物忘れの瞬間 ~インターネットをやめようか~

ネットサーフィン(笑)をやっていて、「そうだ○○について調べよう」と思い立ち、今見ている文字や画像や動画をキリのいいところまで見終えて、さあ検索語句を入力しようという時に、何について調べたかったのかすっかり忘れているということが頻繁にある。直前まで見ていたものをもう一度見直して、記憶を取り戻そうとしたり、ものすごく神妙になって静かに考え込んだりする。そうして思い出せれば良いのだが、思考の洪水から助け出せないこともよくある。
毎日こんなことがあるので、最近の私は物忘れがひどくて、脳が衰えているのではないかと心配になる。実際それを完全に否定するのは難しく、適切な言葉が出てこないという別の症状も併発しているので根が深いのだが、原因は老化に限らないと最近思うようになった。正確には脳の疲労なのではないかということだ。よく言われていることだが、SNSというのは一瞬で飛び込んでくる情報が多すぎて見ていると集中力も何もあったものではなくなるのだ。私が思いついたことを一瞬で忘れるのも、直前に多量の情報を見過ぎて脳の処理が追い付かなくなっているというのが適当な理由だろう。
情報過多なSNSによって私達は疲れているという説はきっと正しい。しかし私は長年疑っていた。それは私が現代人であるための矜持によるものだ。ネット中毒・依存ということを言われても、私はネットとともに生きてきたのだから今さら否定しようと遅すぎる。私はこういう人間として生きてゆくしかないのではないか。だから情報を浴びて脳が疲れたところで止めるわけにはいかない。それに私は一応困ったこともなく生活ができているのだから、大袈裟に言うこともないではないか。こんな風に、ネットが及ぼす害というものにどうしても疑念を挟まずにはいられなかった。そうしないと私はずっと毒に冒され続けていることになり、こんな馬鹿な話はない。身を護るために、ネットの害を否定する精神でいたのだ。
ところが先日私は、自分が物忘れするまでの過程を完璧に捉えてしまった。この情報まみれの世界で、よく道筋を辿れたものだと思う。一つ一つ点検すると、なるほどこれは疲労するに決まっていると思い直すしかないのだから、デジタルデトックスも冗談ではないなと思うのだ。私という人間がもつ記憶や意識、そしてインターネットという無数の情報。これらが混合することによって、思考や一時的な記憶は簡単に混雑してしまう。以下は、私が何を見てどういうことを思い立ってそれを忘れるに至ったのかという過程を記したものだ。最初に言うが、多くの人にとってはどうでもいいことだ。

思い立つ前

「隣のミュウツーが突然爆発してぶったまげてるレックウザでも見るか」という、いかにもなツイッター構文によって投稿されたおもしろ画像ツイートが、誰かのリツイートで流れてきた。ゲームにしてもアニメにしても、ポケモンをまともにふれてきたことがない私でもレックウザとミュウツーくらいはわかる。多くの人間は義務教育のごとくポケモンのことを熟知しており、モンスターの名前を言うだけで共有できるものがあるのだから不思議だ。「流行」というだけで背を向けていた過去をもつ私には理解できないことだらけだ。
どうしてミュウツーが自爆するのかは知らないが、隣のレックウザが驚嘆しているように見えるのは知識云々の話ではなく、滑稽で面白い。多分、驚いているわけでもないのだろうが、そう見えるという解釈がなされているわけで、多くの共感を集めているというわけだ。ぶったまげるレックウザはよく知られたネタだったのだろうか。彼らは、子供の時分にポケモンをプレイして「このレックウザ、隣のミュウツーの自爆にびっくりしてるみたいだな……」と思っていた印象が長らく頭に留まっていた可能性もあるし、改めてプレイして「あの時はなんとも思わなかったけど、このレックウザぶったまげてるみたいだな」と新視点を見出した可能性もある。いずれにしても年季の入ったユーモアで、それなりに懐古の情が感じられる。

思い立つ過程

ここからが重要だ。ツイッターはツイートが上から下へと無限に流れてゆくツールなので、「隣のミュウツーが突然爆発してぶったまげてるレックウザでも見るか」の直後、息をつく暇もなく次の新たなツイートを見なければならない。

