ビール、保険証、図書館#3dai_futurenovels
病院へ行く道を、ビールやらつまみやらで一杯になったスーパーのレジ袋を片手に、ただただ歩く。病人にお酒とこんなに身体な悪そうな食べ物持って行くなんて怒られないかな、そうビクつきながら。
実際には病院のスタッフは忙しく立ち働いており、こちらの持ち物になど気付いている様子も無かった。
こんにちは、と挨拶した看護師はニコリと笑顔を作り、ご苦労様です、と声を掛けてくれた。
病室は6人部屋で面子は入れ替わりが激しそうであったが、その人だけはずっと居る。病室の主の如き滞在日数を誇っているようだ。誰ともコミュニケーションをとろうとせず、じっとベッド上で起き上がっている様は、どちらかというと彫像と言うのが相応しかろう。
調子はどうですか、と言いながらベッドの脇に立つ。その人はこちらを見もせず、レジ袋に入っているビールを食い入るように見ている。
お見舞いです。そう言ってレジ袋を机の上に置いた。
鞄から封筒を取り出して横に添える。
「これ、あの時貸してくれたお金、やっと返せるようになったので」
数年前、フリーランスで仕事をしていた私は、依頼もなく、貯金もなく、一か八かで起こした会社もにっちもさっちも行かない状況に陥り、どん底にいた。思い詰めた私は、昼間っから飲めもしないビールを呷った。浴びるほど飲んでやった。自宅に程近い図書館に赴くと、止めに入った職員を押しのけ、その辺りにあった本をありったけ掴むと屋上に駆け上がり、それはもう凄い勢いで本と共に飛び降りたのだという。事の顛末の記憶は無い。全て病院で目覚めてから聞いた話である。
病院で目覚めた私は、だがしかし、生き延びた事を喜ぶことはできなかった。状況は何も変わっていないどころか、医療費やらなんやらの分、悪化している。酒の力で逃げ出した筈が袋小路に追い込まれたのである。
都合の良いことに私の寝かされたベッドは三階の窓際にあった。酒は入っていないがまぁ飛ぶことは出来よう。今回こそはしくじるまい。
窓枠に足を掛けたその時、あの人が声を掛けてきたのである。
「兄ちゃんよぉ、何回も紐無しバンジーやって、度胸試しでもしてんのかぁ?」
私の居る六人部屋は静かで、皆寝てしまったものとばかり思っていた私はとても驚いた。しかも止める為の声掛けではなかったのだ。いや、今思えば止める為にこんな突飛なことを言ったのかもしれない。
本当に飛びたかった訳じゃない。有り難くも二度目の身投げを止められた私は、その人に身の上話をし、度胸試しではないことを説明した。その人はじっと話を聞いてくれ、最後に、金の話だけなら、俺が貸してやるよ、利子はゼロで構わないし、返済期限も無い、と言い出した。
何のメリットも無いことを言い出したその人を最初は信じられず、その日はそのまま無視して寝た。
その人は秘蔵のビールを病院の屋上でこっそり飲むのが日課だったらしく、偶然見つけた(実際には尾行していたので必然的に見つけた)私が、弱みを握ることになった。自分の立場が上だ、と思えば、破格の条件で金を借りるのもおかしなことではない気がした。最後の最後にチャンスを貰ったと考えてみるのもいいかもしれない。
結局、入院費プラス少しの間暮らしていけるだけのお金を借りた。
退院して、つてを辿り、こんな自分でも雇ってくれる会社があったので、就職した。
社員寮に入れた。これで住むところに困らなくて済む。安心した。給料を貰った。保険証も手にした。確定申告は自分でしなくてもいいらしい。出来るだけ節約をして貯金をした。あの人に返す用と自分の将来の備え。
目標額に達した時、気付いた。借用書を書いていない。私はあの人の名前すら知らない。何科に罹っていたのかも、何の病気かも知らない。
まだあの病院に居るのだろうか。あの病室に居るだろうか。
何の疑いもなく、あの病院の病室で、地蔵の如くじっとしているあの人はまだいると思っていた。夕方の朱く染まる屋上の片隅で今もこっそりとビールを飲んでいるのだと。
いや、きっと変わっていない。変わってなどいない。
そう信じて、今日、あの病院に赴こうと思う。