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書くために考える習慣をつけている、がとてもしんどい、ので140文字に縮小する
毎日ひとつのnoteを書こうとなんとか4週間唸ってきた結果得たものは、気づきを見逃さない執着と、意識して言語化を試みる習慣。
お題を見つけ、意見を決めて理由とともに現すことのなんと難しいことか。
訓練を始めたばかりで身体に染み付いていないためまだまだ脳が筋肉痛でギクシャクしている。
気づかずとまで言うは大袈裟だが、意識して自分の感情や意識を観続けることなく「なんとなくそれっぽく」時間を過ごすこ
お風呂での時間を何に使うべきか
あなたの財布の中に毎日86,400円補充され、日が変わると残った分は無くなります。あなたはどう使いますか?
って話しを聞いたことがある。1日24時間をどのように有効に使いますか?無駄に過ごしてませんか?という例え話しだ。
睡眠時間など個人差のある必要経費で可処分所得が変わってくるので、一概にどの目的にどれぐらい時間を費やすことがベスト、またはベターなのか、個人より大きな枠組みの世代とか職業とかで
今日やれるだけのことをやったらあとは明日の自分に任せる
概念である自分という何かしらの塊的なモノがあるとして、さらにその塊は経験の集合体であるから仏教的に言えば無常である。
自分とは固定化した何かしらの物体ではないし、また連続的に固定化したそれでもない。
故にさっきの自分と今の自分は極微小だが異なるし、昨日の自分と今日の自分も違う。
これらを時間間隔を長くすればいわゆる成長とか老化とか言うのかもしれぬ。
今日述べたいのは別人格とも言える未来の自分に
道具が好き、美しさがあるから
道具には目的があるので好きだ。ただひたすらに目的を達するためにストイックに真摯に作られている。
風景、光景を切り取るためのカメラが好きだ。
人の表情や光を集約するためのカメラのレンズが好きだ。
馬より早く走るためのエンジンのついた車が好きだ。
より軽快にひらひらと舞い、マッチョに地面を蹴飛ばすバイクが好きだ。
書くための道具が好きだ。
永遠に残り続けるように作られた万年筆のインクが好きだ。
イ
好きなことは嫌いなことの反対ではない
思いついて、それに目的があって、やると決めたことはまずは一回やってみる。というのは以前に書いた通り
やってみてから判断や感想を持つに至りたいとnoteを毎日ひとつ書いてみようと決めた。
書く目的のひとつが同好の士に役に立てることができたらうれしいなということ。
仏教的な瞑想を訓練として実践し、生活で気づきと今ここを活かすを実践としてより良く生きるためにトライ&エラーしていることや、した結果を記録
つべこべ言わず一回受け取ってみる
感情そのものとあなたとは別だ、とモノの本で読んだり聞かされたりしてもイマイチしっくりこない。怒っていても悲しんでいてもそれはおれじゃないかと。
確かにその通りで、おれはおれだ。
しかしおれは怒りではないし、おれは悲しみでもない。
そう感じる我があるのだ。
つまり感情と私は同一化してはいけない。
怒りは起こるものだが、それに気づかなければ怒りになる
上はプラユキ師の瞑想と法話会での一説。
感
経験の集合体を自己と呼ぶ
あなたのアイデンティティはなんですか?
ここでいうアイデンティティは自分でこれだと思っている人生での役割ぐらいのつもりでいる
相手のことを知りたいなと思ったときにこの質問をする。あなたそのものを端的に形容表現できる説明や役割や配役は何ですか?と説明すると新鮮味のある答えが返ってきたりする。
すぐに答えが返る人と、うーんうーんと唸り続けて最後まで出てこない人とのどちらかに割れる。
この違いは
[日記]今日も猫がかわいすぎる
日中は仕事以外のモードに切り替えるタイミングがわからない、昼休憩も何かを腹に入れ込むだけの時間で食後に散歩に行くこともなく15分ほどで自席に戻って続きをこなす。
そういうときの記憶は意識が途切れていたのかと思えるほど何も残っていない。今日何やったか思い出せないがただただバタバタしてたと会社から出るときに思い返すこともある。
そこまでいかなくても気づいて周囲を見れていたかとか無財の七施ができていた
コンフォートゾーンから抜け出るために
一歩。半歩でも半指でもこれまでの自分からはみ出し続けることで別の自分に変わることができると信じている。
ひとつは仏教的な「無常」の極一部の理解と実感があったから。
全く同じ状態がずーっと延々と続くなんてことはなく、いつかは終わる、あるいは変わる。
無常は自分の身体でよく実感できる。髪も白くなるし、あちこち痛かったりくたびれたりしてきた。身体だけでなく頭の中での考えすらさっきといまとで意見が異な
軸足自分、重心相手 バランス
なすがままでいると事象の結果からいいことを見つけることが苦手なので、いいこと楽しいこと嬉しいことを見つけようという心持ちでいる。
放ったらかしにしているとすぐ人を判断してしまう、いいとか悪いとか好きとか嫌いとか。思うに判断するってとんでもなく主観で傲慢、我が自分がが最初にあってそれだけ、相手はいないことのほうが多い。
少し前までぶすっとした顔をしているよりは、笑顔とまではいかずとも口角を上げて
変えれないもの、変える必要のないものに関わらないという選択
アンガーマネジメントでのメソッドで、怒りを認識して分類する。その中で過去や天候なんかの変えられないもの、そしてよくよく観てみたら怒るに値しないような重要でないもの、に対してはもう考えないという考え方がある。これにはとてもロジカルで効果的なので同意できる良いメソッドだと思い実践するようにしている。
これを仏教的に捉えたときには「関わらない」という選択は貪瞋痴の痴(見ないこと)にあたるのだろうか?
見
急に言われてもと、それは聞いてないの裏側にあるもの
職場で起きた出来事によりイラっとやモヤっとやムカッとさせられたときによく出てくるフレーズがこちら。
「急に言われても(困る)」
「そんなこと(風になった)とは聞いていない」
あらためて言葉を噛んでみるとなんて傲慢なフレーズだろう。
自分も含めて何者も信用しておらずシナリオ通りの予定調和でしか動けないというか動かないでいい理由を探しているように見える。
こういう言い方をする人の言葉の裏にある思いは
言葉を省かない努力と工夫
自分以外の人、正確には部下が他の部署の人との交渉の際に発した言葉で、もう少しこういう言い方とかアプローチをしていたら効果も効率も出せただろうにと気づけることがあった。
自分の言いたいことを言う前に、それは一旦置いといて、とわざと一呼吸置いて相手の言いたいことや思っている(だろう)ことを先回りしての想像や、聞いた事実(意見)への共感を口に出すようにする。
そのことをやってみるように意識して行動する
させていただかない。するのだ
こと言葉の使い方に限って言えば、何にでも「させていただきます」をつける安直さが好きではない、というか大嫌いだ。
言葉として美しく響かないと感じる。
のとその言葉の選択が考えることを放棄しているように見える。”とりあえず”相手を立てる言い方にしとけば角は立たないだろうという安パイな選択が透けて見えるからだ、というのが自分のいまのところの意見。
もう少し気持ち悪さに踏み込んで読み解くと会話内の責任の力