆される。憲法改正の必要性が非常に差し迫るものとなれば、体制は自らの再構築の為に進んで解体され、それ自身か或いはかつての政治的外部関係者と合意の条件について再交渉する。しかしながら、それがどう達成されようとも、未来の荒々しい獣は新たに誕生した権力の前に跪き、未来の抽象的な疑問は「今どうするか」という実際的な現実に道を譲る。その中間地点にあり、この新国家を管理するものは多くの場合、臨時政府である。

イデオロギーというより妥協としての性格が強いこの用語は、政府が初期の構造を作り出す間、日常的な社会機能を維持する一時的な制度として説明される。政治における現実として、大変革を求める運動がその変革の後の生活がどうあるべきかについて、特に行政の緻密な細部における、統一された見解を持つことは殆どない。暫くの間、論議を監督し公的秩序を維持する為に幾つかの機関を設置しなければならず、これは一般的に任命制か集団指導体制を伴う。移行期間が終了した後、しばしば就任選挙を経て、権力は先の運動によって樹立が推進された政府へと移譲される。

臨時政府の矛盾は、その表面上に多く存在する。政府の最終的計画が如何に民主的であるとしても、それを保護する為の手段はしばしば公衆の意見を受け入れる余地は殆どない。プロセスの安定は最重要だが、その期間を過ぎた時には解体されるような設計も同様に重要なのだ。この手続を見守る強き手は、独裁の到来の兆候なのだろうか? 手を緩めるのが早過ぎれば、政府の慎重な交渉を崩壊の危険に曝してしまうことになるのだろうか? この境目の状態では、暫くの間はどのようなことでも可能である。だが気をつけねばならない、政治において、一時的な解決策以上に永続的なものは存在しないということを。

植民地政府 (Colonial Government)

植民地主義のような、一見自明であるものでさえ時と共に進化してきた。だが不変の特徴も存在する。即ち、土地や市場、資源の追求における、或いは自身らの宗教や帝国の範囲の拡張における、その正当化である。しかし領有が宣言された土地が拡大し、そして技学と行政の専門知識が増えるにつれて、統治体制はより洗練されてきた。植民地政府について考察する時は、常にその支配の手段について研究する必要がある。

植民地は、その宗主国にとって不可分のものではない。そうなることは植民地事業の最終的目標かもしれず、まさにそれを理由として直接的な植民が奨励されることもあるが、海外領土には通常、宗主国と同様の政治体制が敷かれることはない。代わりに、時の植民地政府はその本国政府に応じて行動する傾向があり、法律や統治法の承認の為に本国へ提出することさえある。しかしながら、数世紀を経て植民活動が減退し、居住地域の更なる拡大が経済的・戦略的な理由から主張されるようになると、安定した統治と資源採掘とを確実にする為に、行政はより複雑化せざるを得なくなった。一方で、本国への発言権を与えられていなかった植民地でも地方政府の権限はより強化され、時として、表向きには有力者が行政の政策へと地元の利害関係を持ち込める、任命された機関或いは諮問機関が設置されることもあった。また一方で、既存の権威――王や酋長など――は植民地制度とますます結びつき、その地位や人脈を首都への税金や新兵の徴収の為に用いることで、その制度の範囲内においてある程度の自治権が与えられた。

植民地政府はそれ故、外国の地図に描かれたような、単なる境界線以上の要素を持つ。政治的にも商業的にも、植民者の流入や費用の掛かる守備隊の設置のなしに、こうした領土を管理することが可能となるこの関係は、見掛け以上に複雑である。概して、植民地はより大きな自治政府を目指す傾向があり、特に大戦による損失とそれが齎した社会政治的な緊張とを抱えた植民地ではより顕著である。未だ世界に残されている植民地群は、末期の英領インド帝国のような劇的な限界点へと向かうのか、若しくは継続的な支配関係の見直しがされるのか、どうなるかは誰にも分からない。


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