先日観たお芝居~劇団大阪「親の顔が見たい」
劇団大阪第90回本公演
大阪劇団協議会 劇フェス2024参加作品
「親の顔が見たい」
畑澤聖悟作 熊本一演出
2024/11/15 19:00
考えさせられる作品。
「生きづらい世情が反映するのでしょうか、イジメの件数は減るどころか、増えている現実があります。」(当日パンフレットより抜粋引用)
もちろんこのことが主題であろうし、僕にとって「考えさせられる」大きな要素のひとつではあります。
しかしむしろ、そのこと以外に、あるいはそこから派生して「考えさせられる」ことがとても多い。そんな気がしています。
例えば。
「パワハラ」「セクハラ」などの「○○ハラスメント」なんかも「イジメ(当日パンフレットに倣ってカタカナで表記するとより際立ちます)」に比較的近い概念として挙げられると思いますが、なぜそんなオブラートにくるんだような表現を使うんだろう。犯罪ですよ。れっきとした。
まあ「セクハラ罪という罪はない」という閣議決定までされてることを考えると、「イジメ罪という罪はない」というロジックも成立しそうですが、逆にこういう比較的曖昧な言葉で括っておけば、いままでうやむやにされてきた「ハラスメント」「イジメ」を、より広範に傷害・窃盗などの犯罪として扱うこともできる可能性が高くなる、という希望も現れてきます。
時期的に、兵庫県知事を巡る「パワハラ」が世間の耳目を集めています。これを書いてる時点(2024/11/20)で既に前知事の再選が決まっています。公演の企画段階で兵庫県知事を巡る一連が企画に影響を与えていたか判りませんが、少なくとも結果として、今回の劇団大阪の公演は時宜を得たものだと評価すべきでしょう。
知事選の経過と結果に関連してもうひとつ「考えさせられる」を挙げるなら、「イジメ」「ハラスメント」に関わってしまう人たちは、決して特異な異常人格の持ち主「だけ」ではなく、その多くは「普通の(と考えられる)ひとたち」である、ということかもしれません。
知事選や「イジメ」に直接関わるものではありませんが、マルチン・ニーメラー牧師のことばを引用します。
「ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、自分は共産主義者でなかった。だから何も行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はそのたびにいつも不安を感じたが、それでもなお行動にでることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だから立って行動に出たが、そのときはすでにおそかった。」(https://wan.or.jp/article/show/4822 上野千鶴子さんのブログより引用しています)
マルチン・ニーメラー牧師が直接に、主体的に何らかの「行為」を行った、という記述ではありませんが、「不安を感じたが、行動に出なかった」という「行為」が、ジェノサイドという史上最悪の「ハラスメント」(誤謬、誇張あるいは論理の飛躍があることは承知しています)を招いた、という結果から考えると。
「不安を感じたが、行動に出なかった」というのは、一概には言えませんが「普通のひとたち」の行動原理に近いように感じられます。
兵庫県知事選挙、「パワハラ(と考えられている)」前知事陣営で選挙期間中の逮捕者が多数。「常軌を逸した」と評して構わないと思うのですが、前知事に投票した111万人が「異常だ」とはとても言えないでしょう。おそらく大半が「普通のひとたち」だと思います。
そんなことを考えながら、劇団大阪「親の顔が見たい」について、ようやく。
作家の畑澤聖悟さんは、ご自身にとって重要ないくつかの根拠を基にこの脚本を書かれたのだろうと想像します。
ご自身を含め大人(と呼ばれるところの、この場合は「保護者」)に「イジメ」「ハラスメント」がはびこっていること。
大人が意識的無意識的を問わず「イジメ」「ハラスメント」を行っている以上、それが投影される子供たちの責任を追及する資格が大人にあるのか、という疑問。
