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執着心

チベットの僧侶が修行のために、或いは法要のために描く砂の色曼荼羅。
それは細かい粒子の色砂を下絵の上に置いてゆくことで描かれる。
立体的に浮き出た幾何学模様は、精緻な美の極みである。
色砂を入れた細い金属の管を擦り、微妙な振動で砂の量を調整しながら、数日間から数週間、ただひたすらに下絵の上に砂を重ねる(置く)ことだけに没入する。或いは、直接指につまみ指をひねりながらコントロールするやり方もある。

あるとき、風が吹く。砂曼荼羅は、一瞬のうちにその美しい姿を消し去る。風が吹かなくとも、曼荼羅は完成とほぼ同時に僧侶たちによって躊躇なく掃かれてしまう運命にある。
いかなる労力をかけようとも、そして、それがどれほどの美しいものであったとしても、曼荼羅が消え去った後、僧侶達は決して落胆したりはしない。何故なら僧侶たちは自然の理(ことわり)を知っているからであり、理とは変化であると悟っているからだ。
そして拘りや執着心こそが、苦悩の源泉であると心得ているからだ。

私たちは、一度手に入れてたものを失うことを極端に恐れる。それが高価なものであればあるほど、美しければ美しいほど、自らの全精力を傾け手に入れたものほど、そして愛情を注いだものであればあるほど、失えば深く激しく傷つき、いつまでも悔やみさいなまれ続ける。

もし失ったら…。
実際にまだ失っていないにもかかわらず、執着心の申し子として生まれた不安と恐怖の間を人は右往左往する。
“無常”とは、仏教の単なる説法ではない。私たちのすぐそこにいくらでも転がっている、人の進化や進歩や成長に必要不可欠な(自然の)現象なのだ。
執着心とは、変化に対する恐れの表れでもあると捉える。
防衛本能が人を、元来恐れや恐怖といったネガティヴな思考の持ち主としているらしいのだが、現代社会においてはやはりネガティブは次のネガティブな現象を引き寄せてしまう確率が高いような気がする。
だとしても、ネガティブ意識のほとんどが執着心が元となっていると捉えると、そんなに深刻になる必要もなくなる。なぜならその執着心を外してやれば楽になれるからだ。

但し今までこびり付いていた執着心はそう簡単になはなくせないくらい、しつこいものかもしれない。特に僕は色々な意味で拘りが強かった。拘りとは執着心でもあるので執着心が強かったのだ。それによって、人生の様々な場面で無用に苦しい思いもしてきたような気がする。執着のないさっぱりとした人生に憧れ続けていた。そして、執着心から逃れるためのある行動を実際に起こし約一年が経過しようとしている。私の場合は日常レベルの断捨離を断行した。有形無形関係なく、自分が所有していたもの拘っていたものの半分は手放したと思う。勿論まだまだ手放せるものはあるような気がするが。やり始めてほぼ一年の経過を顧みて、自分でも物事への執着心が薄れていることに気づかされたのだ。

成功するためには、執着心や拘りや諦めない心は、絶対的に必要だとされている。勿論それも事実だと思う。しかし際限のない欲望に満たされていたり拘り続けると、いつかその反動も訪れる。その時、自分の執着心とどうやって付き合うのか、これからの訓練で大きく違ってくる。
執着心の外し方については、それこそ修行をはじめたり、本やSNS上の自己啓発でも紹介されている。僕は自分独自の方法でなんとか今の心境を得られるようになったが、それを具体的にここで披露するつもりはない。
各々が自分に合ったやり方を見つけ出すしかないと思っている。

それは究極的には、いつか自分のこの命との別れが確実に訪れるときのためでもある。


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