バカが往くのはTwitterかBlueskyか?
ドラマ化、映画化して大ヒットした「ミステリと言う勿れ」という漫画の、一番有名なコマといえば「子供はバカじゃないです/自分が子供の頃バカでしたか?」に違いない。よく見るコマは間違いなくこれだ。以前から「子供は言うほどバカではない」論をもっていた私は、良いこと言うなあくらいに思っていたが、最近どうも風向きが変わってきた。結局のところこれは女性作者らしい発想であり、女性読者に都合の良いことしか言わない理想像をアフロ頭の人物に言わせているだけだろうという意見が、引用リツイートに散見している。
私は「ミステリと言う勿れ」を読んだことがなく、例のコマがどういう話の流れで出てくるのかも知らない。まず私は子供がそこまで好きではない(恐れている)という点もあり、なんだか旗色が悪くなった。
それにしても私は、子供はやはりバカだったという意見に辟易としている。例のコマは以前にも話題になっており、やはり子供のばかげた行動を強調したものだった。
見事なまでにバカな子供が続々と登場している。恥ずかしげもなくバカオリンピックが開催されているのを見て、私は「こんなのと比べたら馬鹿じゃないに決まっている」と思った。私もまた、幼少の頃から小さき人の意味不明な行動を何度も見てきた。私にはこんなことはできないと思うことばかりだった。こんなバカなこと、絶対にやってやるものかと思ったほどだ。そうなると私は、少なくとも表面的にはバカではなかったことになる。私がバカでなかったのは、お前らが率先してバカなことをしたからだろうがと言いたくなる。そうして大人になった今、「ミステリと言う勿れ」の一コマを採り上げて、またしても己のバカ・エピソードを披露するというのか。そうなると余計に私のバカでなかったことが明るみになる。バカの路を勇んで歩いた者たちの後を追えなかった私は臆病だったのだろうか。
確かに傾向として、女性の方が思慮のある子供として振る舞うことが多いのだろう。それはそれとして、自分を乱さずに生活しようとして幼少期を過ごした男性は決して少なくないはずだ。
そもそも例の一コマは、俺のバカ・ムーヴ披露するお題ではない。いかにばかげた行動をしようとも、子供には子供なりの思考が働いている。大人たちは、自分がかつて子供だったことも忘れて、小さい命を思考なき形骸と思って、ナメた態度をとっていはしないか。そういう注意が払われているのが例のコマなのだ。読んだわけではないが、そう言っている人がいたので私も言ったまでだ。ところで大人の中には、本当に子供の頃の自分を忘れている人もいる。私の父親がそうで、まともに記憶を語らないし、語ったとしても当時どんな感情をもったのかが抜け落ちている。あえて語らないでいるのだという指摘は通用しない。今も父親は、繊細の正反対な人間だからだ。
こうしてバカではないことが守られた私だが、今いくらか迷っていることがある。それは私だけの問題ではないはずだ。ほかでもない、これから居坐るSNSをどこにするかという問題だ。度重なるイー口ンのTwitter改革運動によって、ネットの住民たちが穏やかならざる状況にいる。
最初に言うが、私はこの件についてこれといった答えを見つけていない。これも多くの人と同じだと思う。多くの人が現状のTwitterを憂えているのは確かだろう。直接に被害を受けたわけではないから気にせずにいた私も、最近のTwitterについては妙なことをしているとさすがに思う。ブロック機能の改定も、イラストをAI学習に利用する方針も、なかなかの反響があった。最近はやや大人しくなったかと思えたが、「桜井政博のゲーム作るには」の真相が明かされたことで再燃している。視聴者が見てきた桜井はすべて2022年の姿で、桜井が頑なにTwitterと呼んでいると思えたのは、実のところ昔の映像だったからイーロンの改革を知るわけもなかったのだ。このようにTiwtterかそうでないかという問題は、ことあるごとに熱くなる。同じSNSをともにする者にとって、昨今のTwitter問題は決して鈍感ではいられない事柄だということがわかった。
Twitterに嫌気が差して、類似したSNSに移動する者は多い。そして結局Twitterに戻って来ることも、ほぼ約束されたことだ。
他のSNSは人も少ないし、今までの仲間が同じ熱量でいるわけもないので、安定を得ることが難しい。どんな意志があっても、結果が寂しいようでは意味がないようだ。
私が聞いた話だと、一度Twitterの民にさよならを告げたのに、いつのまにか戻ってきて、仲間たちに移住を呼びかける者もいたようだ。Twitterは毒だらけだと悪態をつきながら、煮え切らない態度をとり続けているのが矛盾だとして批判の対象になっていた。
宣言しておいて貫徹できないのが厭だから、私はTwitterを離れるとかそういったことを言わないでいる。別の場所に移って絶対に戻らないと断言できる確証がないからだ。わざわざ窮地に自分を追いやることをしてどうするのかとも思う。そもそもSNS自体、本気で取り組むことだったのかと考えると、それは違うという結論になる。
