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先日観たお芝居  空の驛舎 第29回公演「かえりみちの木」

先日観たお芝居
空の驛舎 第29回公演
「かえりみちの木」
ウイングフィールド 2024/06/16,15:00

不思議な作品。まあこれは僕の体調に関係するのかもしれませんが。
あ、一応ですけど精神障害者3級です。僕なんかが障害者を名乗っていいのか、とは思うんですが、調子の波はかなり大きいんですよね。そのうえにLongCovidまだ引きずってますし・・・。
これを書き始めたのが7月4日、公演を拝見してから2週間わりとバタバタしてた疲れもあり、下の波のさなかだったこともあり、「なぜ今書き始めた?」と自分を詰問したくなるようなタイミングでキーボードに向かっていました。このあとに記述してますが「台本を読み返してもまるっきりリアリティがない(これに関しては決してネガティブな捉え方をしていません)」という書き始めです。本番はあれだけ愉しめたのに。
不思議、と思ったひとつの理由はそんなところです。
書いていくうちに、それだけが「不思議」の理由でもないということにも気づく訳なんですが。

で、それはともかく。

同じように「先日観たお芝居」って銘打ったただの感想とか分析とかを何本か書いてるんですけど、だいたいは劇場で買った上演台本を見直しながら、反芻しながら書くんです。そうすると整理されてくることもあるし、劇場で観劇してるときには気づけなかった機微にも触れることができたりする。そんな時には劇場で観た聴いた光景が鮮明に甦っていたりもします。

この作品「かえりみちの木」は。

同じように観劇して、同じように台本を反芻して、同じように光景が蘇ってきてるんです。
でも、同じように台本を反芻しているはずの、今の僕の心は動いていない。
このことはすごく興味深いし、不思議。

前提として、劇場を出るときに「よかった」「面白かった」「素敵だった」と特に思った作品しか「先日観たお芝居」シリーズには上げないんです。いいと思った作品はほかにもあるけど全部は書き切れないから、「特によかった」と思う作品だけ。だから「かえりみちの木」が僕の観たなかの「とっておきの作品」であるのは間違いない。
しかもその光景も「ちゃんと」以上に鮮やかに思い浮かぶ。声色、場所の明るさ暗さ、暑さ寒さ、風や雨の強さ弱さ、そんなものまで。
にもかかわらず、面白いとか面白くないとかそんなレベルですら、いまは心が動かない。

これって。

ひとつには、冒頭に触れた体調的なものもあるんだと思います。
けど、それ以上に。
おそらく「反芻できる作品が良い」なんて次元の話じゃなく、劇場の「空気の濃度・密度」への依存度の違い、かなあ、と。

・・・我ながら客観性のない書きぶりですね。

前述の通り、僕自身も(軽度ですけど)障害持ちで、プラス貧困層で、格差を目の当たりにしてて、理想だけは高くて、その理想はともすればダブルスタンダードに陥るのを自覚してしまってて、猫が好きで犬が好きで、犬や猫は人間の思うとおりにはならなくて、保健所や処分場がどんなところかも少しは知ってて、ひょっとしたら自分の生きてる世界、あるいは生きてること自体が処分場なのかもって思ったり、そんなことを経て無理にでも余裕を作ろうとして、少しずつできるようになってきたかなって自覚もあって、それもいつでもできるわけじゃなくて。

僕が勝手にシンクロさせてるだけなんですけど、今の僕をあんなに明晰に描かれてしまったら。
それもあれだけの人数が、僕の抱えてる複数の人格(思いとか考え方とかって言った方が正確かな)とどこか共通点の感じられる言動を、1時間半とか2時間かけて、僕だけじゃなく数十人のお客さんと共有してしまうんだから。
少なくとも舞台にいる人数分の「僕」の姿が劇場いっぱいに投影されちゃう。
終演後ケンシさんには真っ先に中西郁真(オダタクミさん)の役名を挙げて話し込んじゃいましたけど、彼だけじゃなく、たぶん全員に「僕」の姿が見えちゃう。なんだかうまくいかない、どうすればいい?、とか、今すこしはうまくいってるかも、とか、そんなことを考えているであろう表情が、僕のもののように見えちゃう。
これ一面ではしんどいんですよ。僕のしんどさが再確認されて。
でももう一面では、僕だけじゃないって、それも、僕の周りには少なくとも話を聴いてくれる人がいるよって、そう言ってもらえてるようで、嬉しい。
寄りかかりすぎるのもアレなんですけどね。

