戦時下の笠置シヅ子(色川武大のジャズ)
アイレ可愛や
「唄えば天国ジャズソング」からスピンアウト。例えば「戦後史グラフィティ」など色川武大の他の著作での推奨が、戦前-戦中の笠置シヅ子。特に戦時下でのイチ推しが「アイレ可愛や」なのだ(当時のステージではジャズ=敵性音楽、南方民謡的な、この曲がギリギリ可だったそうだ)。
では「アイレ可愛や」、レコード番号"A196"で当時のSP盤&蓄音機は250。
この"A196"のSP盤そのものは戦後のプロダクトだが(1947年発売)、曲は、昭和10年代から唄われていた笠置シヅ子の持ち歌。
たとえ空襲警報下でもステージを追いかけたほどの熱烈なファンだった御大、幼少期から敬愛した唯一人の日本の女性歌手が笠置シヅ子な由。ただし、戦後では「コペカチータ」に「セコハン娘」そして「東京ブギウギ」まで、そう、ここで色川武大に於ける笠置シヅ子は終わる。
(ちなみに日劇での復活では、後藤博のトランペットによる「ラッパと娘」を御大は見た記憶があるそうだ)
これは奇しくも双葉十三郎が笠置シヅ子から離れた時期と重なる(スウィングの女王=ジャズシンガーとしての笠置シヅ子を見出した評者が双葉十三郎)。ともに見巧者としても名高い、ともにNO.1ファンを自称、その二人が同時期に笠置シヅ子から離れた意味は大きいと思う。
要は、ジャズシンガーとしての笠置シヅ子に傾倒、その熱がブギのブームで冷めた(留意は、一般的な評価とは真逆に近い)。色川御大の文言を意訳すると、端的には、戦後ブギでのブレイクにより、流行に迎合せざるを得なかったのでは...云々。ブギのイメージが固定することは、却って、マイナスと見ていたようで、歌手としての活動の場を狭めてしまったのではないかと御大は考えていたようだ。
それと当時の記録では(逸話)、古川ロッパの日記にも折にふれて笠置シヅ子が登場する。最初、挨拶が出来てない&狂ったかのような唄い方とdisな反面、その人柄を認めても。後には、交流が深まることからも相性は良かったようだ。
麻雀放浪記のジャズ
映画「麻雀放浪記(1984年)」では、劇中で「アイレ可愛や」が流れる。大竹しのぶ氏(まゆみ役)のイメージに重ねたのではないかと色川御大は推察しているが、和田誠著「新人監督日記」に経緯が語られている。他に、劇中のジャズでは「港が見える丘(1947年)」は清水万紀夫氏のサックス、レス・ブラウン調の「センチメンタル・ジャーニー(1945年)」は"ザ・ビッグバンド・オブ・ローグス"の演奏。
車中、GI役の鹿内孝氏による口笛は「ファイブ・ミニッツ・モア(1946年)」で、初めて知ったのだが、口笛にも著作権が関係するそうだ。抒情歌では「三日月娘(藤山一郎)」も流れるが、注意していないと聴き逃すかも。あと、1984年版「麻雀放浪記」のサントラも存在、ただ、7インチ・シングルのドーナツ盤(KING K07S-615、A面「東京の花売娘」、B面「センチメンタル・ジャーニー」)。
(紹介のSP盤動画に関しては隣接権が消滅であろうと思われる、また権利が消滅もしくはJASRACまたはNexTone管理下に置かれている曲です)
第5回[岸井明(色川武大のジャズ)]
第7回[二村定一と色川武大のジャズ]