上海バンスキングと川畑文子 (吉田日出子の上海リル)
色川武大著「唄えば天国ジャズソング」には、幾度か川畑文子の名前が(初出は第2章)、紹介せねばと...先延ばし。
不世出の天才ダンサー
ジャズがブームであれど、この極東の地をUS本土の著名プレーヤーが訪れるなど想像もつかない戦前の帝都、そこに本場で鍛えられた川畑文子(日系三世で生粋のダンサー)が来日、しかもブロードウェイ(NYC)の舞台で認められたトップスターの一人であるという噂はすでに国内にも伝わっていたそうだ。プライベートな来日は、紆余曲折を経て(国内タップ界のパイオニアであるジョージ堀のサポートがあった由)、日本各地での公演と相成った。
当時、川畑文子は米国RKO所属(いわば全米選抜のエリート集団、多少唄と踊りが上手い程度では入れない)。是が非でも彼女が欲しい国内興行主(プロモーター)は、そのRKOには無断で担ぎ出したのだ(と解釈、当初、エクスキューズは講師)、日米間の相互伝達が整っていない当時、黙認されたのだろう。そして日本でのステージも成功を収める(象徴的は1933年末、日劇オープニング)、機を見るに敏な業界、特にライバルの興行主はそれに等しい存在のスター発掘に躍起になったはず。
この時期を機とするかのように日系アーティストの国内ジャズ界への参入が(そのポピュラー化?)、例えば川畑文子の対抗馬とみなされた、日系二世でタップも踏むヘレン隅田など。詳しくは乗越たかお著「アリス」を読んでいただければ(後述するけれど、当時のモダンなダンス・シーンに興味があれば必読であります)。
吉田日出子の上海バンスキング
川畑文子がブロードウェイの初舞台を踏む1930年から半世紀後の国内に、和製ミュージカルでは初の成功作と云われた舞台作品が誕生した。それが自由劇場の「上海バンスキング」(斎藤憐作、吉田日出子主演、1979年初演)。内容は、簡単には、事変を控え、暗雲が迫る1930年代半ばの上海(上海租界の末期?)、魔都とされる街に流れ着いた日本のバンドマンが織りなすジャズを多用な音楽劇。
記録的ロングラン公演を遂げることになるのだが、この成功は、上海租界と日本人ジャズという斎藤憐の脚本はふまえ、吉田日出子氏のキャラクターと(作家の小林信彦氏が「吉田日出子のためにある作品と評しているが、まったくごもっとも)、俳優陣による劇中の演奏に負うところも大きい。レパートリーはおよそ20曲、自由劇場俳優陣による全て生演奏(楽器初体験レベル)、それが和製ミュージカルには稀有な、高揚&リアル感(エンターテインメントでの)を醸し出したのだ。
(このオリジナル自由劇場版を超える上演は今後も考え難いのは、この"俳優による生演奏"が大きなハードルになる)
ではその「上海バンスキング」から「上海リル」、吉田日出子と自由劇場オリジナルバンド、公式で。
このアルバムも大ヒット、留意は、サントラではない。舞台音楽のアルバムのヒット自体も国内では異例。80年代の助走に入り東京が異様な熱気を帯びていた時期、ニューウェイブの台頭のみでなく、この作品にも表れているようにレトロ・ノスタルジーのリバイバルが起きても。そんな風潮の中での「上海バンスキング」という物語の出現は、いわば時代がこの作品の上演を望んでいたのではあるまいか?
当時(80年代にかかり)の状況に鑑みて、当時の東京こそが魔都的でもあって(魔都と云われた時代の上海を知るわけもない私には)、その魔都と化した東京が、租界時代の魔都であった上海を恋い慕うかのように引き寄せた、と、そう80年代を回顧する次第であります。
それはともかく、何故に川畑文子から突然に「上海バンスキング」に話が移るかは、この舞台での吉田日出子が川畑文子の影響下にあるから。&私事で僭越、それを知って、私の中で様々な事柄が繋がってしまったのだ。
もう私は川畑文子じゃないから
改まって紹介、天才と云われた生粋のダンサーで、戦前ブロードウェイの舞台では伝説的なダンサーの一人。その優美なダンスでのハイキックは観客を陶酔させたそうだ(当時13歳)。その伝記が先に紹介の乗越たかお著「アリス」に。川畑文子に関する文献で体系的に整ったものでは、この本が唯一かと(ここでの逸話もこの本を参照した)。伝記=登場人物の内面は、多少は創作で補われたとしても、史実的には関係者の証言もふまえ、なによりも晩年の川畑文子当人に直に話を聞いているのがエビデンスとして硬い。これは読み応えが、というか、川畑文子の凄さはもちろんのこと、それ以上に、筆者である乗越たかお氏の熱量にあてられてしまった。
(存在は知っていた、また色川御大もふれてはいるが、これを読まなければ、さらりと流していたはず)
その川畑文子のレコードを、「上海バンスキング」の舞台に臨むにあたり吉田日出子氏は特に聴き込んだそうだ。あの上海租界の歓楽&頽廃感を見事に表現した歌唱は、川畑文子に学んだとも言える(「川畑文子のような女性を演じてみたいと、自伝「私の記憶が消えないうちに」で明かしている)。もちろん全てではないだろうが(そこは吉田日出子氏のアルバムを聴いていただければ)、「上海リル」に例えても、その影響が際立っている。
前回紹介の川畑文子版「上海リル」を再度紹介、吉田日出子版と聴き比べてみていただければ。
この時18歳(19の誕生日前)。先の日劇(1933年)は実質、17歳の女子がコンテンツを企画、その指導までも行い(この時、水の江瀧子も指導を受けたようだ)、大成功を収める。LAでのソロデビューは11歳、その2年後に本場NYCの舞台というキャリアはあれど、まだ少女ではないか。そして疑問が、単純に、一体どうゆう子なのか? そう、その出自が関係する、「やはりなぁ...であった。そこも「アリス」にて確認されたし。
吉田日出子氏に戻ると、彼女には歌手としての履歴はない、それでいて川畑文子の歌唱を自分の唄とするほどにコピー。それは歌い手として倣ったのではなく、女優としてはベテランの吉田日出子氏は、唄の演技としてデッサンしたであろうことは容易に想像が。そのデッサンを基に今度は自分のキャンバスに描いたのが吉田日出子版「上海リル」で、つまり端的には、スタンダードのカバーではなく、その歌い手をカバーしたと思うのだが、いかがだろうか?
(吉田日出子氏自ら「完全に川畑文子をコビー...と述べている、この"完全"と言い切る自信も凄い)
ところで、川畑文子のSP盤を入手した当時(ズル盤で二足三文)、早速、聴いて「懐かしい! は、知る由もない時代に対するノスタルジー故の虚想であろうと。そして後年の「アリス」だ(当時、まだ吉田日出子自伝は出ていない)。それであの歌唱は川畑文子由来と知ってゾクッとした。あの懐かしい感覚は虚想ではなく、すでに吉田日出子の声を介して川畑文子を聴いていたのだ。
でも、ちょっと待て!? それ以前、斎藤憐著「昭和のバンスキングたち」でそんな逸話も読んでいた=完全に忘れてた。要は「アリス」を導火線に様々な記憶が甦るのだけれど、それさえも20年近く前の出来事。ひさしぶりに「アリス」を読み返してみよう、またなにか思い出すかもしれない。
(紹介の公式動画はYouTubeの共有機能を利用しています。SP盤動画に関しては隣接権が消滅であろうと思われる、また権利が消滅もしくはJASRACまたはNexTone管理下に置かれている曲です)
第24回[上海リルは映画の劇中歌だった]