ちいかわ、人面犬説

この国には、人面犬というのがいる。こいつは体は犬なのに顔が人間(大抵は男)で、通行人と接触すると「ほっといてくれ」「勝手だろ」と捨て台詞を吐いて立ち去る習性をもつ。私はまだ見たことがないが、もし会うことがあれば絶対に嫌な気持ちになるだろう。私が子供の頃は特にそう思っていた。当時は講談社から出ていた「学校の怪談」を延々と読んでおり、怖いものが苦手だった私は始終震えていたが、人面犬にだけはキレていた。いやお前の見た目がおかしいからこっちがざわついてるのに何が「ほっといてくれ」だ、勝手なのはお前だろう、といった具合だ。

年月が経った今、私は人面犬の気持ちがわかる気がする。それは私の体が犬に近づいているからではない。要するに、人面犬の正体は「ちいきのかわりもの」なのではないかと思うようになったからだ。関係性の悪化とか、精神的荒廃だとかで、ちょっと特徴の出る言動が目立つようになった人間がいるとする。そういう人間のことで世間は囁いたり騒いだりするし、本人の見えるところで態度に現われたり露骨だったりする。さて自分がとやかく言われる身になったとして、世間に気兼ねして生きるとしたら辛い。だったら開き直って、何か文句あるのかという態度になった方が一時的にでも楽だと思う。人面犬の「ほっといてくれ」「勝手だろ」という言葉は、こんな風になって生きている自分を慰撫して、攻撃をかわすための方便なのではないか。こんなことをして良好な関係が築けるかというとそうではない。「本当に助けが必要な存在は助けたくなる姿をしていない」という説があり、賛否両論を招いている。確かに人面犬に対してどうにかしてやりたいとは思わない。私は柳田国男でも常光徹でもなく、人面犬の出自がわからないから想像で言うしかないのだが、どうも哀愁を感じてならないのだ。

https://x.com/ihate_sushi__/status/1565966512468692993

有名な「ちいかわ」の正式名称は「ちいきのかわりもの」ではない。これもカスの嘘というものなのだろう。この言葉を積極的に用いたのが佐々木氏による「不審者ちいかわ実写版」で、私もいくつか動画を見たことがある。もちろんこれも公式によるものではない。そういえば登場人物の誰かが大学院に行ったとかで役を降板したはずだが、あれから動画の投稿はどうなっているのだろう。

欄干公式見解の出世作(?)といえば、「私はおんねこの作者かもしれない」だ。だから間接的にちいかわからの恩恵を受けているし、足を向けて寝られない存在であるし、あまり顔向けできない。街を歩けば(部屋にこもってネットしか見ていなくても)大谷翔平かちいかわを見ない日はない昨今、ちいかわを嫌っていては精神が休まらない。幸い、私はちいかわが嫌いではない。同時に特別好きでもない。正確にはあまり関心がないようだ。いわゆる逆張りでもない。最初に理由を挙げると、「自分ツッコミくま」の方が好きだからだ。

ちいかわに背を向けて


ちいかわの作者であるナガノは、ちいかわとともに現れた新人というわけではない。ちいかわの連載が始まる数年前に、自分ツッコミくまを発表していた。これは当初は漫画ではなかったはずで、LINEスタンプという形でイラストが販売された。ナガノにとっての最初のヒット作はくまだった。私が最初にくまを見たのは2016年の9月で、親が使っているのを見て大いに気に入ったのだった。

母とピザを食べることを約束している

あるときナガノが漫画も描いていることがわかり、Twitterに新作が出るごとに私は朗読をしている。ちなみに、ナガノの漫画の最後のコマには決まって「終」の文字がある。私はこれを「お」とだけ読むことにしている。その方がナガノの世界に近いと思うからだ。他にも、くまがパック寿司を買ったことに欣喜雀躍して、帰り道に即興ソングを歌うシーンがある。私が朗読する際は、「今日はなんだかパック寿司~中トロ入ってめちゃ最高~」という歌詞に節をつけて歌うことにしている。私が考えたメロディーはナガノの頭の中で流れている曲と同じだと考えてやまない。

https://x.com/ngntrtr/status/1271019490440962050

くまを中心としたキャラクターの、顔の情報量が少ないシンプルな造形は私のもっとも好むところだ。派手な作風ではないことは漫画でも同じで、基本的には日常の(食をメインにした)ささいな出来事を題材にして、ややシュールな演出を施しているのも良い。話によっては微妙な怖さも表れていて、作者という人が抱える世界はどんなものかと興味が尽きない。私は自分ツッコミくま、そして作者のナガノをこのように捉えていた。