そして「イジメ」「ハラスメント」といった行為に走る大人も子供も、一部の特異な人物ではなく多くが「普通のひとたち」であること。
そういった根拠に基づいて、畑澤さんは、「普通のひとたち」が、自発的でなく無意識的に、あるいは「自分が仲間はずれにされるとヤバい」というどちらかといえば消極的な自発性をもって、一部の熱狂的な「イジメ」「ハラスメント」に加担していく、という現実を、教員という視野で見ていたんだろう。
その視野は、おそらく、教員でも親でもない僕の視野とは異なるものだろう。
僕とて「イジメ」「ハラスメント」を見聞きしたことがない訳ではない、のですが、例えばそれらへの反論として「うちの子に限って」とか「うちの子は特別なの」といった表出がなされるさまは、小説やドラマやネットでしかお目にかかったことがありません。だから僕にとっては「ブラウン管の向こう側の出来事」としか認識できない。おそらく、学校に関わる方にとっては説得力のある、もっと言えばありふれた表現なのでしょう。極めて他人事な書きぶりで大変申し訳ないのですが、僕が「ブラウン管の向こう側」と認識していた出来事を「現実」であると叩きつけてくれた(おそらくそうなのであろう)ことは、それだけで観劇した価値があったと思わせてくれます。
そして、畑澤聖悟さんの視野に基づけば、「うちの子に限って」という、およそ客観性のない盲目性を最も感じさせる「普通のひと」が「親」という存在なのだろうと思われるのです。
そこからさらに、そんな「普通のひと」は「親だけに限ったものではない」とも読み取れた気がしますが、そこは長くなるので割愛します。
これらを前提として。
ここからはいったん、ひとつの演劇公演という視点に切り替えてみます。もちろんこの社会的テーマを考えるために、という視点は捨てないように試みます。
と言いつついきなり演劇的な視点に振ってしまうのですが、演者さんが悉く楽しそうだな、というのが最も印象的でした。悪い意味で。
言うまでもなく「楽しい」ことを否定しません。
言葉を換えましょう。
あれだけ「演技に酔われる」と、こちらは醒めていくしかない。
「普通のひと」が特異な言動に走る、この場合は「うちの子に限って」的な盲目的擁護で結果的に「イジメ」に加担してしまう、その社会的な素地のようなものを考えてみたい。そんなことを思っていたのですが、少なくとも序盤の登場人物(演者さん)からは「普通のひとを演じますが途中からは『特異なひと』に一変しますよ!」という意図が透けて見えるんですよね。あるいは最初から「普通のひとたち」を演じるつもりがなかったのか。
まあこのことは「畑澤さんの脚本が意地悪」ということにも起因すると思います。いくぶん過保護を匂わせるような、あるいはスリッパへの若干偏執狂的な考察とか、普通に「普通」を考えるだけでは処理しきれない罠が仕掛けられていますから。あとあとそれらが伏線として効いてくることもあるのでおろそかにはできないところですが、それらが全て脚本としてよかったのかどうか、そこは判断しかねています。
でも、そのことを差し引いても、「普通のひと(ここまで無断で書いてきましたけど、そもそも『普通』って何だろう、と今になって再定義の必要を感じています)」が「普通」に会話していてくれないと、中盤以降で遺書を燃やしたり食べちゃったりといった特異行動の寓話性が全く活きてこないし、何より「イジメ」(にとどまらず、社会的にポジティブなコンセンサスが得られないであろうことがらの多く)が「普通のひと」によって引き起こされるという視点が輪郭を失ってしまいます。
前述の「『普通』の再定義」に関して、いくつかの階層ごとに定義しなければならないことに気づいてしまったので、取り急ぎ。
「普通に見えるひとびと」に関しては「あくまで僕の主観でしかない」という言い訳のもと、格別に何らかの主張を述べる、あるいは同意を求める、といった努力を伴わない、言うなれば「うん。私はそう思ってるんですけど・・・(あれ?ひょっとしてそう思ってるのは私だけ?そんなことないよね?)」くらいのニュアンスで、疑問すら抱いていないようなスタンスで喋り動くひと、と捉えています。「私の常識」を「現在知られている物理法則」と同じレベルで信じて疑わない。良くも悪くも。(余計伝わらないかもしれませんが、「ほら、地球って平らで、端の方は滝になって落ちてるじゃないですか。」って台詞を素面の真顔で吐いてもらえたら僕は絶賛しますね)
