シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 感想その3
2021年03月11日
こんにちは、Edaです。
公開初日に鑑賞できた「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」。
その感想について、今だからこそ感じるままを残していきます。
※ここからは、作中の演出やストーリーにも言及していきます。本編未視聴の方、ネタバレを気にされる方は、このページをそっと閉じてください。
アスカとケンスケの関係
考察サイトやレビューを見ていても、話題に上がっているアスカとケンスケの関係性。私も劇中、とても驚いたと共に、結局どういう関係性なのか考えていた事を覚えています。
恋人的関係 か 親子的関係 か。
私も初めは、恋人的関係だと思っていました。「ケンケン」呼び。「先に大人になっちゃった」の発言。裸を見られても気にしないアスカと、見ても気にしないケンスケ。ヴンダー登場前、ハンディカメラで取られて照れるアスカ。シンジの「ケンスケによろしく」。
更には、パンフレット内での宮村さんと岩永さんの発言もそういった関係性を示しているのでは?と思わせる要因になりました。
でも、少し時間をおいて考えてみると親子的関係の方が近いのかもと考えるようになりました。
一番の理由は、マイナス宇宙でアスカの内面描写です。
「誰かに認めてほしい」と胸の内を暴露するアスカ。その彼女の頭を、ぬいぐるみに入った大人ケンスケが撫でるのです。アスカは子供なのに、ケンスケは大人として描写されている。思いや記憶が形をなすのがマイナス宇宙ですから、アスカも大人として描写されてもいいはず。でも、あえて子供だった。だから、親子的関係が近いのでは無いでしょうか?
また、アスカの「シンジに必要なのは恋人じゃなくて母親よ」というセリフも効いてきます。私は、シンジとアスカは、男性版主人公と女性版主人公で、表裏一体というか同体の関係にあると思っています。ですので、14年という月日の間に、自分に必要だったのは対等な関係で愛を与えてくれる恋人ではなく、無償の愛を与えてくれる親だと気付いた。そして、14年の間に、少しずつ精神的に成長して大人になった。だから、14年前の、自分と同じ境遇にいるシンジについて、「恋人(自分)ではなく母親(マリ?)が必要」で、「先に大人になってしまった(からもうあの頃には戻れない)」と伝えたのではないでしょうか?
親子的関係の解釈の場合でも、前述の恋人的関係の根拠には説明が付きます。
「ケンケン」呼び。アスカがマリやシンジ、レイをあだ名で呼ぶように、ケンスケもあだ名で読んだと考えることで解釈できます。
「先に大人になっちゃった」発言は前述した通りです。処女でなくなった意味合いも含まれている可能性は大いにありますが、主なのは前述の理由でしょう。睡眠と食事が不要となっているため、性欲も無いと考えても不自然はありませんよね。
裸のくだり。これは、精神年齢が28歳になったことと、完全にリリンでなくなったことから、無頓着になったのだと解釈しています。アスカは元々、家の中では裸に近い格好で過ごすことが多かったですし。また、ケンスケも28歳といういい年齢。しかも、ニアサー後の過酷な状況を生き抜かなくてはなりませんでした。だから、精神的に28歳以上に成熟しているでしょうし、そうなると、(少なくとも表面上は)慌てたり赤面したりはしないはずです。
カメラを取られた際の照れ。これは、純粋に撮影されるのが嫌だったのだと思っています。ケンスケの映像は、ミサトさんから頼まれたものであり、いわばヴィレの面々が利用するわけです。村ではリリンである村人との接触を極力避けていたアスカが、リリンの利用するビデオに映りたくないのは自然でしょう。また、普段そんなことしないのに「今回だけな何と言われても撮る」と言われて、妙に照れくさかったのです。(そんな経験ありませんか?)
シンジの「ケンスケによろしく」は、シンジの決意の現れです。マイナス宇宙で、皆のケジメを後押ししたシンジは、ガイウスの槍で初号機を貫こうとしました。ユイが役割を代行したことで、シンジは生還しました。が、あのユイの代行がなければ、シンジは犠牲になり戻ってこれなかったでしょう。「皆を助けるために全てのエヴァに決着をつける」という決意があったからこそ、もう会えないから、お世話になりました、ありがとう」と代わりに伝えてねとあの言葉を伝えたのです。
最後に、宮村さんと岩永さんのインタビューについて。実は、お二人のインタビューはどちらでも取れるのです。「そういう関係になっていた」のような、少しぼやかした表現が使われています。「アスカを頼みます」についても、「恋人(夫婦)として添い遂げる」と「しっかりと面倒を見てください」の二種類の解釈が可能です。アスカの拠り所として、アスカが幸せを感じる場所として、ケンスケを解釈したのだと思います。
浜辺のアスカ
ここまで長々と書いていましたが、アスカについてはもう一つ大きな話題がありました。それは、ケジメの最後で描かれた「浜辺のアスカ」です。
一瞬のことなので明確に覚えているわけではありませんが、明らかに身体的に成長したアスカが、旧劇のようなボロボロのプラグスーツに身を包んで横になっていました。
このアスカが、惣流なのか、式波なのか、はたまた、アスカそのものを表しているのか。
プラグスーツが一番の判断材料になりますが、明確に覚えていないので何とも言えませんね。
現段階では、アスカという存在そのものだと思っています。旧劇のシーンを用いたのは、旧劇のアスカに決着をつけるため。「ケンスケによろしく」といったのは、新劇のアスカに決着をつけるため。成長した姿になっていたのは、彼女の精神時間が進んでいたことを表現したのではと思っています。綾波は、髪が伸びまくっていましたし。
特に旧劇のシーンが採用されたことには、救われました。旧劇のアスカにも決着がついた、救済があったと感じれたからです。(新劇でもそうですが)TVシリーズ、旧劇では散々な目にあった上に、救われなかったアスカですから。気持ちはひとしおでした。
また、浜辺のアスカが、シンジから「好きだったよ」と言われて、赤面し、体を隠そうとしていたという感想を見ました。(私は見逃してしまいました)もし、そうだとすると、好意が完全になくなったわけでもなさそうです。
ケンスケがいたことで、親からの愛情を受け取る段階を一旦は終了しているアスカ。ステップアップして、恋人の段階に足を進めたのです。自分に追いつくように成長していったシンジを見て、惚れ直したのかもしれません。
“希望は残っているよ。どんな時にもね。”
(ヱヴァンゲリヲン新劇場版 : Q 渚カヲルのセリフより引用)
ポスターについて
最後は完全な妄想になるのですが、シン・エヴァンゲリオンのポスター。
左から、アスカ、マリ、シンジ、レイ、カヲルの順で並んでいて、「まあそういうことだよね」と思うんです。
が、ここで、写真を取るときを思い出してほしいのです。写真って、被写体とカメラが必要ですけど、もう一つ必要なものがありますよね?
そう、写真を取る人です。あの写真、誰が取ったと思います?
ケンスケが取っていたら、いいなと思いませんか?
最終決戦前は取られる事を嫌がっていたけれども、もう全てが終わったわけです。新たな物語を歩み始める。そこには、少し後ろ髪引かれる物があるかもしれないけれど、一つ成長して進んでいく。だから、自然な笑顔を向けることができたんじゃないかなと思うんです。
どうだろう?考えすぎかな?
シン・エヴァンゲリオンのポスター→初号試写会のポスター みたいにも見えるし、あながちありえなくもないかもしれません。
思いの丈を書き綴っていたら、いつの間にかかなりの長文になってしまいました。今回は一旦ここで区切りたいと思います。
ではでは
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