イギリスに留学した徳川家達の話①

だいぶご無沙汰してました。
何か研究成果が出たらnoteを投稿する、というのが基本で、それ以外は気ままに、という感じでやっていますが、たまには何か書こうと。

で、今回はこんな時だからこそ、「国境」を越えた話で、徳川家達が明治10年よりイギリスに留学した時のことでも。昨年度の講義で、もう少し掘り下げてやってほしかったとコメントをもらったところでもあります。コメント、ありがとう!

数え年15歳の家達は、明治10年6月、まだ西南戦争の決着もつかない中、横浜から出帆。5年後に帰国するまで主にイギリスで過ごします。なお、当初の出帆予定日は時化だったため、数日遅らせての旅だったとか。

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写真は国立国会図書館の近代日本人の肖像より(「榎本武揚関係文書」 17-28)。15歳の時とのことだけど、今の15歳よりあどけない感じ。

留学前年の家達と出会ったクララ・ホイットニーは、赤坂に住んでいた当時の家達の様子を克明に、ちょっと面白おかしく、そして感情豊かに記しています。

それから、今宵のスター、つまり徳川家の若きプリンス(徳川家達)がいらっしゃった。三人の従者を連れて、自家用人力車で静かに入ってこられた。十四か十五歳だが、とても威厳のある風采の方で、とても色が黒く、濃い赤みがかかったわし鼻、細い目、小さい弓形の口をしておられる。背と胸に、聖なる徳川家の紋が付いていた。アメリカではタイクーン(将軍)と呼ばれている方だ。誰ともお話にならないから、私は従者と話をした。ウメが手を上げ、テイが脇腹を押え、かたずをのんで、戸によりかかっているのは、滑稽な眺めだった。
 それから二人は、戸のすき間から若き将軍をのぞこうと駆け寄った。ウメは、徳川家の人を家にお招きするのは大したことなのだ、と言った。以前は、将軍のお出ましの時は、人々は皆家に閉じこもって、戸に目張りをし、大君は炭のいぶった匂いが嫌いだから、五時間家の中で火をたいてはいけなかったそうだ。たまたまその時間に道路にい合わせたら、誰でも徳川家のかごの前にひれ伏さなければならなかった、と言ってウメはやってみせた。ウメ自身は、その行列を何度も見たことがあるそうだ。私は将軍と握手をし、脇に坐って絵をお見せしたが、畏怖の念など一つも起きなかった。事実、このプリンスを護ってあげているような気さえした!
(一又民子訳『クララの明治日記(上)』(講談社、1976年)、明治9年12月25日条)

江戸時代を知るウメとテイと、それを知らないアメリカからやってきたクララの対応の違いは、まさに江戸から明治へのコントラストを象徴しています。もちろん、徳川将軍家の権威が落ちたという見方もできます。
このあともクララの日記には家達との交流の話が続いていくので、関心のある方はどうぞ図書館で本を手に取ってみてください(あぁ、早く図書館が使えるようになってほしい)。佐野真由子『クララ・ホイットニーが綴った明治の日々』(臨川書店、2019年)もあわせてどうぞ。

さて、家達は日本を出立する直前、クララとも惜別の挨拶を交わしていて、留学に際して従者が5人もいるとのこと。

徳川さんは月曜にイギリスへ発つので、お別れを言いにいらっしゃったのだ。イギリスに三年いて、それからアメリカへ行かれるそうだが、イギリスの、古い栄光を誇る物を見た後でアメリカを見たら、余りにも対比が強過ぎるだろうから、アメリカが先でないのは残念だと思う。しかし大久保さんは、アメリカが一番いい、イギリスより清潔で、何かにつけてずっとすばらしい、と言われた。ロンドンはリージェント街以外はすべてひどい所だと言って、ご親切にも合衆国を弁護して下さった。
 徳川さんは五人の随員、つまり大久保(業)さん、陽気な竹村さん、漢文の先生、着物の世話係、及び給仕人を連れて行かれる。大した随員だ。世界の各地を見て回ってさぞすばらしい時を過されることだろう。ヴィクトリア女王にもお目にかかる予定だし、他の国々に行けば貴族たちが歓迎してくれるだろう。何しろ彼は古い大日本の偉大で権勢のある将軍家の末裔、三位徳川家達公(旧静岡藩知事)なのだから。
 彼がいつか祖先の地位を占めるようになるかも知れないという噂もある。有名な御祖先の方々が荘厳に祭られている日光から帰られたばかりだ。余りお話はしなかったが、私たちに非常に興味をお持ちになったことは明らかなので、行ってしまわれるのは大変心残りがする。「絽」という美しい絹地を贈り物として下さった。大久保さんは、古代の太刀持ちのように徳川さんの後に坐っていた。(『クララの明治日記』上、明治10年6月8日)

岩倉使節団を引くまでもなく、明治になると少しずつ人々が海外に飛び出し、経済活動だけでなく、留学するようになっていきました。
明治2年の版籍奉還によって華族となった旧公卿・旧諸侯(大名)も、「特ニ華族ハ国民中貴重ノ地位ニ居リ衆庶ノ属目スル所ナレハ、其履行固ヨリ標準トナリ、一層勤勉ノ力ヲ致シ、率先シテ之ヲ鼓舞セサルヘケンヤ」という明治天皇の勅語(明治4年10月22日)のもと、外国(主に欧米)への留学が選択肢の一つとなっていました。
なかには、外交官として公使館に駐在した華族も。次の牧野伸顕の回想は当時の雰囲気を伝えています。職業外交官の誕生はもう少し先の話。

日本人が外交団の仲間入りをしたのは、言うまでもなく明治の初期だった。幸いに、前にも述べた通り、少数の洋行帰りの人々がいたので、これを主な条約国の首府に派遣したのであるが、日本の使節が外交団の一員として名実ともに備わり、職務上にも、社交的にもその存在を認められるに至ったのは、小村(寿太郎)、加藤、本野(一郎)、栗野(慎一郎)等の時代になってからのことであると思う。外交官生活は派手で入費が掛り、明治の初期には財政微弱で適当な手当を支給することが出来ず、便法として旧藩主の鍋島、蜂須賀、戸田、徳川等の諸氏を任用したこともあった。これは技倆よりも、使臣の体裁を整えることに重点を置いたのであるが、こういう人々には不馴れな仕事で、随員なども多く、費用も嵩むので、数年後には色々な事情で引き揚げた。(牧野伸顕『回顧録』下(中央公論社、1977年)、125頁)

まだ10代の家達も勉学のため、周りの人々がお殿様として盛り立てる毎日から少し離れた生活を送るため、そしてイギリス貴族のあり方に触れることで今後の「徳川家達」の生き方の指針を探るためといった理由から旅立ったようです。ちょっとうがった見方をすると、不平士族の叛乱に担がれることを周囲が恐れたのではないか、とも思われます。

と、まぁ、色々書いていたらだいぶ長くなってしまったので、続きはまた今度(?)。というか、まだ家達は船に乗ったばかりで海を越えてないですね。。。

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