これだからインターネットはやめられない ~追憶の声
YouTuberなんて賤業どころか、職業ですらないと思っていた時期が私にもあった。今から十数年前のことだ。あの頃はYouTubeのトップページを開く度に、ヒカキンの変顔が大きく表示されていた。私の心はどうしても穏やかではいられなかった。あれから、YouTuberの地位は看過できないくらいに向上している。警察に捕まる者が現れたとしても、認めざるを得ない職業となった。ヒカキンは未だに逮捕されていない。
誰でもわかっていることだが、ヒカキンのような成功者になるのは簡単ではない。下にはいくらでも下がいる。例えば私の元友人は、五年にわたって断続的に動画を投稿し続けているが、未だに収益化は果たされていない。動画の再生数が悪いと「こんなに伸びないもんなの?」などという呪詛をツイッターで書き込んでいる(そのアカウントを私は自分の別アカウントで観測している)。元友人はYouTubeとツイッターのアカウントを連動させておらず(愚痴アカウントでは投稿した動画をツイートするが、YouTubeチャンネルからはTwitterに飛べない)、本当にインターネット・タレントとしてやってゆく意欲があるのかどうか疑わしかった。かつて彼はライブ配信もやっていたが、あまりに人が来ないものだから「悲しいわ」という声を連発して憂鬱になっている魔の時間を三十分繰り広げた。私は心配を通り越して笑えてきた。こういう惨状を見ていると、迂闊に野心を抱くのは、その人を不幸にするばかりだと思ってしまう。
基本的に人は興味のある分野しか見ないので、よくわからない素人のよくわからない動画をわざわざ探ろうとはしない。当然ながら知らないYouTubeチャンネルは無数にある。我々はそんなチャンネルがあってもなくても人生に及ぼすものが何もないため、一切気に留めない。巡り合うことがまずないのだから、意識しようがないのだ。しかし、ふと謎のチャンネルを見かけたらどうだろうか。YouTubeの仕様で、自力では知ることなかったであろう動画やチャンネルが突然表示されることがある。任意のキーワードで検索したところ、思っても見ないようなものにありつくこともある。そうした動画やチャンネルが私の知らないところで好評を博していたなら、「はあ、盛んにやっているんだなあ」と感心して、気に入ったり通り過ぎたりする。一方で、ほとんど反応を得られていないものに遭遇したとしたら、それはそれで強い印象を残すことがある。こんな誰が見るかもわからない動画をアップロードしてどうするのかと不思議に思ったりする。無論、投稿者の全員が収益化を目指している訳ではなく、ホームビデオ上等でやっている人もたくさんいる。自分が楽しめることを第一とした趣味の動画もあるし、本当にあたまがおかしい人によって作られた電波な動画もある。問題は、理性を保ってつくっているし、人に受けるものを作ろうという意識が感じられながら、まったく結果が伴っていない動画だ。そういう動画に出会うことはあまりないし、もし見かけたとしても速攻で記憶から抜け落ちるのだが、一つだけどうしても忘れられないものがある。
毎日頑張っている貴女へ。あなたが言ってほしいフレーズなどを声で表現していきます。「今日も一日お疲れ様。」「大丈夫、きっと大丈夫。」たった一言なのに、癒される時ってありますよね?貴女の癒しに、少しでも役に立てると嬉しいです。いろんなフレーズを待っています。
動画の音声を聞いても、説明欄を見てもわかることだが、言ってほしい言葉があったら読んでやるからリクエストしてくれよな」という挨拶だ。ただそれだけのことだ。提示されているのは、サンプルとしての声であり、これは良い声、癒される声をしていると感じさせるためのものだ。聞けば男性の声で、棘のある音色でもなく、まあ耳障りに思うことが滅多にない系統だろう。なんといっても本人が動画の題名で「いい声」と自称している。投稿者は「junsrelaxing」という名前で、どうあがいても方向性は癒し系だ。わずかに得られる情報だけでも、悪くはないんじゃないのと思う。私は今でもそう思っている。