もう一つの視点。
観終わって、台本を読み返す。僕にとってはすごくすごく愉しい時間なんです。
で、その一方で、台本を読み返しただけでは、劇場の空気が甦らないときもある。
とっても面白い。興味深い。

というところで、じゃあ空気ってなんだろう、なんてことを考えます。

空の驛舎(中村ケンシさんの作品)の興味深いところは、公演・作品によって僕の感じる「空気」が僅かに、でも明確に違う点だろうと思ってます。このことはいまこれを書いてみて思い至ったことです。

昨年拝見した「雨の壜」。こんな感想も書いてました。

僕にとってはとても乾いた、冷徹な空気が印象に残っている。「冷徹」とは書きましたが、これは決して「優しい」の対義語ではない。雨が降ってるにもかかわらず湿度の低い、少しひんやりした空気の中で僕は優しく「泣いていいよ」と言われたような気がして事実泣きましたし。

今回の「かえりみちの木」。
一転して濃い「湿度」が強く印象に残っています。密室や熱帯雨林の高温多湿ではなく、ひらけた空間の、少しだけの冷たさを伴った、湿度。
――前作と「雨」が共通点なのに、こうも違うもんなんですね。これも興味深い――
台本を読み返して、愉しいんだけど、この「湿度」までは反芻できない。あの劇場空間=ウイングフィールドに居ないと感じきれなかったんだろうな、といまは思ってます。
そこで、「湿度」を基に思い返してみようかと。

当日終演後、ケンシさんと少し(と言いつつけっこう長話してしまいました)おしゃべりしたことで、「違和感」ということを申しあげたような記憶があります。
ここではまだ書いてませんでした。
強引に「湿度」≒「違和感」と結びつけることで、思いのほか腑に落ちたような気がします。

出演されてた役者さんが悉く「できすぎてる」。巧い下手ではなく。
「理想が高い(けど、その『理想』以外見えてない)」ひとだったり、「優しい(けど、それは一時的な『やりがい』『高揚感』の危険性に直面してそこから逃げたから)」ひとだったり。二人に限って書き出しましたが、それ以外のみんなそう。
で、もちろんそのことは台本にもちゃんと書いてある。
もし、台本や作品が役者さんに要求するものがこの2要素(「・・けど」以前の主的要素と、「けど」以後の「括弧」内の対義的要素)だけであれば、主としてこの2要素を役者さんが忠実に再現していたのであれば。
単純に「台本を反芻する」ことは遙かに容易だったと思います。僕にとっては、ですけど。
でも、実際に舞台で行われていたやりとりは、そんな単純なものではなく。
主的要素でも対義的要素でも説明しきれない、それ以外やそれ以上を含めた、「『舞台上にいる役者さん』ではなく『その場=狭いウイングフィールドに屹立していた「木」の周りで動いて喋っている「ひとたち」』が抱えている『何か』が抱えきれずにあふれ出したものだ」と言ってみて初めて、何となく少しだけ感情が追いついた気がするのです。
抱えきれずにあふれ出したものだから、(演出としてはともかく)あそこにいる人物たちの佇まいから、台本を通り一遍に読んだだけでは掬いきれない「違和感」を感じたのだろうと。
台本に仕掛けられた「罠」のようなものを、余さず掬い上げた役者さんが登場人物に過不足なく投影したからこその「違和感」が、舞台上に設えられた「木」の周りにちりばめられていた、そんな風に思えるのです。
ひとりの人物に関してさえ矛盾や違和感を孕んでいるのですから、そんな人物たちが会話を重ねれば重ねるほど、単純に書かれた台本の言葉を単純に口にするだけであれば成立したであろう「人物や状況の説明」「葛藤」からの「解決」というオーソドックスなフローが破綻する。「かみ合う」はずのピースに微妙なズレが発生する。

