今日も、洒落ている、こと。
連日の曇天とジメジメした空気がまとわりつく山の日。
「今日も青葉山は渋滞しているだろうな」と思いながら迂回路を抜けると車窓から香ってくる線香が8月を感じさせる。
あちこちのご先祖様がこぞってやってくるお寺を横目に今日も八木山の坂を登る。
新参者のNPOが地域をよくしようというのはある種おこがましさの上に成り立っている自己満足で、そこを突き詰めてしまうと自分勝手なアートに収束していく。アートは好きだけれど、内的なものに矢印を向けたアートは今ここに必要ではないんじゃないかと思う。
人間に種類があるように、アートにも種類があるんだろうと思わされる。
アートは没頭する
デザインはひねり出す
「今ここ」に必要なものはデザインであって、そこが完成して初めて暗黙知を表現する手法としてのアートが登場する。
今はその冒険のマイルストーンをやっと1つ超えた程度だ。
デザインは対象者がいて初めて意味を成す。
だから地域の人やそこにいる人を無視してデザインすることはできない。対象者は今いる人に留まらない、この先に誕生、登場する人たちも同じく対象者だ。
そこを見越したデザインをすることは、透明人間にドレスを見繕うような手探りで、暗中模索に近い感覚をいつも持っている。
「洒落ていない」ものを手渡す時の自信のなさは、赤点が決まった回答用紙を提出感覚に似ていて、まるで手応えがない。
だから自分たちを保つためにも、動きを止めないためにも「洒落ている」ことは必要で、そこにかける時間には価値があると思っている。
アーティスト気質のある人なら「おそらくアートに没頭したい」のが常で、自分の内的なものだけに矢印を向けて他者の感覚も評価も気にせず好きなものを生み出していきたいと思うだろう。
ただそこに他者と目的という本能に対する制御装置が働くことで「デザイン」はひねり出される。
共生や相互依存なんていう流行りの言葉に近いものを作り出すには最適な方法かもしれない。