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Red Flood イデオロギーリスト/保守主義編

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自由保守主義 (Liberal Conservatism)

政治的ラベルは対象を変え続ける。自由と保守、左翼と右翼、反動主義者と革命家、こうした用語は絶対君主制の全盛期やフランスの球戯場の誓いから具体的に変化してきた。20世紀の半ばにおいて、これらが表すものは、彼らがどの様な現状について論及しているかによって評定されなければならない。これは、自由保守主義のような、二つの移ろいゆく理想の名を冠するイデオロギーを描写する時、特に重要である。

啓蒙思想の哲学者たちは、必ずしも統一された傾向を体現した訳でなかった。ある種の自由主義的或いは共和主義的野心に二の足を踏みつつも、民間資本主義の勃興と個人の権利の観念とに大賛成する者は数多くいた。イングランドのバークやフランスのド・トクヴィルらは、彼らが非難したフランス革命の様な出来事とは対照的な、改革的として見做される傾向の代表者であった。封建主義についての問題がもはや適切でなくなった時、彼らの後継者が警告したり部分的に採用したりしたものも同様に、新たな改革派や急進派へと転じた。

自由保守主義、現在の政治的空間においてのこれは、啓蒙思想的な計画を受け入れつつある。自由市場や議会政治など、そうしたものは解決済みの問題だ。しかし、個人の権利と伝統的価値観との信条の十字路には、自己責任を原則として自らのアプローチを組み立てる者もいる。公衆道徳は支持する価値のあるものだが、富の再分配や社会工学はより偏見的な目で見られる様になった。体制全体を覆し得る集産的急進主義対して、或いは横暴な政府介入に対して懐疑的な自由保守主義は、自由民主主義の冷静な考え直しとして機能し続けている。エドマンド・バークが第一次フランス革命によって撒き散られた流血への反対に立ち上がった場所で、彼の後裔たちは同様の嵐へ立ち向かう準備をしているのだ。

社会保守主義 (Social Conservatism)

我々の知る世界を摩耗させる、潜在的な趨勢やプロセスが存在する。大衆の識字率向上は、啓蒙思想の理想を大衆へ齎した。大洋越えたところでさえ、国王や教会の優位性は疑問視された。資本主義の新時代は、職人たちを団結させていたギルドを台無しにした。産業化とそれに伴う都市化は、古い職業と家族関係を破壊した。

浸食、これもまた一つのプロセスだ。全てが海へ流されてしまう前に、基礎を固める必要がある。自由主義的な統治が現れる以前から、長い間社会の根底としての役割を果たしていたものを無くした際の影響について考える哲学者は存在しており、彼らは少なくとも慎重な考慮をしないことはなかった。そして今、程度に差はあれど、正当性を主張しているのである。

社会保守主義にもし国家や文化の垣根を超えた統一された特徴があるとしたら、それは伝統的な社会構造 ―― 労働、家族、文化の前述の形態 ―― を維持し守り抜きたいとする願望である。これと従来の反動主義的運動とをイデオロギーの部分で区別する要素は、自由民主主義的政治構造の中で活動することを望んでいる点だ。こうした範囲の内で、世俗主義よりも信仰が、個人の幸福よりも集団の幸福が、公衆道徳を奨励するための法律を駆使する国家によって奨励・支持されるだろう。しかしながら、この保守政権の経済政策は政党毎に異なる場合がある。ある政党は家庭や地域経済への世界的混乱の影響を減らすために支出増額、補助金、そして保護主義を唱えるだろう。一方で可能な限り怠惰や逸脱を抑制するために緊縮財政を好む政党も存在するだろう。

そこへ到達する手段に相違はあるものの、古くから変わらないものが齎す心地良い抱擁は、世界中どこでも十分な魅力を持っている。個人の権利や議会政治といった啓蒙思想の遺産を破壊してしまう必要はないが、社会保守主義者の保証するものは、人々を一つするとして知られるものに基づく共同体である。近代性の保証したものがその帰結に直面し、不満を抱いた人々が血気盛んな急進主義に誑かされる様な世の中で、我々の未だ失ってはいないもの、それを手に取って胸に抱く時が来たのかもしれない。

右翼大衆主義 (Right Wing Populism)