かつてMisskeyなるところが話題になり、与謝野晶子とかレターパックプラスとか騒がれていたのは意味不明であり、笑えた。当時TwitterはAPI制限が厳しくなったとかで、閲覧すら怪しくなっていた。だから私もMisskeyに移動しようかと思ったこともあった。しかしいきなり違う環境、それもMisskeyという独特な文化のところに行って慣れ親しむのは難しいだろうと判断して結局やめた。Discordさえ活用できない私だ。Misskeyに移住しても、独りでしばらくあれこれ言って力尽きるオチが見えている。それにMisskeyの輝きは、へんふ氏が「にんげんっていいな」の凄まじい替え歌をやった時点で最高潮に達して、それきりだと私は考えている。こんなセンスを私は持ち合わせていない。
一時的にでも行われるTwitter脱出運動を、集団ヒステリーだという者がいる。そういう者は、正常性バイアスにとらわれているのではないだろうか。私はヒステリーもバイアスも両方あり得る気がする。
イラストがAI学習に利用されることを知ったイラストレーターが、別のSNSに移動する光景もよく目にした。そういう動きを見て、別の所に移ってもAIに利用されることに変わらないと言う者もいる。その意見に対して、「万引きされる危険を知りながら禁止を呼びかけることは大事だ。万引きされても問題ないという契約があったら拒否するに決まっている」という反論があった。こういうのは気持ちとして表明するのが大事なのだということだ。私はTwitterの規約についてロクに知らないのだが、AI云々という話は前々からあって、それを改めて公表しただけだという指摘も見た。今そのことを知ったという人間は情弱でしかないという主張だ。しかし、知った以上は何かしらの行動をするのが当然だと思う。人より遅いからといって何も考えない方が問題だ。
タイムラインを眺めていても、各人の意見表明を見ることがしばしばある。Twitterという汚れた水に住み慣れてしまった身として、他の綺麗な場所に移ることはできないという人もいた。その人が使った表現として、「沈む船」というのがある。要するに、どこにも動くことができないから、このままTwitter(=船)が衰退、閉鎖(沈む)することがあってもどうしようもないということだ。
内心、私は疑念を挟まずにはいられなかった。まずTwitterは船ではない。そして、仮にTwitterという船が沈んだとして、その人は死ぬのだろうか。そんなことはない。私が以上のことを問いかけたら、その人はそういう問題ではないと言うだろう。しかし、そういう問題ではないことをその人は言ったのだ。
私は比喩に頼ることがあまり好きではない。よく聞く話として、人生を壺に喩えるものがある。壺に最初に入れるのは、大きな石=自分にとって最も大事なものにするべきで、小さな石で満たすのは損失だという趣旨だ。しかし、少し考えてほしいのだが、人間は壺だろうか。私は今まで壺が歩いているところを一度も見たことがない。だいたい壺なのだとして、そこに余計な石が入っているのならひっくり返せば済む話ではないか。大体その壺が、教壇にサンプルとして置かれる物と同じサイズだとどうして言えるのか。めちゃくちゃ大きい可能性を考えたことはないのか。石が大きいか小さいかは各人が決めることだし、石を己という壺に入れても妙に小さくなっていたり、思いのほか大きくなっていたりするのが人生というものではないか。私が物申せば、変な比喩を用いるから人は貧しくなるのであって、それこそ小さな石を詰められたも同然になる。
昨今話題になっているネット民のSNS問題について、暫定の答えを得るために私は、島田紳助の話を引き合いに出そうと思う。
日本人が日本円しかもっていないのは非常に危険だ。なぜなら日本がおしまいになれば、どれだけ蓄えていたお金もすべて無になってしまう。そうならないためにも半分を円、半分をドルにするべきだ。一つに頼るのは大博打でしかないという話だった。私はこれをSNSに当てはめたい。
結局お前もSNSをお金に喩えているではないかと思うかもしれないが、船に喩えることよりは現実に即しているのではないか。私はTwitterに限って生きるつもりはない。インターネットがなくならない限り、どういう形になっても生き残れるような準備をするべきだと思う。既に私はそれなりの行動を起こしている。といって大したことはやっていないのだが。noteという場所であれこれ書いていることだって一種の移住なのではないかと思ったりする。
私は基本的に、現在話題になっていることについて意見することを控えるようにしている。何が正解なのかわからないからだ。意見が定まらないのにあれこれ言うと見苦しいのではないかと考えてしまう。それは臆病な心の表れなのかもしれない。ところでTwitter問題は、いくら臆病に構えていても落ち着くことがない。というわけで一旦の答えを出すために、この記事を書いた。2023年に心の友から、「Twitterはなくなるのか?」と問われたことがある。あまりTwitterを活用しない心の友と比べればプロフェッショナルになる私は、「いや、なくならないでしょ」と平気な顔を意識して答えた。それは一応、嘘ではないのが現状だ。できれば末永く、無茶な変容を起こさずに日々が続いてほしい。簡単に移住するには、既に私はTwitterで多くの仲間を得たのだから。結局なんだか弱腰に終わってしまった。