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中野忠晴 (チャイナタウン・マイ・チャイナタウン)

和製ポップスの系譜

第11章は、タクシーの中で(ラジオで)色川武大が偶然耳にした曲に始まる。それが「チャイナ・タンゴ(China Tango)」、公式で。

唄うは中野忠晴、作編曲は服部良一、作詞は藤浦洸。これのオリジナル音源は1939年のSP盤、コロムビア"30202"が歴史的音源にUPされている。

中野忠晴でもう一曲、標題曲の「チャイナタウン・マイ・チャイナタウン(Chinatown My Chinatown)」=邦題は「あなたの為に」、公式で。

編曲は仁木他喜雄、そして作詞は中野忠晴。これもオリジナル音源の1935年のSP盤、コロムビア"28328"がやはり歴史的音源にUPされている。

原曲は作曲家ジーン・シュワルツ[Jean Schwartz]と作詞家ウィリアム・ジェローム[William Jerome]による1906年の作品。このお二方、1900年代初頭から1910年にかけて主にチームを組んで活躍したそうで、その最大のヒットが「チャイナタウン・マイ・チャイナタウン」な由。他にジーン・シュワルツでは後年の「トラスト・イン・ミー(Trust in Me)」も有名=1992年の映画「ボディガード(The Bodyguard)」劇中歌でも(レイチェル[Whitney Houston]がクラブに到着の場面で使われている)、近年ではビヨンセ[Beyoncé]も唄ってる。

中野忠晴に戻り、本領発揮はボードビルだそうで(戦前のステージ?)、歌い手と例えるよりも、色川御大曰く、あえて区分けすればボードビリアン。そこを御大は評価しており、簡単には、ドライな明るさが持ち味で、当時としては希少な存在とのこと(ソフィスティケートな意味合い?)。でも、そのようなステージでの活躍のみでなく、総体としては、和製ポップスの基礎を築いた人物としての評価も高い。

ところで戦前の帝都、1920年代からのジャズブームでは数多の歌手が日本的にトランスレートされた異国のジャズ・ソングを唄っている。その洋楽ベースに日本的な解釈のジャズは、その歌唱も(歌詞は日本語であれど)端的には洋楽のテイストを踏襲に、西洋的情緒(エキゾチシズム)のアピールかのようなスタイルが多かったそうだ。一例としては川畑文子の「私の青空(My Blue Heaven)」で、前半は日本語訳、後半は英語ママ。ではそれを1933年のSP盤で(27441)。

英語話者の川畑文子による独特なイントネーションの日本語と相まって(これが1830年代の帝都では流れていたという点をふまえ)デカダンスにエキゾチックな風味をご堪能アレ。

そんなエキゾチシズムのアピールに対して中野忠晴がトライしたのは、西洋的情緒のコピーとしてではなく、モダンではあれど、まるで昔から親しまれてきた日本の曲かのようなアレンジであった。それにより和製ポップスの裾野を広げたという功績に鑑みても、プロデューサーとしての才能にも秀でていたのだろう。

その中野忠晴にも影響を与えたミルス・ブラザース[The Mills Brothers]で「チャイナタウン・マイ・チャイナタウン」、公式で。

この音源のルーツは1932年の録音のはず(手元にある盤はLiving Eraの"AJA 5032")。先に紹介の同曲「あなたの為に」と聴き比べて欲しい、日本的な唄としてのトランスレートという意味がご理解いただけるだろうか?

そもそもジャズ歌手としてのブレイク以前、声楽科「新人音楽会(卒業生の集い)」で、木下保(武蔵野音大)に師事した中野忠晴は「三文オペラ(ジャズ・オペラ)」劇中歌である「マック・ザ・ナイフ(Mack the Knife)」を唄い、それが山田耕筰(音楽界の重鎮)の目に留まりデビューとなるのだけれど、留意は、ポップスの地位が確立されてもいない当時、声楽科の主流はクラシック、そのクラシックがメインの舞台に、今ではスタンダードともなるその曲(洋楽の流行歌)で単身斬り込んだかのような図式に、と解釈している。

ジャズ云々以前、ポップ(当時のモダンな流行歌)志向だったようで、そのような存在は声楽科卒では稀であったそうだ。で、仮に中野忠晴門下の系譜があるとすれば、それは大まかには、アカデミックな音楽とは趣を異にする流行歌謡の系譜でもある、要は、大衆の心に届く曲に興味があったようだ(この点は終始一貫と思われる)。簡単には、一般受けな俗曲とも思えるが、それが敗戦を迎えて特異な展開を遂げる。中野忠晴そのものはメインストリーマーとしても、その影響は、いわばサブカルチャーとして伝播した一面が大きい。

オルタナティヴ?