この動画およびjunsrelaxingにとっての最大の問題は、コメントする者が誰一人いなかったことだ。junsrelaxingはコメントを待っており、それに応じて動画を投稿する宣言しているのだから、リクエストがない以上は何もできないではないか。よって、junsrelaxingの投稿動画はこれ一本のみで、あとは何もない。junsrelaxingがもつ癒し効果とやらがどれほどのものだったのかは、まるでわからないのだった。
正直、思うところは何かとある。「貴女」という表記からして、はじめから女性のことしか考えていないことに、下心を感じてしまうのは私の卑しい心の反映だろうか。考えれば自然なことで、女性をターゲットとすることはまるで見当はずれでもない。それにしても、ロールプレイングではなく現実を生きる「貴女」そのものへ訴える語り口、いかにもな演出としてソファーに置かれるた可愛らしいぬいぐるみ(「LOVE」の文字がある)を静止画にするといった措置は、なかなかに露骨に思う。いくらYouTube上とはいえ、謎の人物に直接メッセージを送るのは、一対一の関係が確定して、気が引けるのではないか。この辺に躊躇したことで、コメントする気が起きなかった人が多数いたのではないかと思う。
どういう環境で、どういう機種で録音しているのだろう。あまり鮮明な音には聞こえない。junsrelaxingは、確かに落ち着いた声質をもっているが、それは音質自体がくぐもっているからかもしれない。そのせいでただでさえよくわからない人がさらに得体が知れなくなっている。junsrelaxingは40歳くらいに聞こえるのだが、これは私の妄想だ。
このようにしてjunsrelaxingのYouTube人生はすさまじく短いものとなった。2012年10月に投稿されてから12年の月日が経っているというのに、未だにコメント数は0だ。年月を重ねるほどに、この動画の呪物度が上がっているように感じる。
junsrelaxingに才能がなかったとはまだ言えないだろう。なにしろ何も投稿していないのだから。私が思うのは、待つばかりではなく、自分から動画を差し出す精神が大事だったんじゃないのかということだ。自らチャンネルをつくって動画を投稿するまでは良かったのだが、そこからの自主性には欠けてたようだ。もしかすると瞬発で意欲が芽生えただけで、急激に熱が冷めたのかもしれない。あるいはこの動画は転載で、かつて存在した伝説のセリフ読み上げ師の、数少ない出土品だった可能性もある。何が言いたいかというと、junsrelaxingのような人物でも、ある程度の人気動画投稿者になる可能性はあったということだ。その可能性は、投稿しない限りは絶対にゼロだ。未だに気になって仕方がないのだが、今になって動画にコメントをしたら何か反応があるのだろうか。私はやりたくないので、誰か実践してはくれないだろうか。
なぜ私がこのような動画を知っているのかといえば、私の需要にYouTubeが応えてくれたからに他ならない。好きな音や声を聞いて他の何にも手がつかなくなるとは前に書いたことだ。インターネットには私の欲求を満たしてくれるコンテンツがあるはずだと、2016年に検索して出てきたのが、junsrelaxingの動画だったのだ。詳しい経路は忘れたが、さほど苦労せずに見つかった憶えはある。それにしても私は、この男性の声に癒しを求めていたのだろうか。もしjunsrelaxingが他に動画を投稿していたら、やはり私は没入していたのだろうか。今となると信じられない気分だ。一つ確かなのは、私はこの動画を「高評価」していたことだ。年月が経って、あの動画は何だったのかと思い返し、しかし今更もう一度見つけるのは難しいだろうと途方に暮れていたのだが、過去の私はちゃっかりいつでも見られるようにしていたのだ。だから私はこの動画をそれなりに気に入っていたのかもしれない。そこには、得体の知れないものに対する好奇心も多分に含まれていたことだろう。
思い出すこと
