異文化との出会いによる幻想的な騎士道の消滅
ヨハン・ホイジンガの著作『中世の秋』における第3章「身分社会という考え方」、第4章「騎士の理念」、第5章「恋する英雄の夢」、第6章「騎士団と騎士誓約」、第7章「戦争と政治における騎士道理想の意義」まで読み進めます。
騎士道とは何か
第3章「身分社会という考え方」は、以下の文章で始まる。
中世の封建社会の中で、第3身分におかれた大多数の人々は、第一身分の聖職者、第二身分の貴族としてあらかじめ輝くことが約束されている人々とは別物と思われていた。
この静的に固定された概念を打ち破ったものが、騎士道だった。
騎士道とは、wikipediaによると、「主に中世ヨーロッパの騎士階級に浸透していた情緒、風習、法や習慣を総称する単語であり、騎士たる者が従うべき規範である。」また騎士道の教えの核心は、中世盛期においては「神への献身・異教徒との戦い・弱者の守護」であり、近世においては「主君への忠誠・名誉と礼節・貴婦人への愛」であるという。
なぜ騎士道が中世後半まで生き延びたのか
封建制度の時代の終焉とともに、本来の騎士道は役目を終えたはずだった。しかし実際には、13世紀以降農民出身の歩兵隊が出現したあとも、文化としての騎士道は15C末まで残った。アジアからきた太鼓が戦いを近代化し、中世末に火薬や鉄砲の発明により騎士の戦い方が他の方法によって置き換えられるまで、騎士道は長らえた。
真実、勇気、徳行、寛大という貴族の特性が市民が台頭してきた後も尊ばれた。むしろ、市民は無視され、歴史の表舞台に現れなかったのだ。それほど封建社会の文化がライター、歴史著作家の目さえも固定化していたのだ。
遊びとしての騎士道
下層の人々の人間関係は、「利害」に基づくのに対して、貴族社会は「自負心」。処女を救出し、血を流す英雄的行為という幻想、その根的には「男性的闘争欲」があり、騎士道の核心でもあった。
中世後期には、上流階級の文化生活はほとんど遊びと化した。現実は厳しく、生きていくことは容易くない。その時代にあって、人々は騎士道理想の美しい夢へと現実を引き込み、ロマンチックな遊びの世界を作り上げた。これが中世後期にまで続いた騎士道の現実だった。
無所有の高貴な戦士という理想は、「現実にどうのこうのというのではないにしても、感性の型としては、銀次的、貴族的人生観を、いぜん、支配している。われわれが兵士を讃えるのは、なにものを負うてはいない男としてである。生命一つしか所有してはいないのだから、その生命をさえ、事情が命ずるときにはいつでも、喜んで投げ出そうとするのだから、彼は理想を目指す。囚われぬ自由の体現者なのである」『宗教体験の諸相』(James, W)
幻想的な騎士道の終焉
中世後期に、東方伝来の大太鼓が、戦争の機械化を促し、騎士の時代から近代式軍隊の時代へと導いた。近代以降現れた兵学は、騎士道とは全く異なるものであった。
中世後期まで続いた騎士は、17世紀にはフランスの貴族に席を譲る。それに変わって登場するのは、騎士の流れを汲むジェントルマンであった。
感想
騎士道が、中世を終え、ロマン主義の兆しになっているということがとても興味深い。騎士の「あえてなそうとする意欲」に、人々は固定化された人の位置付けを変えうるポテンシャルを見たのだ。この敢えて為す意欲が行為的に受け入れられたのは、それに十分な倫理的な裏付けがあったためだ。この美学的な行為と哲学が、人々を奮い立たせた。
また、文化が変化するのには時間がかかる、たとえその変化を眼下に納めているはずでも、実際には見えていないことが多い。それが変わるのは、異物との出会い、騎士道の場合は、東方からの大太鼓。技術導入によって強制的に変化させられてからでないと、変わることはなかった。変わる必要はなかった。
クリュニー美術館所蔵の貴婦人と一角獣『我が唯一の望み』には、騎士が求める世界観が現れているのかも。