長女の呪縛
「長女の呪縛」については、長女である人のほとんどが心当たりがあるだろう。
『となりのトトロ』のサツキに自分を投影してしまう人はきっと、お仲間だ。
「末っ子の呪縛」も「中間っ子の呪縛」も、それぞれがそれぞれもっているだろうから、私が特別、呪縛に苦しめられたなんて言わない。
小さい頃の名もなき苦労が、「長女の呪縛」と命名され、逆にホッとしている。
3つ下の妹と、4つ下の弟
私は3人兄弟の長女だ。
喘息持ちだった妹の世話で忙しい母に、眠れない日、隣に寝てといえなかった事
末っ子長男の弟が誰よりも優遇されてると思えて仕方なかった事。
母となった今は兄弟間の格差を無くすべく、できるだけ平等な育児をしているつもりだ。
今更、母に恨み節を言ったところで仕方ない
と言うか、
こういうことが嫌だったなと、こどもの頃の思い出を母に話すと、「お母さんもね、、、」と長女苦労話でマウントを取られる。母もまた長女だ。
この呪縛、やっかいなもので、いくつになっても解けることがないらしい。
私も、学校生活や社会生活で
他人に甘えられないことや、責任を無駄に負ってしまう事でいらぬ苦労をすることが多かった。
いまだに引きずって、苦労する場面も多い。どうすれば楽に生きられるのだろうと、自分自身の「できなさ」を問う日々を過ごしてきた。
「真面目ね」は褒め言葉か?
学生の頃、私は校則は守るし、課題はきちんと取り組む真面目な生徒だったと思う。
だからといって成績が良かったわけでもない。宿題をせずに遊んでも遊びに身が入らないから、先に宿題をやる。テスト勉強せずにテストに挑むなんて恐怖でしかない。ただそれだけだ。
宿題やテスト勉強をやったか?と問われ正直にやったと答えると、たいてい
「真面目ね」
と言われる。でもわたしには褒め言葉とは感じられない。例え、相手が本当に褒めていたとしても。
宿題もやるし、テスト勉強もやる。だってやらなければならないから。
でも、それがカッコ悪いと思われてしまう。いつからか、隠すようになった。
人からどう見られるかは思春期の女の子にはとても大きな問題だったから。
「やるべきことはやらなくちゃ」
という私のアイデンティティは、「真面目ね」という異論も反論もできない言葉でばっさり切られる。そうやって、自己肯定感がきちんと育たないまま大人になってしまったのだ。
しかし、「真面目」時代に憧れた人がいる。
中学時代仲良しだったグループに私と同じ真面目ポジションの男の子がいた。
同じように校則は守り宿題もやる子だ。私は彼に同類の雰囲気を感じ、居心地が良かった。
みんなで自転車に乗って遊びにいったある日、点滅から赤に変わった信号で、私と彼だけ置いていかれた。
点滅しているのを見て、スピードを上げたみんなに対し、スピードを落とした2人だけ置いていかれたのだ。
「行けば良かったかな」とキチンと止まったことを恥ずかしく感じた私に、「赤だから止まる方が正しいんだよ」と彼は言った。
彼は真面目だけど、私とは違う。
確固たる芯をもって真面目でいる。誰に何を言われても揺らぐことない自信をもっているように思え、私には眩しく思えた。
きっと彼は、「真面目ね」を褒め言葉として受け取れるんだろうなと羨ましくなった。
呪縛を持たない長男もいるんだなと。
(もしくは呪縛は長女だけかもしれない?)
呪縛を解くのは自分自身。だけど。
「長女の呪縛のせいで」
と言い訳する歳はもうとっくに過ぎている。いい大人がそんなこと言ってられないのもわかっている。呪縛を解くのは自分自身。そう思って一時期は自己肯定感を高めるよう意識した。でも、無理だった。どうやっても解けない。解けないこともまた、自分を苦しめる。
だから諦めることにした。
「こんな私」を好きになれなくてもいい。呪縛と共存できる道を模索中だ。
自分を好きでいなくちゃなんて、呪縛に呪縛をかけてしまう、なんと損な性格なんだろう。
「私は私」
真面目で臆病で長女の呪縛にがんじがらめだけど、無駄な苦労も背負ってしまうけど、こうやって自分の意識を言える場所はある。
自己肯定感は低いけど、それがなんだよ、生きては行ける。高くなくてもいいじゃない。
自分自身を嫌いでなければ、どうにか生きていけると気がついたからこそだ。
芯を持って真面目をやり続けることに憧れたけど、私には難しい。だから、堂々と長女の呪縛に勝てない大人として生きて行こうと思う。
一つよかったのは、呪縛の連鎖が私で終わりそうなことだ。
(我が家の長男は超マイペース)