先週「さして重要ではない出来事」という記事を書いた。その記事は従来の欄干公式見解にしては短いものだった。投稿して早々、私と相互フォローになっている人が、「今週の欄干公式見解はかつてないほどに短くて草」というツイートをしていた。私宛てではなく、純粋なつぶやきだった。私は数日経ってから、そのツイートに気づいた。
「草」とは笑った、面白いという意味合いで、実のところそう大して笑えなくとも気軽に使える魔法の言葉だ。真顔で「ワロタwwwwww」と打ち込むねらーの最新版といったところだ。ただでさえ表情が見えないインターネッツで、嘘でも使える一文字を使われたのでは、こちらもたまったものではない。何が「草」なのか見当がつかないからだ。記事の内容が「草」ならともかく、短いことに「草」を見出している。こういう人は短い文庫本を見ると笑えてくるのだろうか。伊藤左千夫の『野菊の墓』を見て爆笑するのかもしれない。
白状すると、私は「さして重要ではない出来事」という記事を投稿したことに引け目を感じていた。理由はやはり「短い」ことだ。我がフォロワーが指摘したように、こんなに短いものを欄干公式見解で投稿したためしはない。別にルールはないし、私も宣言したことはないのだが、欄干公式見解として投稿する記事はどれも五千字を超えるのが常だ。公式見解を継続して読んでくれている読者がどれほどいるのかわからないが、通読している人なら「こやつは大体これくらいの文量を目指しているのだろう」ということに気づくはずだ。だからいざ短いものが差し出された時に拍子抜けする感覚を得たかもしれない。それを「草」という言葉に置き換えてくれたのなら、まだ優しい方だ。「サボってんじゃねーヨ」と言われることだってあり得たからだ。他の誰でもない私が、これは怠けてると思っていたのだから。
補足しておくと、私は「さして重要ではない出来事」の後に、一万字を超える記事を書いているので、どうにか罪を洗うことはできている。何度も書くが、noteに何字以上書かないといけないという法はない。
今回の記事も短い(といっても四千字になっている)ので、また「短くて草」などと言われないために、他の関連しているようでしていない事柄をいくつか書き連ねることにする。
自演乙
2020年、私はある女性の動画投稿者に注目していたことがある。先述junsrelaxingとは違って、自主的に動画を投稿していた人だった。基本的にゲーム実況を投稿していたのだが、どういうわけでかASMRを投稿するようになった(音声のみ)。その動画が私のYouTube画面にもおすすめとして表示されて、その投稿者を知ることとなった。柔和な声をもっていたこともあり、ASMR動画の視聴回数は大いにまわった。そこまでクオリティーの高いものとは思わなかったが、今後の可能性に賭けてもいいと思えた。
動画投稿者として、自分で打った新機軸が好評を博するのは嬉しいことに違いなく、その人は「感謝を表す」という名目で新たに動画を投稿した。本人の説明を聴くと、読み上げてほしいセリフを読むのでコメントを投稿してほしいというものだった。junsrelaxingの話を先にしたため嫌な予感がするが、実際こういう企画は他の人もやっていることだ。人によっては物凄い数のリクエストが届くこともある。女性動画投稿者は、ちょうと自分の動画が注目されている時にコメント募集を行ったので、まだ希望はある。果たして募集に応じて届いたコメントは4件だった。まあ少ない方だろう。私は動画投稿者のことを揶揄したいのではない。むしろ自分自身を笑いたい。なぜなら、4件のコメントのうち2件は私によるものだからだ。応募締め切りは数週間の猶予があったのだが、肝心のコメントが全然なかったものだから、私は自分のことのように不安になった。少しでも賑やかになればいいとアカウントを二つ使い分けて、投稿日も分けてコメントしたのだった。結果としては枯れ木同然の役割しか与えられなかった。私は後悔しているのではない。私のリクエストが実際に読み上げられた時の方がよほど辛かった。自分の公開処刑を客の立場で見るのだから、私はまともにその人の声を聞くことができなかった。