これも私にとって、さらにわからないネタなのだが、プロレスの選手の顔にフワモコのモコの方の顔が当てはめられているという映像だ。顔はめは多くの人が好きなもののようで、雑であればあるほど趣が出ると誰もが思っているらしい。顔はめパネルという文化が親しみをもつ原因となっているのだろうか。ところで上のツイートの投稿者は間違いなく日本人ではない。ということは顔はめパネルは日本に限ったものではないのかもしれない。なんとなく日本らしい文化のような気もするのだが、発想自体はジャパニーズ・テイストでもないので、万国共通のアイデアになり得るのだろう。そもそも顔はめパネル自体が、人類の顔はめ欲の発散が生んだ一つの形に過ぎないのかもしれず、根源を探るとどこに飛んでゆくかわからない。
別に顔はめの由来について探りたいわけではないので、この辺にする。上の動画で勝手に素材にされているモココ・アビスガードがホロライブ出身のヴァーチャル・タレントであるという事実が私にとって重要なのだ。私はホロに関心があるので、モココは当然知っている。そのモココが勝手にプロレスと結び付けられている(実はモココが何か言って、それにファンが呼応したのかもしれないが)。ホロライブ、そしてプロレス。この二つの要素をかけ合わせると、真っ先に連想するものがある。
それは、さくらみこが2023年に敢行して続けていた「WWE2 K22」のプレイ配信だった。「WWE2 K22」はプロレスを題材としたゲームで、なにかといろいろできてすごいのだが、特徴の一つとしてオリジナル・レスラーが造形できるという点が挙げられる。顔のパーツとか髪型とか服装をカスタマイズして、自分好みのレスラーをつくりあげて、プロレスの試合もできる。この自由な要素をさくらみこは最大限活かした。要するに、同業者であるホロライブ所属のメンバーに似ているレスラーを次々と造り上げたのだ。
美少女キャラクターが屈強なレスラーになっていることの強烈な違和感はものすごいものだった。似ているには似ているが、こんなに顔がレスラー仕様の強面ではなかっただろうというツッコミどころ満載の造詣作業だった。そんな恐ろしいヴァーチャル・レスラーたちが、リングの上で互いにしばきあうことで生まれる、あえんびえん(阿鼻叫喚の意)。そしてさくらみこの豪快な笑い声や叫び声がこだまし、熱狂は加速する。この一連の配信は視聴者から大受けした。

そのプロレス・ゲーム配信ももはや懐かしいことになったと思い返している内に、私はまた別のことを連想した。それは小谷野敦という人がブログで書いていたことだった。「プロレスの味方」という題の記事で、大学時代に仲間がプロレスは八百長だと何気なく言うと、別の人間からなんと野暮なことを言うかと指摘されたという回想がなされている。私はその記事を読んで、確かに野暮なことを言うのは憚るべきだと思い、それにしてもプロレスは馬鹿げたものではないかという感想が捨てられずにいる自分に気づいた。いかなるコンテンツも、興味のない人間が見たらくだらないものに見えるのだという考えをもっている私だが、プロレスはいかにも八百長加減が露骨で、楽しみ方がわからないのだった。私の元友人が、プロレスにはこのような展開があって盛り上がるのだといいう例の提示として見せてきて動画がいけなかったのかもしれない。それは2015年のことで、もう二度と見ていないから記憶はしっかりしていないのだが、二人が一人に立ち向かって戦おうとするものの、二人の内の片方が急に相方をパイプ椅子で叩きつけ、「いつまでもお前の仲間だと思っているんじゃないぞ……」と言い捨てて、敵の方に寝返るという内容だった。私は相手との良好な関係を続けるために「なんだこの信じがたい展開は」と驚嘆した。実際私は、そのいかにもな展開に驚嘆していたのだ。私はプロレスに対して、でも八百長なんだろうというあまりに野暮なことを何度思ったかわからない。このいかにもな八百長がプロレス趣味の難しさであり、もし一歩でも壁を乗り越えたならその先の光景は濃いのだろうとなんとなく理解できる気がするのだった。

