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【読書会感想】僕はこの詩が好き

#文学を語ろう  初めてのオフライン読書会で、フェルナンド・ペソア『ポルトガルの海』を読んだ。

ペソアの詩は孤独だった。

読者の私に何も個人的なことは、明らかにしてはくれない。

「僕」で語られる詩の、僕はどんな人でどんな人生を生き、そこからどうして深い孤独を感じ、詩を書いているのか、分からなかった。

私は詩や小説を読んだり、美術館で絵画を観たりするとき、まず作者の来歴を読んでいた。

こういう時代に、こういう人生を送った人だから、こういう作品を作ったというように。

ペソアの詩は生前発表されることなく、読者の存在を意識せずに書かれたものだった。

異名をいくつも作り、個体としての僕の存在から離れ、いくつもの生を生きようとした。

そこにこそ、僕の感性が存在するとして。

『僕は逃亡者だ』


僕は逃亡者だ
僕は生まれるとすぐ
僕のなかへ閉じ込められた
だが僕は逃げた


人がもしおなじ場所に
飽きるのであれば
常にかわることのない己れに
なぜ飽きないことがあろう


魂は僕を探し索める
しかし僕はあてもなく彷徨う
ああ 僕は願う
魂が探しあてることのないことを


ある者であることは牢獄だ
僕であることはなにものかでないことだ
僕は逃亡者として だが
生きいきと生きることだろう


読書会の終わり、私が考え込んでいた時に、佐渡島さんが軽やかに放った言葉は、こうだった。

「『僕は逃亡者だ』
  僕はとにかく、この詩が好きなんだよね。」

作者を通してではなく、詩そのものに向かっているから出てくる言葉。

作者不明のままで、後世に受け継がれている作品は、たくさんある。
例えば、茶道の茶碗や茶入だって、古い仏画だってそうだ。

その作品自体に、真の価値があるから。

異名を作って詩を書いたペソアは、「虚構うこと」によって真の表現を創作し、現在までこうして読み続けられている。

作者を意識せずに作品と直に向き合うこと、それは感性と感性が交わる瞬間なのだと思う。

僕はこの詩が好き。

そういう自らの感性を持った人に、私もなりたい。

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