DOORプロデュース 11周年公演 父が愛したサイクロン
09.23,2024 13:00 SPACE9
お芝居の話に入る前に、役者さんの話をさきにしちゃうのもどうかとは思うのですが。
いい脚本があって、いい演出・スタッフワークがあって、それといい役者がいて、というのが「どちらが先」などということはない、という前提で。
この作品も、メンバーのお名前を見れば「いい作品になる」ことは判りきっていて。あとは「こちらがどれだけ泣くのを我慢できるか」というレベルだというのは判りきっていて。「どれだけ笑うのを我慢できるか」はハナっから諦めてました(笑)。
いずれも遙か越えられました。
簡単に言えば「今年の上から何番目くらい」のいい作品。もちろん「今年」観た作品は5本や10本ではないです。
終演後、是常祐美さんと少しお話しして、気づいたこと。
僕が個人的におつきあいのあるのは早川丈二さん小川十紀子さん是常祐美さん。いうまでもなくDOORプロデュースの常連。
なぜ常連なんだろう。
お三方に「同じ匂いを感じる」からなんだと今日あらためて思ったのです。
手探り。
顔の、全身の、言葉の、表情が、すごい腕力で相手役のみならず観客の心も突き刺しに来る。
しかも腕力を感じさせないほどフワッと、優しく。
なおかつ、突き刺すまでは、時にじれったいほど慎重に手探りを繰り返す。
探って探って。
言い換えれば、慮って。
「突き刺す」は場合によっては適切な表現じゃないな。
「抱き締めに来る」。
探って探って慮って、必要だと思った瞬間に力いっぱい抱き締めてくれる。
ものすごい腕力で。
DOORプロデュースの作品を全て拝見したわけではない(ごめんなさい)のでイメージで語ることになるのですが、虎本剛さんの筆が産み出すキャラクターはおおむね、(いささかチープな表現ですが)「不器用」。カッコ悪くてどうしようもないけど憎めない情けない「不器用」のことが、心配で不安だけど苦々しくじれったいが勝った結果素直に向き合えない「不器用」、その「不器用たち」に挟まれて身動きできなくなる「もうひとりの不器用」、『不器用やなあ』と苦笑いしながらあしらってしまえばいいのに自分からがんじがらめにされにいって苛立って声を荒げてしまう「さらなる不器用」、そんな「不器用」たちのことを、すぐ近くにいるのにもかかわらず、あるいは近くにいるからこそ理解できず、理解しようとすることができず、どういうわけか距離をおいてしまう「不器用」。
思いつくままに書き出してみただけで、これだけの「不器用」があの空間にひしめいてる。
一人くらい器用に立ち回れるやつおらんかったんかいな(笑)。
でも。
翻って自分の周りを見回してみたら、案外そんなもんなんですよね。
「器用」なひとはいたりするけど、だからといってものごとがすんなり運ぶというわけでもない。
殊に、自分の親、自分の子供を巡って、そうそう「器用」でいられるわけがない。
私事で恐縮です。
現在のところ、僕の両親は存命です。
自分で言うのもおかしな話ですが、僕は両親からかなり大切に育てられました。両親の思い出語りの節々にもそのことは滲みます。
その上で、今に至るまで、お袋との折り合いはあんまりよくありません。親父とまともな関係が築けたのはここ10年ちょっとくらい。
50年以上生きて、このザマです。
親父のことも、お袋のことも、知らないことだらけ。
想像ですが、親父もお袋も、たぶん、僕のことは知らない。
(だから「よかれと思って」大切にしてくれたんだろう。僕も「よかれと思って」両親に接した。親子といえど理解できることなどしれている。理解できていない相手への「よかれと思って」がどれだけお互いを追い詰めるか、そこから距離を取れるまで理解できなかった。大切であるという思いが強ければなおのこと。)
僕は。僕と両親は。
手探りができなかったのか、手探りをしすぎたのか。
まあ両方なんでしょうね。
いま、少しだけですけど、手探りの距離や深度が、僕と両親で合ってきているような気がしています。解らないことだらけ、ということが理解できたからかもしれません。
本田真弓の、本田真の、河崎ナミの、葉山明子/憲子の、鈴木加奈の。
この延べ6人の家族(と言っていいと思う)と、僕の場合を、直接比較するのは難しいと思います。およそ世の中の全ての「家族」「親子」を当てはめて比較するのも無理でしょう。サンプル数と同じ数だけ異なる関係性があるんだから。それでも。
「多くの場合」という条件付きですが、どれだけ知らないことがあろうが、知らないがゆえに空廻ったりすれ違ったりしようが、いちばん思いが濃いのは「家族」「親子」だったりすることが多いんだと思います。思いが濃い分、敢えて語らないこともあるかもしれない。理解できないことが多いかもしれない。なにかのきっかけで知ることになったとき、戸惑いも大きいかもしれない。
