身軽に生きるという事

身軽に生きるという選択肢はある日、突然、でも薄々とわかっていたが訪れた。

「身軽に生きる」
といえば見栄えはいいかもしれないが、現実は本当に現実を見なければならない。


自己破産。


それが私が身軽に生きるという選択肢に至った事実だ。

私が海外に行っている間に、実家は無くなった。
もちろん、海外に行く前にある程度整理しては行ったが、本当に自己破産をするとは思っていなかった。
というのも、私が自己破産をしたのではなく、両親が、しかも連帯人保証人として自己破産をした。借金をしたのは祖父である。

実はこの頃の記憶が曖昧である。
海外にいながら、帰る家を失ったのだ。

破産するにあたって、自己の財産をすべて放棄しなければならない。
実家、車、保険、積み立て...何もかも無くして、しかも信用も保証もブラックリストに入れられる。カードも作れない。そんな辛い思いを両親はしていたが、唯一の希望は「両親の二人暮らし」である。
本当に自己破産をしてからは両親は二人だけの住まいを借りていた。

もちろんすべて無くすが、必要最低限の財源は残されるみたいだった。

海外にいた私は、異国の地で「帰る家ないから」と宣告を受けた。

正直、あらかた私物は持ってきていたが、書類やら、細かい衣類やらは実家に置いたままだった。
そんなものは早くも両親に捨てられていた。実に爽快だ。家をあけ渡さなくてはならないのだ。家に居ない人の持ち物なんて、いとも簡単に捨てられる。笑

そこから、私のヤドカリ生活、拠点を持たない生活が始まっていた。

たぶん、1年目のワーホリの時にそんな話を聞いて、絶望という気分を味わった。
両親からしたらもっとだっただろう。
1年のワーホリが終わる頃、日本に帰れないと思っていた私は、死に物狂いでワークビザを探して転職をしていた。
やっとの思いで掴んだチャンスだった。

一年目のワーホリで本当にお世話になった日本人夫婦がいた。
その人が私に声をかけてくれた。
「調理経験ある??仕事出来次第ではワークビザも出せる」と。
藁にもすがる思いで現地に飛んで仕事をした。
しっかりとした調理経験はなかったが、調理補助の経験はある。
一週間仕事をして下された返答は...
「ごめん。ワークビザ出せない」
との返事だった。
下された判断にどうこういうつもりは無かった。
自分の技術が見合っていないだけなのだから。

その場は笑顔で対応し、家に帰ってから号泣した。
声を殺してひたすら泣いた。
仕事以外何も手がつかなかった。

住む家がない、帰るところがない、仕事がない。
考えるのが面倒になった。
でもこのまま日本に帰っても住める場所も、身分を保証するすべもない。

第二の絶望だ。
この時の絶望感は1回目の時とは完全に異なった。そして実感した。

居場所を無くした。

絶望に浸っても、泣いても喚いても現実は変わらない。
悲劇のヒロインになっても誰も家を用意してくれる訳ではない。
人はどん底になると開き直るのは本当だった。
もう、泣くのも疲れた。できないことを数えるのも疲れた。そんなことを数えて時間がどんどん減っていくのは止められない。この時、時間ほど平等で、残酷なものはこの世にないと強く思った。

この時点で、自分のワーホリの期限終了まで2ヶ月を切っていた。
自分の選択肢は、どこかにワーホリをしにいくことしかなかった。

決めてからのスピードは凄まじかった。
オーストラリアにワーホリを申請して、出国二週間前にVISAが降りた。
とりあえずは一安心だ。
だが、渡航費がどうしても足りない。もう明らかに無理ゲーだった。
手持ち10万ほどでどうやって生活しろと?笑
そんなこともあり、オーストラリア行きは乗り気じゃなかった。笑

冷静に考えた。
手持ちの$1000で1ヶ月生活できればなんとかなる。
1ヶ月はバックパッカーに泊まって生活できればこちらのものだからだ。
シドニー中心街の女子専用のドミトリーで1ヶ月、生活した。
家賃は一週間$180×4週間=$720。うむいける。
というのも、オーストラリア、ニュージーランド共に、給料の支払いは二週間ごとになるのも大いに助かった。

冷静に考えてほしい。
英語もそんなにできない、住所不定の日本人が異国の地で手持ち$1000で生活をしましょう!という無理ゲーをするのだ。
我ながらよくやったと褒め称えたい。

ニュージーを出国する前から、オーストラリアの求人を手当たり次第見漁っていた。そして応募もしていた。
そして一つ、すごく興味をそそられる求人があった。
「JAZZの生演奏を聴きながら仕事ができます」
直感でこれだ!!!!!!と強く思った。

応募して、シドニーについてから連絡ください。
とあったので、到着後、速攻連絡をした。

二日経っても連絡が返ってこない。
三日経っても連絡がない。
...もう候補者が決まってしまったのだろうか...。
意気消沈しながら、他の求人を探していた。
そこのレストラン以外やりたくなかったが、生活のためだと思い違うレストランも面接したが、やはり面接の時点で「何かが違う」と思い辞退した。
生活が本当にかかっていたらどこでも這いつくばってでも仕事しろよ!!という感覚ではあるが、なぜかその時は、一番最初に応募したレストランしか考えられなかった。

手持ちのお金はどんどん減るばかり。
気持ちは焦るばかり。
待つだけではダメだと思い、レジュメ(履歴書)を配り歩く。
と、一週間経ったある日...やっと連絡がきた!!
実はその時には昼間の仕事が決まっていた。
朝からホテルのベットメイキングの仕事を見つけていた。
この仕事が辛いのであるが、チップが時々入るのですごく助かった。

お目当の面接にやっとこぎつけたのである。
私の経歴を見てすぐ、トライアル(お試し)に来てくれと言われ、体験しに行った。
久しぶりに接客するのはやはり楽しい。
オーダーを取ることはできなかったが、料理をサーブしたり、お客さんとお話ししたり、JAZZライブを生で体感するのはすごく、心地がよかった。
短時間のトライアルが終わり、お疲れ様のビールを頂いた。
「いつから働けますか??」
「すぐにでも!!」
となり、無事にお目当の仕事をゲットした。


続く。

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