ある時から、ナガノは「なんかちいさくてかわいいやつ」というプロジェクトを始動した。最初は全然気づかなかったのだが、画風がくまと同じなので別の連載を始めたのかと順当な理解をした。そこで私は「ちいかわ」のファンになったのかというとそうではなく、ほとんど無視していた。連載当初のちいかわは、純粋に可愛らしいキャラクターによる可愛らしい振る舞いが描かれているだけで、ナガノ特有の闇の演出に乏しいと感じたのだ。ナガノという人は、一般的に広く受け入れられるために、あえて純粋に可愛いだけの漫画を世に問おうとしているのだなと察した私は、これは自分向きではないからと判断して見送ることにした。それと細かい理由だが、私は会話をする上で、言葉を出すための埋め合わせとして使う「なんか」という言い回しが好きではないから、「ちいかわ」の正式名称を見ると少しだけ違和感を抱いてしまうというのもある。

しばらくするとちいかわはくまを超える人気を集めた。それと同時に、作風も尋常ならざるものになっていったことは、誰もが知るところだろう。ナガノの屈折した趣味が露わになったことで、私はちいかわを見直すことになったのかというとそうではなかった。この時にはもう乗り遅れた感があって、うまく連載についてゆくことができなかったのだ。ただしセイレーン編は、かつてないほど長期化した連載と、怒涛の展開の連続とから、初めてまともに読み通すことができた。それでも他のエピソードに目を通すようにはならなかった。私にとってナガノといえば、やはりくまなのだった。最近はちいかわの連載で忙しいのか、あまり新作があがらないのが少し惜しい。

今年の二月に、私はツイッターにて開かれた通話(スペース)に参加した。十人近くの集まりだったと記憶している。二月といえば、ちいかわのセイレーン編が完結したばかりであり、私がおんねこ記事を投稿して間もない時期だったので、話は自然とちいかわの方へ移りがちだった。その時に私は自分ツッコミくまの名を出したのだが、知っている雰囲気を出していたのは一人だけだった。それでちいかわと自分ツッコミくまとでは、知名度に大きな開きが出ているのだとわかった。ちいかわの漫画は専用のアカウントにて連載されており、ナガノのアカウントとは別であることが原因になっているのだろう。

冗談でも自虐はしない代表として

あれこれ考えると、私がちいかわに執着しないのはもっともなことだと思う。ご存知のとおり、ちいかわのちいかわは人間ならばいわゆる「社不」になってもおかしくないキャラクターだ。どうもまともに話せる人ではないし、草むしり検定5級には何度も落ちているし、戦闘能力も高いとは言えず、主人公補正がなかったらいつ死んでもおかしくない体たらくだ。
ちいかわの人気というのは、ちいかわの無能感を抜きにしては成立しなかったとしか考えられない。たぶん、ナガノはそのことを自覚している。そしてこの支持の内実は、「ちいかわ」に触れる者たちの自己投影も絡んでいると思えてならない。つまり、読者もまた自分の無力を実感しており、ちいかわの姿を見ることで共鳴しあっているということだ。人によっては同情して傷をなめ合う関係にもなるし、あるいは責任転嫁するために攻撃して発散する対象もなっているのだろう。「ちい虐」というのをたまに見るが、それは全員がそうとは言わないにしても、後者の人間が支持しているのではないか。