あくまで僕の主観、という言い訳を繰り返しながら、それでも今回の公演の特に序盤を僕の定義に近く彩ってもらえてたら、少なくとも「一変しますよ!」という色気や欲気を排してもらえたら、最も強い言葉でいえば演技に酔わないでいただけたら、「遺書を燃やす/食べる」に象徴されるような「普通のひとの異常行動」も引き立ったことだろうと、そう思うのです。
蛇足ながら、当日パンフレットに、前回上演時のお客さんであった宮崎の弁護士さんのコメントが載っていました。引用します。
「(前略)遺書を丸呑みする姿は滑稽でもありますが、私には日々直面している出来事を寓意で正しく捉えた、背筋を寒くする1シーンです。とてもとても笑うことはできませんでした。(後略)」
残念ながら前回の上演を拝見していないので、どのような演出・演技処理がされていたのか判然としませんが、この弁護士さんの指摘がまさにこの脚本の意図(の少なくともひとつ)を言い表しています。この弁護士さんが日頃接している、いわば「普通のひと」が、こちらからは想像もつかない「異常行動」に走る。
このコメントを綴るに至った/至ることのできた理由として考えられることのひとつは、この弁護士さんが「普通のひとの異常行動」を見慣れている、決してレアケースではないということをご存じだということ。そしてもうひとつは、脚本の「言葉」を丹念に追っておられたであろうと想像されること。
非常にうがった見方ですが、日常的にこのような事象に接している、問題意識を強くお持ちである、しかも我々演劇人と同じく「言葉」を商売道具にしていらっしゃる(つまり演技と呼ばれるものに翻弄されることなく脚本上の台詞の語義を捉えることができる)、これらの条件を満たしているからこそ上記の指摘に至ることができた、そんな風に思えてしまうのです。裏を返せば、言葉を「商売道具」ではなく「消耗品」として日常使いしている一般の方(演劇の現場にいないときの僕もそうです)にとって、ここで挙げた異常行動の異常性に気づけ、というのは酷な注文なんじゃないか。
「普通のひとの異常行動の異常性」がこの作品のテーマのひとつであると考えてみると、「遺書を燃やす/食べる」のはまさに異常行動ですし、畑澤さんはこのシーンを敢えて滑稽に描写しています。矛盾を感じるかもしれませんが「笑える」シーンです。でも「いま自分は笑ったけど、これは笑っていいシーン/事象なのか?」と違和感を抱えながら笑う、あるいは笑ったあとに疑問が拭えない、そうあるべき「笑える」シーンなのだと思うのです。
もちろん大爆笑ではありませんでしたが、僕が拝見したときにはそれなりに笑いが起きていたように記憶します。で、おそらくそのあとに発生して然るべきであろう客席の空気の変化が、「あれ?」と少しだけ凍り付くような違和感が、全くといっていいほどなかった。
当然でしょう。
前述の弁護士さんのように理解できる観客がいなかった、あるいは少数だったから、です。
観客を全面的に責めるものではありません。むしろ、なぜいなかったのか、あるいは少数だったのか、を考えるべきでしょう。
これは簡単な話です。
「普通のひとの異常行動」を描くための必須要素である「普通のひとの普通の言動」が描かれていなかったからです。描くことができていなかったからです。脚本ベースの話ではなく、演出として、演者の演技プランとして、そこが理解されていなかった、重視されていなかった。あくまで個人の感想ですが、そう感じざるを得なかった。
ここまで書いてしまっておいてアレなんですが、登場人物の中で最終的に最も「普通」を保つことになったのは戸田先生でしょう。終盤での台詞「この世でいちばんあの子たちを殺したいと思っているのは、(中略)私です。」「殺したいと思っている」という言葉は、少なくとも道義的に、およそ教師が吐いていい言葉ではないでしょう。おそらく戸田先生はこのあと教師を続けることができなかったのではないだろうか。
