No.13 報道のスペクタクル化
日本のテレビの最大の犯罪は、あらゆることを他人事(スペクタクル=見世物)に仕立ててきたことだと思います。
1990年代初頭にHIVウィルスが上陸したさい、すでに約3000人の血友病患者が感染していたにもかかわらず、当時の厚生省は「第一の感染者が同性愛者」だと発表した。血友病患者の感染を隠蔽するために、です。これに乗ったマスメディア、特にテレビは「AIDSは同性愛者の病気だ」との言説(ディスクール)を広めました。その結果、マジョリティである異性愛者は油断し、感染者数がほんの数年で同性愛者の感染者を上回ってしまったという、エピソードがあります。
また、1995年には、被災地視点を欠いた東京中心の報道を行ったために、被災地に必要な情報が伝わらなかったというエピソードもあります。これについては、林秀夫著「安心報道 ―大震災と神戸児童殺傷事件をめぐって 」(2000年/集英社新書)が、現地取材を通じてかなり的確な批判をしています。すなわち、日本の報道はマジョリティが安心するための報道である、との指摘をしました。
これは貧困問題しかり、ホームレス問題しかり、原発報道しかりではないでしょうか。
では否応もなく、国民全体の問題はどう扱うのか、と思えば・・・新型コロナ問題では終始政府・厚労省の発表を垂れ長すだけの無能な存在になってしまいました。
報道をスペクタクル化するということは、知らず知らず社会に大きな影響を与えます。放置した社会問題は、本当に深刻化したときに初めて報道されます。特にNHKは裁判係争中の問題については、決着がつくまで「取材はするが、報道しない」というスタンスをとります。
「テレビジョン」の語の意味は「遠くを見ること」です。社会問題を安易に扱い、スペクタクルの枠型に押し込めれば、見えるものも見えません。社会よりも先に、これからの危機を察知し、知らしめるようでなければなりません。そうでない放送局は、看板を下ろすべきだと私は思うのです。皆さんはどう思いますか。