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労働について思うこと
癌細胞と組織と労働
癌と聞いた時、あなたはどう思うだろう
身体の組織を腐らせ、あなたを苦しませる癌細胞を
細胞の遺伝子変異を許さず、あなたはその癌細胞を根絶すべきと思うかもしれない。
新鮮な細胞に取り替えたいと思うかもしれない。
社会の癌と呼ばれた存在を見聞きした時、あなたはどう思うだろう
迷惑な存在と考えるかもしれない。社会のお荷物と考えるのかもしれない。
だがしかし、心の叫びかもしれない。自我の極端な発露かもしれない。
されど、そんなことはどうでもよく、刑務所から一生出てくるなとあなたは思うかもしれない。
会社における癌について、あなたはどう思うだろう
残業を厭わず働いてくれない、出社をしてくれない労働者を
能力がなく、生産性が低い労働者をどう思うだろう。
あなたが経営者や投資家であれば、意に沿えない使えない無能は解雇して取り替えたいと思うかもしれない。
(あえて使ったが、無能という言葉はとても好きではない)
どれも何かしらの構造を持った組織という点で共通している。
組織からすれば、目的に沿わない存在は少なくとも善ではないのだ
しかし、ヒトという動物には自我がある。こうしたいという意志、意思がある。それはヒトによって違う。完全に統一はできない。人類補完計画はできない。目的からの逸脱、手段の目的化こそヒトらしさだと思う
労働はなぜ貢献欲を蔑ろにするのか
労働は「他者より強制される不快な営み」と定義されている(後述)
そういった営みのため、貢献欲が蔑ろにされるという。
ではなぜ「強制的された不快な営み」になるのか。金や生活を人質に取られており、渋々従うしかないため、これは確かにそう。これにおいて、異なる視点を考えてみたい。
組織構造に組み込まれているため、組織が優先する目的から逸脱してはいけない。だが、あなたはヒトという動物である。自我がある。欲に裏打ちされた意志、意思がある。(釈迦ですら、悟りの後に教えを行うことに決めた。こうしたい、こうすべき、という意志だと思う。)
組織の目的というのは、多少面積に差はあるかもしれないが、"点"である。
ヒトの意志、意思も多かれ少なかれ"点"である。重なる部分はあるが、重ならない部分がある。重ならない部分、これは組織からすれば無駄である。
"教育"をして、組織の目的と重なる部分を広げ、重ならない部分は削ぎ落とす必要がある。削ぎ落とされ、否定されたものは、あなたの一部である。
組織にとって必要なのは、目的に沿う労働力と再現可能でスケールできる能力であって、あなた自身である必要はない。能力とは、目的に適う問題解決の遂行力である。なので、あなたは手段であって目的ではない。組織はあなたらしさやこだわりなど知ったこっちゃない。多様性や個性は、生産性があればどうでも良い。お飾りなのだ。
そういうゲームなのだ
だから、沈黙、それが正しい答えなんだ
そうでないものはバカを見るのだ
だから労働は強制された不快な営みであり、労働は貢献欲を蔑ろにするのだ
自分が関わる意味が蔑ろにされること、主体性が蔑ろにされることなのだ
ヒトは感情の生き物であり、貢献欲は生ものなのだ
この事実が私を悲観させる
そこに自分の意志があるかどうかが問題なのだ
それが反映できるかどうかが問題なのだ
この事実が私を歓喜させる
労働はヒトである必要はなく、能力があれば機械やAIでもなんでもいいのだ
何千年と留年したものの、労働からの卒業はいつかできるはずなのだ
(とはいえ、AIでの代替は夢物語だとは思っている。AI無双はただの夢想)
労働性と病原菌
しかし、ヒトの性質である自我を認めると、労働からの卒業はただの希望的観測かもしれない。
労働性というものは2人以上の社会がある限り、病原菌のように発生してしまうのではないか。なぜなら、利害(点と点)が完全に一致することはないから
ヒトが社会(群れとヒエラルキー)をやっている限り、労働は自然発生してしまうのではないか。なぜなら、強制された不愉快な営みが起こりうるから
ヒトは社会的な動物だから、社会から逃れられない
ゆえに、労働性から逃れられない
(また、労働に感染したヒトは、他者からの強制がなくなり一人になったとしても、内面に労働を宿す。これが社畜)
無我の境地に至った釈迦には、労働はないのだろうか
自我がなければ強制という感覚はない
縁起の理に則れば、強制がなければ不愉快はないから
参考
『14歳からのアンチワーク哲学』
本記事での労働の定義「他者より強制的される不快な営み」の参照元14歳の主人公と哲学者兼ニートが対話をとる形式で話が進む。
偶然にも最近読んだ『きみのお金は誰のため』でも14歳の主人公がボスと対話をするという話になっている。
『きみのお金は誰のため』ではお金は重要ではないと言い、『14歳からのアンチワーク哲学』ではお金は不要と言う。
同じような構成ではあるのだが、前者は「読者が選ぶビジネス書グランプリ2024 総合グランプリ「第1位」受賞作」とのこと。
双方良い本だと思うが、一方は世間から注目されもう一方はそうでもない。この非対称性は何なんだろう。とりあえず、両者で対談してほしい