転機となるのは、おそらく1952年。その前に、色川御大曰く「戦後は表舞台から去った...云々(不遇なニュアンス)。客席から捉えればそうであろう、確かに、喉の不調により歌手としての一線を退く、また起業での頓挫と、が、キングレコード所属として歌謡界に復帰、実は人材育成の側に回っていた。それが1952年-1966年の日本歌謡学院(戦後キングレコード傘下、後に独立)での院長職(当初、通信教育部門-歌手育成学校校長、遅くとも50年代末には院長に。ちなみに66年にこのポストを引き継ぐのは服部良一)。当時(昭和27年)、中野忠晴43歳(壮年を迎え、これからというタイミングでも)、この地位を得たことでの活躍(後進の育成、教育の組織化など)は歌手としてのキャリアを上回るものではないか。

(この以前、1930年代半ばの日本歌謡学院で中野忠晴はジャズ部門の講師を務めていた実績が。推察するに、その際、初代院長である大村能章は、その才能を見抜いていた? それ故の抜擢? そうでもなければ、キングレコードでの復帰はともかく、要職を任せるとは考え難いが、いかがだろうか? そのキーマンと思える大村能章も一角の人物で、後のJASRACの基盤となる音楽著作者組合をも設立している)

否、詳しくはないのですが、文献を参照では、この御仁、並大抵の歌手ではない。ただ、歌謡界に日本歌謡学院が与えた影響が大きいのは確かでも、戦後に於いて、それはイコール中野忠晴なのか? 校長から院長となる中野忠晴の影響下にあるのは間違いないと思うのですが、教育課程での実態は不明(校内での、その権限はどこまで及ぶのかなど)。また終戦前後(1945年)から中野忠晴が校長に就任までの約7年間の日本歌謡学院が如何なるものかも不明…Hmm

さて、通信教育部門にふれた、それは戦前から存在、その募集広告は音楽芸能系雑誌などに掲載されていた。中野忠晴が校長となる50年代初頭とは、復興から高度経済成長を迎え、出版業界も盛況を極め、前述の(広告掲載の)雑誌類の発行&販売部数も伸びていた。その効果もあってか日本歌謡学院の門をたたく者はより増え、それは国内のみならずアジア圏にも及ぶ。端的には、メディア戦略にも長けていた。留意は、統治下の国では日本語も公用語=日本語をも理解可能=広告を見て海外からも応募者が、実際、通信では、国内部と海外部とがあったそうだ。

一見、時代が味方したようで、敗戦国という負い目も、日本語が公用語も過去の話、日本的な文化は検閲対象、日本語歌謡も然り。だが、かつての宗主国である日本の歌謡は依然、旧統治下の庶民層には絶大な人気が。それが顕著な一例が戒厳令下の台湾であるとされている。でも日本語歌謡は禁歌、それにまつわる芸能系雑誌なども御法度、ではそんな禁制の曲に情報をかの国の庶民層は如何にして入手?

そこにはアンダーグラウンドなマーケットの存在が。庶民層の支持を得たというのは強いもので、なんやかんやで(網の目を潜るかのように)取引されていたそうだ。先に、大衆の心に届く曲に...と述べた、その仮に中野忠晴ポップス思想は、戦後海外に於いてもアンダーグラウンドに、またその教えを受けた音楽関係者により広がりを見せる(主に日本留学組の帰国後の活動によるもの?)。それで、アレっと思ったのは、特に戦後台湾では一種のオルタナティヴではあるまいか!?

日本のオルタナティヴとしてでなく(また中野忠晴がオルタでなく)、台湾などアジア圏での日本歌謡の広まりに於いてのオルタナティヴな現象だと思う。御上は「唄うのも聴くことも罷り成らぬ、対してローカル庶民は「そんなこと、誰が知るかぃ!(by金子信雄)であり。建前はともかく、トランスレートもされたカバー曲に数多のブートも出回り、それは旧日本統治時代を上回るメガヒット化する。

統治者は変われど庶民層は日本歌謡を選択した、それは統治云々と例えるよりも、前述の例えの如くに、アカデミックな音楽とは趣を異にする流行歌謡を選んだということ。だが新旧の統治政策の違いと無縁ではない、が、なにやら中野忠晴からは離れてしまうので〆るけれど、戦後アジア圏に於ける影響に鑑みても、中野忠晴はその一生をポップスに捧げたといっても過言ではないだろう。

詳しくは三元社「台湾のなかの日本記憶」を読んでいただければ(ここでは芸術社会学者の石計生氏による研究を主に参照した)。存じ上げなかったのですが、中野忠晴は戦後台湾での評価がメチャ高いそうだ。

(紹介の公式動画はYouTubeの共有機能を利用しています。SP盤動画に関しては隣接権が消滅であろうと思われる、また権利が消滅もしくはJASRACまたはNexTone管理下に置かれている曲です)

第22回[スウィングしなけりゃ意味がない!]