以来、私はその女性投稿者のチャンネルに行くことはなくなった。それは私の出過ぎた真似のせいではない。そもそも投稿者がASMR路線を続けなかったからだ。その人のチャンネルで最も再生数が高いのは、依然として過去のASMR動画ばかりだ。
忖度
一時期、「マネーの虎」の違法視聴にハマっていた。2017年夏のことだ。わざわざ東京に遊びに行って、快活クラブで「マネーの虎」を視聴することもあった。なぜあんなに夢中になっていたのか自分でもわからないが、幸せな時期だったことは事実だ。当時の友人とは「謙虚ライオン!」と言い合っていたものだ。
「マネーの虎」のことで思い出す人はたくさんいる。中でも、情報提供サーヴィスがやりたいという志願者の回は、最近私の中で再び記憶に上りつつある。志願者がやろうとしていたことは、電話一本で何でも教えてくれるというサーヴィスだ。くどくど説明をせずとも、インターネットとかSiriとか言えばそれで終わる話だ。志願者が構想するサーヴィスは、紙媒体の資料を大量に揃えることで、多くの問い合わせに応えるというものだった。今ほどインターネットが普及していない時代だからこそあり得たアイデアだろう。
例によって多くの指摘が続く中で、一人の虎(社長)が、今まさに電話を繋いで「この地区で美味いラーメン屋がどこか教えろ」という要求をした。その場には、なんでんかんでんの川原ひろしがいる。
既に試験的に小規模なサーヴィスを用意している志願者は、さっそく電話をかけた。サーヴィスからの回答は、「○○と、○○と、なんでんかんでん」というものだった。しっかりと「なんでんかんでん」が入っていたのだ。それを聞いた川原は、「今挙げた店の中には既に潰れているものがある」と指摘して、情報の不正確を看破した。そんなことはいいとして、映像を見ていた私は、志願者と川原が顔を合わせていることを知っているオペレーターが、配慮として「なんでんかんでん」を挙げたとしか考えられなかった。
なぜ「マネーの虎」の一つのエピソードを書いたのかというと、最近私も似たようなことをしたからだ(「マネーの虎」に出演したことはない)。私は過去に「結局、大神ミオのASMRが最高だという話~私的ASMR考」という記事を書いたことがある。題名の通り大神ミオのASMRを称賛する記事だが、最後の方で他にも注目している人物として幾人かの名を挙げている。その中に雷迷テラという名のVTuberがある。他のVTuberが有名事務所に所属しているのに対して、雷迷テラだけは個人でやっている。記事を書いた本人である私が、そのことに唐突なものを感じた。結論を話すと、私は雷迷テラの視聴者だということだ。個人勢といっても色々あるが、大抵は視聴者との距離が近い。私は没交渉な方だが、配信中にコメントをし続ければ必ず読み上げてくれる。そして私の存在も把握されている。雷迷テラは私のTwitterアカウントも知っているし、私のYouTubeチャンネルも知っている。つまり、私のインターネットでの行動の大半は、雷迷テラが監視できるようになっているのだ。無論、雷迷テラは私だけを追っているわけではなく、多くの視聴者を抱えている。私の活動をすべて把握しているはずがない。現状、私がここで記事を書いていることも知らないはずだ。それでも、私は先の記事で、雷迷テラの名を挙げずにはいられなかった。本人が見るとは思えなかったが、どうしても書かざるを得なかったのだ。私は飼い慣らされているのではないかと思えてならない。
昨日読んだ本で興味深い記述がありましたよ。
— 欄干代表 (@ties5hues) October 2, 2022
「ドゥルーズによれば、マゾヒズムを構成する論理は、否認の様相を基礎にしている。(中略)「本当はPである(とわかっている)けれども、あたかもQであるかのようにふるまう」ということである。
(中略)マゾヒズム的な関係においては、男は、あたかも女主人の忠実な奴隷であるかのように、振る舞っているのである。」(大澤真幸『〈世界史の〉哲学2 中世篇』講談社文芸文庫 p279)
— 欄干代表 (@ties5hues) October 2, 2022
私のVTuber観はこれに他ならないと直感したのは2022年のことだが、それは今も同じだ。