私が常々考えていることとして、ここ十年のネット民の自己肯定感はぼろぼろ説というのがある。インターネッツではしばしばウォッチ対象になって、さんざん馬鹿にされる人間が現れるものだ。それこそ以前、私が書いたおんねこの作者などまさにそれだ。問題は、こういうネット民の悪意が単純に他を攻撃するのではなく、自分にも返ってきているのが当たり前になっていることだ。
復活してからそれなりの年月が経つSyamuさんにしてもそうだ。あれほど健常者ではないと馬鹿にされている人物だが、果たして我々は本当にSyamuさんを嗤うことができるのだろうか。彼の数ある無能プレイのどれか一つを自分がやらかせば、自分の状態まで怪しくなる。現に車の免許がMTかATかで、上下関係が生まれかねない事態が続いている。Syamuさんのいわゆる「S」に丸め込まれないためには、自動車免許はMTでなければならないし、肌が荒れ続けることも避けなくてはならない。こんな馬鹿な話があっていいのだろうか。
十年前に猛威を振るったハセカラも同様だ。唐澤という人物の登場によって、ネット民にとっての弁護士の権威がいくらか下がったのは有名な話だ。ここで重要なのは、弁護士が「俺達」のところにまで落ちたことだ。かつてのVIPPER的リア充爆発思想でいくなら、「俺達」は何よりも素晴らしい存在でなくてはならない。いつしかインターネッツのマインドは、「俺達」は弁護士よりも上から、弁護士は「俺達」以下だ、というものになった。
この万物の価値を下げる思想は、例のアレが最大の勢力となっている。いつのことだったか、私はある話題になったツイートを見た。それは誰かによるVTuberを揶揄するをツイートだった。そのツイートは「淫夢厨だった友人の趣味がVtuber鑑賞に転向していた」という内容だった。それに対するリプライで「どっちにしろ地獄」という感想があった。私はVTuberといんゆめのどちらが上質かということを議論したいのではない。考え方がとことん下流志向になっていることが問題なのだと言いたい。仮にもどちらかが上だと言えない考え方が根付いているのであり、こんなことでは自己肯定など言っていられる場合ではない。VTuberの方はともかく、もう片方は確かに手放しでは褒められない人権侵害コンテンツだ。その状態のまま、他のあらゆるコンテンツを地獄に道連れしようとするから厄介で、混沌が深まるのだ。

最近はっとしたツイートで、最近やたらとTLに流れてくる美緒48歳についての分析があった。

確かに美緒48歳は、あの一コマを見る限りどん底で、生活力があるようにはまったく見えない。人々は鬱一色のコマを茶化すために日々研鑽している。
配偶者も子供も生活能力もなくても、むりやり何かがあることにする大喜利が盛んだ。そもそもあれほど凄絶な描写をされては、どうしてもプラス方向にいじくるしかないだろうという声もある。

https://x.com/kaito_airsoft/status/1843919067746578575

今回調べたことで、1983年にアルファードを所有している謎の家庭が描かれた漫画が美緒48歳と同じ作品であることがわかり、妙なところで繋がっていると思った。一粒で二度おいしいではないか。


アルファードのリアリティーはともかく、私もまた美緒48歳をただの怪異として笑うことができるのかというと少し考えてしまう。私が美緒48歳みたいな人間になるかならないかでいうと、なる方もあり得るからだ。それでも悲観的に身を案じたってしょうがないじゃないかと思う。未来は現実ではない。
私がTwitterにて日々交流している人達は、一時期やたらと「人生を進める/進めない」とか言っていた。自分たちは社会不適合者に寄っているはずの人間であり、傷をなめ合いながらどうにか安定を得ようという考え方だ(と思う)。そんな中で、誰か一人でも恋人ができたとか、デートをしているとか、結婚をするかもしれないとかいう話になれば、それは抜け駆けであり「裏で人生を進めている」ということになる。普段の生活が見えないインターネットならではの言い方だ。彼らが冗談で互いを監視し合い、自分を置いて先へ行くことを非難する風潮をつくっていったことはわかる。しかし当時の私は、これこそが正当な道であり、それに対して俺達は半人前であるという考え方が好きになれなかった。生き方にはいろいろあるのだし、何か罪を犯したわけでもないのに落伍者になるなど、勝手極まりない話だと思っていた。心に余裕がない私は、仲間達があまりにも人生、人生と繰り返すものだから、ついにTwitterの設定で「人生」をミュートにした。そして現在にいたる。とはいえ「人生」という言葉自体は悪いものではない。やや格調が高いが頻出単語だ。そのためTwitterを見ていて、「このツイートにはミュートしたキーワードが含まれています。」という表示が出る度に、「ああ、人生のことか」と得心する日々が続いている。さすがに今のTLでは「人生を進める」という言葉が盛んではないはずなので、そろそろミュートから外しても良い気がする。

「そんなことを言ったって、どうにもならないではないか、すぐには解決できないではないか」という話が私は好きではない。何のために生まれたのかなんて一切考えない。無駄に暗いことを考えてもどうにもならなかったことを私は知っている。

「ガチ鬱とかふざけて言ってたらガチで鬱になってしまった」というツイートが先日話題になった。とにかく言葉には気をつけるべきだと思う。そのために私は心にいつもマザーテレサを養うことにしている。思考に気をつけなさい。それはいつか記事になるから。欄干公式見解より。


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