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映画「差別」

04.06,2023 シネ・ヌーヴォ

日本全国の朝鮮学校に対する「無償化」の「適用除外」。
これを不服として学校が起訴、控訴審・上告審まで争われることになる。
ドキュメンタリ映画「差別」は概ねこの期間の学校、その学生・教師・父兄、弁護士を含めた支援者、国やヘイト団体の動きを淡々と綴る。

「淡々と」と書いたが、キム・ジウン、キム・ドヒ両監督の「伝えたい」というエモーションは十二分に伝わってくる。
作中、裁判所の前に集結した学生・支援者のもとへ「不当判決」の文字を伝えに走る弁護士。泣き崩れる学生・支援者。
観客の心を揺さぶり、観客を現実に引き込む、「伝えたい」というエモーションを実現するために必須の映像であったのは間違いない。
で、もちろんこれが両監督の「伝えたい」現実ではあろうけれど、それは現実の一側面でしかない、とも感じられる。

むしろ僕の印象に残っているのは、国や自治体から「無償化適用除外」を告げられて、抗議のためデモ行進を行う学生の姿。
各地で、何度もデモ行進が繰り返される。
両監督はこのデモ行進の光景を、少し違和感を覚える程度に長いカットで描いている。気のせいかもしれないが。

これが朝鮮学校の日常なのだ、と言われたようで。

教室で、グラウンドで、部活動で、そこで勉強し、身体を動かし、好きなものに没頭する。その当たり前。それだけで完結すべき日常。
当たり前を守るために、本来なら必要のないデモ行進を強いられる。
これも朝鮮学校の日常のひとつ。
彼ら/彼女らが、この、本来なら不必要な行為に駆り立てられているさまを、どれだけの市民が知っているのだろう。その意味を理解しているのだろう。
彼ら/彼女らにこの行為を強要するものは何か。
どれだけの人が意識しているのだろう。

キム・ドヒ監督の口から直接聞いた言葉として「無関心」というものがあった。
日本はもとより、韓国でも、朝鮮学校に対する不当な処遇に対して、決して関心が高いわけではないらしい。
(「らしい」と敢えて書いたのも、僕自身の関心あるいは理解が追いついていないことへの自問・自省。)
両監督の意識、これを「苛立ち」や「もどかしさ」と理解してもいいと思うが、これはおそらくそこに、「無関心」に向かっている。
作中に「私たちは今まで何をしてきたのか」と憤る日本人女性が映し出される。キム・ドヒ監督はこの日本人女性の言葉を引いて「『恥ずかしいです、日本人として恥ずかしいです。これまで私たちは何をしていたのでしょうか』という日本の方のセリフがありますが、ここで『日本人』を『韓国人』に変えれば、同じ現在の私たちの状況になると思いました…。」と語っている。
そのトヒ監督の言葉を受けて、果たして日本に住む、朝鮮学校と隣り合わせの我々は。
充分に関心を持っていると言えるのか。
朝鮮学校の異常な「日常」に、どれだけの関心を寄せているのか。

言い訳のようになってしまうのだが、これに少しだけ、普段僕自身が考えてることを結びつけてみると。
ひとりの人間が抱くことのできる「関心」の量には上限があると思う。その中で、どの事象に対してどれだけの「関心」を割り当てるか、優先順位は人それぞれ。それぞれの人にそれぞれの事情があって、いかにすぐ隣にいる朝鮮学校とはいえ、明日の食費や今月の電気代の心配よりも優先するのはなかなかに難しい(僕がそうです)。
もちろん経済的不安だけがその要素ではなく、それこそ人それぞれの事情があるのだけれど、もし、それぞれの人がより高い優先順位をつけそうな事情を、知らないうちに与えられてしまうような社会的な圧力があるとしたら。
それほど簡単な話ではないことは重々承知の上で、「自分の生活にいっぱいいっぱいの人たち」にとっては、他者の存在に関心を巡らせるのは非常に難しい。逆に、何かのはずみで誰かを非難することができれば、「自分の生活にいっぱいいっぱい」な現状の「憂さ晴らし」はたやすくなる。一部の人たちにとっては、都合の悪い事実を隠すための目くらましとして、「いっぱいいっぱいの人たち」を恣意的に作りだして、その結果「無関心」でいてもらったり、「非難」を大声で叫んでもらった方がありがたいのだと思えて仕方がない。