大衆の叛乱とは、左翼や右翼だけの現象ではなく、また常に新秩序を求める声だけではない。歴史の記録の中には、国王の名の下での農村叛乱から、古くからの暮らしぶりを破壊する新たな生産手段に対する猛烈な抗議に至るまで、始まってしまった変化を取り消そうとする試みが多く残されている。しかしながら、全ての右翼的煽動者たちを原始人や逆行的な蒙昧主義者として分類することもまた誤りである。時には、政治運動がカリスマ的人物と大衆の上げた不満の声に包まれたものとなり、その声明は古い価値観、国民的誇り、強い指導力といった馴染みのある言葉を語りながらも、彼らは熱心な民主主義者であるかもしれない。保守主義がこの様な装いで現れ、旧弊的な政治体制を揺るがす意図を持つ場合、それは右翼大衆主義の一形態であると断定できる。

その左翼的な片割れと同じ様に、この傾向は時折、政治構造の外側の運動として生じた後に、政党を形成したり、或いは既存の政党の一派閥となったりする。同様に、既成の政治的舞台の外で始まることは、折衷的で習合的な政治的綱領を齎す。他の保守主義の様に、その経済的目標は、高い税金と制限を策定する体制の打倒であったり、若しくは古くからの産業や国内産業を保護するための規制国家的な統治の追求であったりするだろう。これを右翼として定義するのは、伝統的秩序に対しより重きを置く傾向である ―― もし大抵の一般庶民が今日と変わらない様な明日の訪れを望んでいるのならば、政党エリートによる隠れ社会主義や、資本家による経済的エリート主義は、本当に民衆の代表たり得るのだろうか?

右翼大衆主義は、政治的部外者に対する汎ゆる障害にも拘わらず、驚くほど実効的であることを証明できる。本気であるという印象、そして時折生まれる共通の優先事項、これらはこの運動が得られる投票基盤や選挙同盟の拡大を可能とする。同様に、過去の政治手均衡を保つための行為を覆すことに恐れを抱かないことは、指導者の予想する以上の早さでネイションを作り変えることを可能とする。護民官の称号を取り戻すことで、保守主義はもはや単なる現状維持ではなく、民衆に権力を取り戻すものであると見做されなければならないのだ。

国民保守主義 (National Conservatism)

過去おけるネイションの前衛は、恣意的に描かれた封建政治を克服した市民の権利を称揚していたため、殆ど自由主義と同一視されていたであろう。1848年の蜂起は衰退した諸公国や軋む諸帝国の下で湧き上がり、教会や玉座に敬虔とされる者を主とする体制支持者に対抗する、ブルジョワと都市を主とする革命的中核を据えた。しかし時の流れは当時の政治的問題を変化させ、そして大衆政治の台頭と共に、現状維持と保守の主流派との顔は移り変わってきた。国益はグローバル資本の陰謀の中に取り込まれてしまったのか? 社会主義の台頭は全てのネイションを赤い波で洗い流してしまうのか? 我らの知る世界は、国民保守主義を必要としている。

この傾向が優先するものとは、端的に言えば、行使可能な民主的手段による国民同一性と国益との保全である。その関心は地域毎に異なるが、家族や文化的慣習、民衆の同一性の様な、同じであると認識できる伝統における特質を明示する傾向がある。勿論、保守主義との親和性を持たない訳はなく、ネイションに掛かる圧力は、これまで適切であると考えられてきた大きさ以上のツールキットを要求するだろう。伝統的社会秩序の保護を強調する保守派がいる一方で、国民保守主義の系統は単純な企業規制と産業助成から国力と安定とのための徹底的な協同主義に至るまで、国家が高邁な志の目標のための行動的且つ創造的な役割を果たすことをより求めている。

その自由主義的な親類と同じく、国民保守主義も近代の苦難に対する集団的応答として進化してきた。それは世界的危機 ―― 地図上のの線を無視するほどのそれ ―― に直面した時、自国と国民を守るための強い手が必要であると主張している。しかし、怒りに任せて武器を振りかざせば、保とうとしている変わらない現状を本質的に危険に晒すことになるのであり、それ故このイデオロギーは弱りゆく世界に向けたより権威的な対応とは区別されて存在し続けている。


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