あらためて「普通」の定義の別フェーズとして、「イジメ」は犯罪であり許されざることである、その対処法として絶対に「殺し」てはならないけれど、それくらいの強い思いを抱かせるものである。一般論としてではあるが実際に発生してしまった事象としての「イジメ」に対して、これが「イジメ」という犯罪に該当するものであり、このことに対しては上記のような強い感情を抱く。その事実をより普遍的なフェーズとしての「普通」と考えることは不自然なことではないと思います。このフェーズでの「普通」を描けていたのは戸田先生(演:七星さん)。最初に書いた「普通のひとたち」のフェーズでも、上記の「概念として認識する」フェーズでも、普通の佇まいを普通にこなしていた。前半では悪目立ちすることなく「普通のひと」をこなし、終盤で「殺したい」と吐露して一見「異常に見える」普通を淡々と描き出す。この一貫性が演出上の作為であるならとても素直に高く評価できるのだが、いかんせん他の出演者が「酔っている」ことに紛れて目立たなかった「普通」だったのでは、と勘ぐってしまう。もちろんそのいずれであれ、七星さんの演技処理が適切であったことに変わりはないのですが。
それともうひとり、逆説的で矛盾に満ちた言い方になりますが、この作品の中で唯一「酔って」いる(ように見える)ことが適切な登場人物。新聞配達店の店長・遠藤(演:篠原康浩さん)。彼の登場以前と以後で、遺書の存在と毀損を隠蔽しようとひとまずは団結に近づいた父兄の態度に亀裂が入り始める。むろんこの団結も「『我が』子を守る」という利己的な主張を基盤とする以上、どんな些細なきっかけでも対立に転じる可能性が高い、甚だ表面的なものであろうと僕は思っています。だからそのきっかけも遠藤の告発という大々的なものである必要はないとも言えるのですが、団結を決定的に瓦解へ導く効果としては、やり過ぎと思えるほどに感情を吐露する遠藤の影響が非常に大きい。「酔っているのが妥当」と言ったのはそういう根拠に依ります。しかし、篠原さんの表情からは「『演技に』酔っている」という印象をあまり受けません。むしろ「醒めている」、「『酔っている』遠藤を俯瞰して、敢えて過剰に演じている」、そんな印象を受けました。遠藤の登場後、それまで脚本上は抑えられていた保護者のエゴイズムがあからさまに表出するようになる。その契機として遠藤の存在自体、あるいは感情をむき出しにした篠原さんの演技が重要だった。ネガティブな言い方になりますが、保護者(役)がエゴイズムを表出するためには「演技に酔う」ことがある程度正当化される、つまりそれまで観る上で邪魔でしかなかった演者の陶酔がある程度の必然性を帯び「観るに耐える」ものへと適正化される、そのターニングポイントとして篠原さん演じる遠藤の存在価値は高く評価されるべきだと思います。
終演、退出後に、偶然同回を鑑賞されていた知人と遭遇。「褒めるとこ1箇所もなかったな」と告げるとその知人も周囲の何人かも怪訝な顔をしていた。実際さらに周囲を見回しても、本番中の客席を思い返しても、不機嫌だったのは僕一人だったと言っていい。
参考までに、いつも尋常でないほどの頻度で劇評をアップされてる広瀬さんのサイトを拝見したが、僕とは対照的に高く評価されていた。
僕自身「1箇所も」とは言ったものの、書いてみて「評価すべき点はあった」と認識はあらためている。
でも、だからどうした、というのも正直な感想だ。
僕にはとてもじゃないが手放しに褒めることなどできない。
若手と呼ばれる人たちが、圧倒的に不足した知見や技術を基に、結果として「稚拙な」作品を世に出してしまう。珍しいことではない。
「褒めることはできない」この1点だけは共通しているが、技術も知見もそれなりに有しているであろう(あるいは「有していて然るべき」)老舗と呼ばれる集団がやらかすのは根本的に違う。ましてやこれだけ社会的に問題視されている事象を扱って、その論点をぼやかしてしまう。さんざん書いてきた、いわば技術で充分にカバーできたであろうことにもおそらく無自覚だろう。その点が最も看過できない。
むろんここまで書いたからには、僕にも反論を受ける責任が発生する。言いっぱなしが許されるとは思っていない。
反対意見があるだろう。僕自身の知見を広め高めるためにも、お叱りや反論は是非とも頂戴したい。