小谷野敦の肩書は作家・比較文学者だ。要するに文学者ということだ。間違ってもプロレスラーではないし、ホロライブとも一切関係ないはずだ。私はこの人の本を全部ではないがそれなりに読んでいる。ブログを頻繁に更新してくれる人なので、定期的に閲覧しては読み進めている。プロレス関連の情報を目にしたこと、小谷野敦が少しばかりプロレスのことについて言及していたことが重なって、私の関心は小谷野敦のブログの方へ向かった。ここが私が物忘れに直結している。Twitterの閲覧や過去の記憶の中で、私は小谷野敦の新たなブログ記事を読もうと思い立った。そのために「小谷野敦 ブログ」と検索する必要がある。それは間をおかずにやるはずのことだった。

物忘れの瞬間

ところが私はマウスのスクロールを止めなかった。スクロールは機械的な動作で、決して検索が面倒で後回しにすることの意思表示ではなかった。手癖でタイムラインを流すことで、私はまたしても別のツイートを目にした。

もうおわかりだろうが、上のツイートをまともに見たことで、私は「小谷野敦のブログを見る」という思い立ちを失念してしまったのだ。思い立ったことが新たな情報によって弾かれるという流れだ。我々の外国語の学び方には恣意的なところがあるのだなとか、あまり映画を観ないから馴染みがあるようでそうでないツイートだなとか思っている間に、直前に考えていたことがすっかり抜け落ちていた。何かをしようとしていたことだけは覚えているのだが、肝心の中身が空っぽなので何もすることができなくなるのだ。こうして私は考える人となった。いつものように直前まで目にしていたものを見直して、何か手掛かりがあるのではないかと影を探している内に、ようやく本来の目的を思い出すことができた。今回に関しては「プロレス」をめぐる連想がそれなりに強固に結ばれていたから良かったものの、突拍子もない発想をしていることも多いはずだから、その時の記憶の再生は絶望的だ。今回は、忘れるまでの手続きまで把握できたのだから、かなり幸運な部類だろう。

対策

とりあえず小谷野敦のブログをブックマークに入れるべきではないかと思ったのだが、これも結局は同じことだ。「ブックマークに入れているものを閲覧しよう」という思い立ちが、一瞬にして流れ込んでくる情報によって追い出されるだけだ。それに今、肝心のブログを閲覧したら既にブックマークに入れられていた。そんなことも忘れていたから、毎回検索してブログに行き着く作業を繰り返していた。

このように、私もまた情報化社会に疲れている人間の一人らしい。SNSをやっていると人間としておかしくなりかねないという問題は、前回の記事でも書いた。そもそもネットなんかやらなくとも、人間は何にも接触しないで生きてゆくことは不可能だから、どうしても不安定になることはある。それにしてもインターネットのコンテンツ地獄は、人間には早すぎる、というかいつまでも追いつかないものなのかもしれない。それでももう人間は、特に私は、ネットを完全に止めることはできない。私にできることは、ネットを完全に断つことではなく、時には液晶画面に束縛されない時間をつくろうとする努力なのではないか。

ネット断ちとは少し違うのだが、最近の私はポメラDM200という機器に興味を抱いている。文章作成専用機器で、とにかく文章が入力できるだけのものだ。パソコンという利器がありながら機能を制限するのは退行を意味するのではないかと思う。ただ、やはりパソコンを使っていると例によって情報に巻き込まれて、今書いているブログ記事だって満足に入力できないことが多くなってしまう。ちょっとキーボードを打つのが怠くなると、ついついTwitterやYouTubeを見て二度と戻ってこないから、愚かな姿に他ならない。ポメラDM200なら純粋に文章作成に集中することができるだろう。
それにパソコンは起動するまでに時間がかかったりするから、折角何か書く気になっても、いざそれができる時になると意欲が半減していることがよくある。既に起動している状態でも、noteを開いて記事を書くメニューを選択して……と操作している内にもう冷めていることだってあるのだ。私が意気地なしだからなのだがこんな情けないことになるのだが、まさにこんな人間だからこそ適切な手段を採らなければならない。ポメラDM200なら「パッと開いてすぐに起動」するのだから、鉄が熱いうちに打てる。だから一刻も早く私はこの文章作成危機を買わなければならない。私はステルスマーケティングをしているわけでも、スポンサー待ちしているわけでもない。多分、来月には導入できるのではないか。とか言っている内にもう来月=九月になっているのだった。

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