脱線のついでに。
昨日(04.09,2023)、大阪では府知事・市長・府議・市議会議員選挙が行われた。
日本政府は自民党、大阪府・市は維新のほぼ独占状態。
投票率は、今回の府知事選で約46%。今年の参議院選挙で約52%。
一般的なことばとしての「無関心」と有意に結びつけられる数字かどうかはその対象によって判断に迷うところだが、少なくとも、税金・健康保険・年金・医療体制・子育てそして学費、明日からの生活に密着した、お金を中心とした生活そのものを左右する「政治」に対する関心度としては、「異常に低い」と断言していいと僕は思っている。
もう一つ。
ここ数十年の自民党と、そして大阪維新に関しては終始一貫して、いくつかの共通点がある。そのうちの一つが「敵を作る」という手法だ。この場合の「敵」は、実在の脅威でも仮想敵でも構わない。「敵」を恣意的に作って叩くことで、国民/府民/市民の不満を解消してみせる。もちろん不満は一時的に解消されたかに見えるが、別にそれによって税金が安くなる訳でも最低賃金が上がる訳でも新型コロナが撲滅される訳でもない。目くらましだが、無関心層に対するアピールとしては充分なのだろう。目くらましが効いているあいだに、不作為や不正が行われる。目くらましが効く市民だけを相手にしておけば、不作為や不正が暴かれることもない。だから、国民は選挙に行かずに寝ていてほしい訳だ。いうまでもなく、これはかつての現役閣僚から実際に出た発言を基にしている。

話が大きくなりすぎた。これ以上書き始めると収拾がつかなくなる。
僕個人の感想に戻ります。

作中にも引用されている、キム・ミンスさん主宰の「劇団タルオルム」が「チマチョゴリ」という公演を上演している。過去複数回上演され、そのうちの2回を拝見している。
一度目に拝見したときと比較しての二度目の僕の感想、考えさせられたことの変遷を、同じくnoteに綴っている。

今回の記事を書くに当たって、特にキム・ドヒ監督に読んでいただきたくて、ほぼ同じ内容を朝鮮韓国語に翻訳した。ネイティブチェックを経ていないAI翻訳なので、どこまで精度の高いものか測りかねるのだが。

一度目に拝見したときの感想は「こんな差別があってはならない」という義憤のようなもの、二度目は「こんな差別が起きるのはなぜだろう」という疑問、そして同時に「問題意識を持っている(と思い込んでる)自分には、差別を生む要因が全く無いと言い切れるのか」という自問が生まれている。こんな時系列的な変化があるというのは我ながら興味深い。その上で、そんな差別があるにもかかわらず、この公演で語られる主人公(もちろん在日朝鮮韓国人)は、個人として、朝鮮にルーツを持つ個人として、その尊厳をまとい続けている。そのことを、個人として、僕は尊敬する。
そんなまとめ方をしている。
あらためて、そんなまとめ方で良かったのか、と自問している。
尊敬しているのは事実で、公演自体がとても美しく、民族としての尊厳を遺憾なく輝かせていたのも事実だ。
でも、そのことで、彼ら/彼女らに対する差別が消えてなくなる訳ではない。

ようやく本作の内容に戻ってきた。
「差別」の91分間、ずっと感じ続けていたことがあって。
「チマチョゴリ」二度目に通じるのだが、「差別は許されない」と思うその裏側に「差別されている朝鮮人は『かわいそう』だから『庇護してあげなければならない』」という上位者の視点に立っている、という、イヤな自分の発見。
91分間、発見し続けた。
これは正直かなり堪えた。
終盤に作中で弁護士の先生が同じことを明言されて、この発見が確信に変わってしまった。
「差別はいけない」と唱える自分の中に、根本的な上位者の傲りが見える。
どれくらい昔からなのか、僕の何世代か前からはおそらく続いているであろう上位者意識。傲り。刷り込まれた差別意識。
絡みついてくるドロドロとした差別意識を振り払おうとしてもがき続けるだけの91分。
おそらく日本人の中に、何年何十年ひょっとしたら何百年かけて、ほとんど構造的に刷り込まれている上位者意識。
「無関心」から脱却するためにも、その先にある「差別はいけない」を考えるためにも、この無意識的な「上位者意識」を克服するところから始めないといけない。そんなことを痛感した。

だからこそ、多くの人に観てほしいのだけど。
こんなことを思ってるのは僕だけかもしれないけれど、観るのは辛い。「差別」されている側を見るのが辛い、と同時に、意識的・無意識的に「差別」をしてしまっている自分を見るのが辛い。
覚悟が要る。
覚悟があれば、刷り込みから自由になれるかもしれない。無関心から抜け出せるかもしれない。「差別はいけない」と胸を張れるかもしれない。
だから、多くの人に観てほしい。


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