逆説的に書きます。
「お父さんはヒーローだった」。
そんなん、生きてるうちに言えや。それも(お芝居時間で)1時間以上かけて、本人以外の口から聴かされる方の身にもなれや。
お芝居やから許されるんやで。あんなラストシーンがあるから許されるんやで。
世の全ての親子や家族を僕が知る由もないですし、思いの深さで言えば親族関係以外にも当てはまることがあるでしょう。
それでも少なくとも僕は、ぶん殴られるくらいの共感を覚えました。
「知らない」ということにも、「あとから知る」ということの嬉しさにも(ひょっとしたら後悔や恐怖にも)。「突き刺された」と感じました。
唐突に冒頭の「常連」の匂いの話。ここでは「突き刺された」と言うのが妥当だと思うのです。これくらいは朝飯前の常連の凄みです。
手探り。
たぶん僕は、あの劇場空間にひしめいていたどの不器用よりも、手探りに四苦八苦する不器用だと自認します。だってあのラストシーンに、僕はたどり着けてないんですから。
でも、それでも、手探りを続けていれば、手探りのきっかけを与えてくれる誰かがいれば、あんなに美しくなるかどうか判らないけれど、相応のラストシーンが用意されるかもしれない。いや用意されなくてもいい、手探りを続けていればなにかの途中経過は見えるかもしれない。
手探りに関して、「常連」のお三方に「同じ匂い」と書きました。上手い下手がいいお芝居に直結するかは議論の余地ありですが、お三方は間違いなく、圧倒的に巧い。巧みだからこそこのお芝居が成立した、と僕は思ってます。
で、ここまでお名前を敢えて一切出してませんでした。
谷野まりえさん。鄭梨花さん。
このお二人にも、同じ匂いを感じます。
不器用なのはもちろん(お芝居として、です)、恐ろしく慎重に手探りしながら、キモの瞬間に突き刺したり抱き締めたり。
オーディションを経て参加されたと伺ってます。選考基準をもちろん僕は知りませんが、公演本番を拝見する限り、何となく、公演が成立する条件として、この手探りの慎重さと瞬発力は必須だったんじゃないかな、なんて思います。常連かご新規かを問わず、あの不器用でどうしようもない、どうしようもないほどカッコいいヒーローを巡るお話の、延べ6人の愛すべき「不器用」として、延べ6人がかりで僕を突き刺して抱き締めて(もちろん比喩です)くれました。
親子は他人の始まりだと思っています。
この作品は、そんな僕にも、もう少し手探りをしたいなと、知りたいなと、解りたいなと、思わせてくれました。
これも末筆になってしまいました。
プロデューサー河口円さんの思いは、どんなものだったのでしょうか。
ひょっとしたら僕は的外れなことを延々垂れ流しているのかもしれません。
それでも、拝見できてよかった。とても素敵な時間を過ごすことができた。その事実だけはお伝えさせてください。
そんな風に僕に思わせてくれた脚本・演出の虎本剛さん。
正直「参りました」のひと言しか出てきません。
上手い下手がいいお芝居か議論の余地、と書きましたが、撤回します。
巧みでなければこれだけ共感することはなかったと思います。これだけ考えさせられることはなかったと思います。両親に思いを馳せることはなかったと思います。
いいものを観させてもらった、その感謝を綴る。
ついったで宣言しておきながら、楽曲/音響/照明/舞台/美術/制作・・・あらゆるスタッフ・関係者に言及するまでには至りませんでした。
ごめんなさい・・・。
お芝居は総合芸術、どのパートが欠けても成立しない。この作品は全てにおいて完成していた。
そんな当たり前の指摘で、謝意とさせてください。
※追記。
これまた冒頭の、終演後の是常さんとの会話。
早川さんや小川さんを評して「私より(年齢的にも)先輩なのに、あれだけの剛速球を平然と投げる。尊敬に値する。」意訳ですが。
しかも逆トルネードで(笑)。
おそらく「剛速球」は「直球(ストレート)」を指しているものと思われますが、ここでひとつだけ誤りを指摘します。
「直球」ではない。
打者の手許で僅かに変化する、打ちにいった打者が空振りする瞬間に初めて気づく「剛速球とスピードの全く変わらない変化球」です。
例えるなら中日ドラゴンズ・ソンドンヨル投手のスライダー。
トルネードだけど、野茂英雄投手の直球やフォークボールではないんですよ。
あのお二人は、力押しに見せかけてそんなワザをしれっと出してくる。
で、是常さんもほぼ、同じようなボールを扱う。
僕の「是常祐美」評です。