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今日観たお芝居~「雨の壜」/空の驛舎

2023/02/18 1500~ 布施PEベース

公演本番中は必死で堪えてました。
辛すぎて。
恥ずかしながら、ホールから出てケンシさんと一言二言交わしたところで堪えきれなくなりました。
お芝居であれだけ声出して泣いたの何年ぶりだろう。
記憶にあるのはおうさか学生演劇祭「チャンソ」https://hopsince2013.wixsite.com/osakagakusei/chanso
以来、かなあ。
これも何年ぶりかに使うフレーズで、「2月の時点で今年の観劇ベストが出てしまった」。虚空旅団「ダライコ挽歌」で使った記憶があります。あれも2月頃だったんじゃないかしら。
(2020年2月8日に拝見してました。その時はこんなこと書いてました。
(1) Facebook

中村ケンシさんの台本って、すごく優しくてすごく残酷。だと僕は思ってます。
いやな登場人物がそろってます。
あ。語弊がありますね。
他者(家族も含め)と相対する時に、円滑にコミュニケートするために必要なオブラートを使い尽くした、結果「いやな」言葉しか出すことができない、それくらい「しんどくなった」登場人物、という感じです。
そうじゃない登場人物も出てくるんですが、彼/彼女たちによっていやな登場人物のいやな部分が浄化されるかというと、そんな甘っちょろく書かれてる訳でもない。
なぜ、いやな人物が出てくる必要があるのか。という、これも僕なりの感じ方なんですが、前述の通り、いやな部分をさらけ出さないと生きていけないんですよ。たぶん。
「空の壜」に即して僕のことを語ってしまうと、僕は親、特に母親に対してオブラートを使い尽くしています。
家族、あるいは両親、近しい間柄であればあるほど見えてしまう嫌な部分は多くなります。
(ネタバレになってしまいます。ごめんなさい。でも、凄く印象に残ってるやりとりがあって。上演台本から引用します。
「患者さんを見続ける。それが看護師の仕事やと思う。家族や、友達は、一緒に見てくれることもあるけど、時には目をそらしたり、また向き合ったり、どうしようもなくて逃げることもあったり」
「見続ける」
「家族や友達は、寄り添えるようになったら、患者さんに寄り添ってくれるから。その時に手渡すんやわ」)
僕は今、逃げています。
そのことを突きつけられます。
でも同時に、(病院に丸投げするのを無条件によしとする訳ではないですが)どうしようもなくて逃げるのも無条件に悪いことではない、と言ってもらえたような気もします。

主語がデカくなっちゃいますけど、「せめて劇場にいる間は日常を忘れて愉しんでください」というのはお芝居のあり方や使命のひとつとして成立します。
「空の驛舎」は僕にとってはこの対極で。
楽しく笑って生きていくのを僕は全く否定しませんし、そうありたいと思ってます。でも僕の身の回りには、楽しいことと同じ数だけ、あるいはよりたくさんのしんどいことが溢れています。「空の驛舎」の空間には、このしんどさがおよそ僕の身の回りと同じくらい、それもたった90分という時間に濃縮されて充満しています。
冒頭に戻って。本番中は何とか堪えてました。
でも外に出て、ケンシさんの顔を見た瞬間に、ホントに堪えきれなくなりました。(まともに喋れんくらいに泣いてしまったのでケンシさんもびっくりされたんでしょう。相当慌てて「ちょっと休んでいき。」と勧めてくださいました。驚かせてごめんなさい。)
「日常がしんどいのは充分に解ってます。だから『せめて劇場にいる間に吐き出して。我慢しないで。』」
これがケンシさんの、空の驛舎の、お芝居としてのあり方だと僕は思っています。

実は今日のお昼、別のお芝居を観てまして(劇団The Timeless Theater #記憶 、芸術創造館)、テイストは真逆の若々しさ全開の公演だったんです。そちらはそちらで、案内をくれた出演者からのアオリのとおり「大切な人に会いたくなる」ハートフルなお芝居でした。テイストは違え、こちらも(大切な人のことをこれでもかと思わされて)堪えきれなかったんですが。
その上で。
どちらも「客層を選ぶ」もっといえば「客の年齢層を選ぶ」お芝居だと、同日に両作品を観比べて感じました。
善し悪しの問題ではなく。
20代には20代にしか、50代には50代にしか、解らない辛さ、あるいは逆に楽しさもあるんだなと。
(つまり、「記憶」の方に関して言えば、そこに描かれる辛さを「普遍性」を基に理解し共感することはできましたが、それ以上に「我が事」としてどっぷり堪能するには50代の僕はスレてしまっている、そのことを痛感させられた。現実の僕の大切な人たちの多くはみんなそれなりの年齢で、それなりの生命の終焉と隣り合わせですから。「事故で突然いなくなる」のと「いなくなる不安と常に向き合ってる」のとでは共感の接点が自ずと異なる。そんな感じです。)
あ。
矛盾しちゃいますが、「空の驛舎」を理解できる20代がいない、とは思わないんですよね。
ただ、その中身を、えぐられるほどの強度で共感させられてしまって、実感させられてしまって、吐き出してしまうほどに揺さぶられてしまうひとがそれぞれの年代にどれくらいの割合でいるんだろう、と想像すると。
あくまで想像ですが、やはり客の年齢層はある程度以上に選んでしまうんだろうなあと。
実は何年か前に「空の驛舎」を勧めて「すごく良かった」と言ってきた当時現役高校生の強者もいましたので、これは「20代にも理解できるひとはいる」ということの証左でもあろうし、むしろ彼女の感性をうらやましいとすら思います。
それでもやはり、彼女が「しんどさ」を本質的に理解できていたかを含め、我々一定の年齢に達した人間の方が親和性は高い、という思いに変わりはありません。それは決してネガティブなことではなく、「理解する」ということができる観客の、僕に関していえば「吐き出す」ことさえできた、その年代ゆえの「特権」だと思ってます。

熱に浮かされたように書き始めて、ようやく少し冷静になれてきました。
これで締めにしようと思います。
残酷さと同居する優しさ。
書き出してみるまでその具体像が言語化できてませんでした。
書いてみて、ようやく。
観ててこれだけしんどいのに、どうして「空の驛舎」から、中村ケンシ台本から離れられないのか。観るのをやめられないのか。
ようやく解りました。

観に行ってよかった。

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