これって、観てる僕にとってはこれ以上ないくらい心地よい違和感。
おそらくその理由は、目の前で動いて喋ってくれてる「ひとたち」が、僕と同じように2つよりも多い人格を揺れ動いて、自分でもどうすればいいか答えを見つけてたり見つけようとしてたり、おそらく僕と同じようにあがいたり諦めたりしてくれてる様子を僕に観せてくれたからだろう、というのがひとつ。
で、もうひとつは、その1時間半から2時間のやりとりが、雨が降ったり止んだりする大きな木の下で行われていた、という安心感、あるいは「守られてる」「帰る場所はある」という感触かもしれません。
この1時間半から2時間ずっと雨が降っていた訳ではないですが(むしろ雨が降ってた時間は比較的短かったかもしれません)、ずっと乾いたままの空気の中では、違和感やズレは弾かれてしまっていたような気もします。
大きな木は雨粒を遮ってくれます。でも雨降り特有の湿り気は遮らず届けてくれる。だからずぶ濡れになる心配はそれほどせずに、むしろ心地よくまとわりつく湿り気を味わうことができる。その湿り気の中では、強く吐き出される、のではなく、ふと滲み出てしまう、思い、のようなものが、ふと見えてくるような気がします。当然それはひとりの人間が一貫性をもって、二つ以上の人格を意図的に使い分けて表明するようなものではないでしょう。「抑えきれない」ではなく。「抑えるのをふと忘れた」ときに「ふと」溢れたり零れたり滲んだりする。
繰り返しになりますが、劇中ずっと雨が降ってた訳ではありません。金谷靖子(佐藤あいさん)が「山の天気」と言ったとおり、すぐに夕陽が見えて。でも、僕の感想ですが、「湿り気」はカラッと消え去ることはなく。だから金谷はそのまま、飼っていた猫の話や、いまの仕事の話を、語り始める。
そして、このときも晴れてるけど、山本涼子(速水佳苗さん)が白井耕輔(柴垣啓介さん)に「あきらめるの」「認めるの」「白井さんはそれでいい」「逃げたっていいじゃない」。そして自分の今までの仕事を振り返って、「またしゃべりすぎた」。晴れてはいるけど、湿り気を失っているとは(少なくとも後半は)思えない。
(これも個人の感想です。速水さんのお芝居(ことに語り口)が僕は好きなんだろうなあ。自分の意志で、いわば「くっきり」と語るとき、そしてこの時のようないわば「ぼんやり」と、何となく話すとき。この二つを鮮明に描き別けるんだけど、でもどちらも「山本涼子=速水佳苗さん」から出てきた、地続きの言葉。「雨の壜」に引き続いて、乾いた空間も湿り気を帯びた空間も自在に描き出す。それも意図的なのか無意識なのか観ているこちらには判別できない。中村ケンシ台本/空の驛舎作品の魅力(のうちのとても大きな一つ)を体現してしまっている。と、ご本人や関係者の認識を全く無視して、勝手に思っています。)
そして、あきらめたり、認めたり、それでいいって、この時の山本はくっきりと言い切ってますけど、これらの言葉は語義としては「くっきり」と親和性の高い「前向きで明確な意志」とは逆を向いていると思います。あるいは「『前向きで明確な意志』から逃げてください」という、「ぼんやり」に誘導する言葉。
何度も繰り返しますが、山本がこの言葉を吐いたときは雨は降っていません(台本には「ある日の朝、晴れ」と記述されています)。山本がくっきりと言い切るためには「晴れ」の天候がふさわしいでしょうし、「湿り気」はむしろ邪魔になるかもしれない。でも。
「山の天気」ゆえかもしれないし、山本のキャラクターゆえかもしれないし、速水さんの持ってる空気ゆえかもしれません。白井との対峙が終わった頃には、ちゃんと湿り気が戻ってきているように思えた。
だから、山本は、「ふと」「ぼんやり」を滲ませることができた。だから、「逃げて」を、白井だけじゃなく自身にも、ほかのみんなにも、そして客席の僕にも、投げることができたんだろうと。

また1ヶ月もかかってしまいました。
皆さんが求めてるのは僕の分析なんかじゃなく「よかった」とか「面白かった」とか、そんな「感想」なんだろうということも解ってます。求められてるかどうかはともかく。
だから、需要も何もないただの自己満足です。
それでも、ここまで書かないと、僕にとっても「何が」「どう」「よかった」のか言語化できないので・・・。
(まあ大量の言辞を弄した挙げ句、結論がどうだったのかが日光の手前(「イマイチ」という言葉の言い換えだそうです)だったりします。簡潔にまとめる努力はこれからです)
ここまで書いた結論的なものとして。
僕はやっぱり「中村ケンシ台本/演出」が好きなんだろう。
「空の驛舎」作品が、「空の驛舎」に集まる人たちが、好きなんだろう。
だからこれからも観続けるんだろう。

・・・これだけ書き殴って結論がそれだけか(笑)。

2024/07/28 15:12
中村大介
伊吹珈琲 黒門市場店にて

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