僕の選んだ『道のり』
オリジナル小説
プロローグ
田舎町にある小さな家の縁側からは、広がる田んぼの風景が一望できた。夕焼けが空を染め、風が穏やかに吹き抜ける。その風に乗せて、ひとりの少年がそっと歌い始めた。歌詞は覚えているわけではなく、即興のメロディがただ口をついて出るだけ。彼の名前は翔太。家族以外、誰も彼の歌声を本気で聞いたことはなかった。だが、翔太の歌声には何か特別なものがあった。
子供の頃、歌うことで得られる心地よさを知った翔太は、誰に教わるでもなく自然に歌を愛するようになった。だが、周りの大人たちにとって、歌うことはただの趣味でしかなかった。「歌じゃ食べていけない」と口を揃えて言われた翔太も、いつしか夢を見ることを忘れ、歌は心の中でひっそりと息を潜めていった。
それでも、翔太の中には消えない何かが残っていた。歌が人の心を動かす力を持っていることを、彼自身はまだ知らなかった。そんな彼に、運命の瞬間が近づいていた。
目次
プロローグ: 音楽への目覚め
初めての歌声
路上ライブの日々
小さなチャンス
上京への決意
路上での孤独
再び注目される瞬間
路上ライブの挑戦
無関心な通行人たち
歌を続ける理由
挫折と再起
小さな観客
拡散された奇跡
初めての注目
メディアの取材
テレビデビュー
オリジナル曲の誕生
大舞台への挑戦
世界への一歩
世界ツアーの始まり
新たな創造への挑戦
世界を旅する音楽
新しい音楽の風
心の交差点
最後のステージ エピローグ: 新たな音楽の始まり
初めての歌声
翔太が初めて歌を意識したのは、小学校三年生の時だった。クラスの音楽の授業で、みんなで合唱する時間があった。翔太は特に音楽が好きなわけでもなく、普通に歌うことを楽しんでいた。ただ、その日、何かが違った。
「翔太くん、ちょっと歌ってみてくれる?」
音楽の先生、佐藤先生が突然言った。翔太は驚いて、戸惑いながらもクラスの前に立った。
「え…僕ですか?」
「うん、昨日の練習のときにね、君の声がとても素敵だったから、みんなに聞かせてあげてほしいんだ。」
周りの視線が一斉に翔太に向けられた。翔太は少し恥ずかしくなりながらも、先生の指示に従って、ゆっくりと歌い始めた。曲は、子供たちがよく歌うシンプルな合唱曲だったが、翔太が歌うとそれがまるで別のものに聞こえるように感じた。彼の声は柔らかく、心地よく、教室中に響き渡った。
歌い終えると、教室は一瞬静まり返った。誰もが驚いていたのだ。クラスメイトの反応を心配していた翔太は、その沈黙に不安を覚えたが、次の瞬間、先生が笑顔で拍手を送った。
「素晴らしいわ、翔太くん!本当に綺麗な声だね。皆も拍手!」
それに続いて、クラスメイトも拍手を始めた。最初は恥ずかしがっていたが、やがて教室全体が彼に向けて大きな拍手を送っていた。
その瞬間、翔太は初めて自分の歌が他の人に影響を与えたことを感じた。それは単なるほめ言葉ではなく、心からの反応だった。彼の歌が何か特別なものを持っているのではないかという思いが、彼の胸に小さな種を植え付けた。
それからというもの、翔太は家に帰ってからも頻繁に歌うようになった。家の裏に広がる田んぼに向かって、誰もいない場所で風に乗せて歌を響かせることが、彼の新たな日課になった。学校では特に歌を意識していなかったが、家に帰ると心が解放されるように自然と歌が溢れ出してくる。
父親は農業を営んでいて、忙しい日々を送っていたが、翔太が庭で歌う姿を見かけると、時々小さく笑って言った。
「翔太、お前、なかなかいい声してるじゃないか。でも、歌じゃ食べていけないぞ。」
その言葉に翔太は軽く笑いながらも、心のどこかで引っかかるものがあった。歌うことが自分にとってどれほど重要なものになるのか、その時はまだ全くわかっていなかった。
やがて、中学に進んだ翔太は、ますます自分の声に自信を持つようになっていった。だが、それはまだ趣味の範囲内。歌を特別な何かと捉えることはなく、あくまで自分の楽しみだった。
そんな日々が続いていたが、やがて運命が大きく動き出す瞬間が訪れる。翔太にとって、歌が単なる「趣味」ではなく、人生そのものになる瞬間はすぐそこまで来ていた。
文化祭の奇跡
中学、高校と進むにつれ、翔太は歌うことが日常の一部となっていった。ただ、それはあくまでも「自分だけの楽しみ」であり、誰かに自分の歌を披露する機会はほとんどなかった。高校でも特別に目立つこともなく、歌に対しては謙虚で控えめな態度を取っていた。そんなある日、高校二年生の夏、運命の文化祭が訪れる。
翔太の学校では、毎年文化祭の一環として、音楽発表会が行われていた。クラスの代表者や部活動のメンバーがステージでパフォーマンスを披露する場で、例年大きな盛り上がりを見せていた。今年も様々なグループが参加する予定だったが、あるグループが突然出演できなくなった。音楽部の一部が体調不良で出場できないとわかり、急遽代役が必要になったのだ。
「翔太、お願い! どうしても誰かが必要なんだ!」
音楽部に所属する幼なじみの美咲が、慌てて翔太のところに駆け込んできた。彼女はこの文化祭で重要な役割を果たす予定だったが、メンバーの突然の欠席でピンチに陥っていた。
「俺が歌うなんて無理だよ、美咲。そんな大勢の前で…」
「そんなこと言わないで! 翔太の歌声、私が知ってる限り一番素敵だよ。皆もきっと感動するはずだから!」
美咲の真剣な目を見て、翔太は一瞬迷ったが、次第に腹を決めた。これが自分の歌を試す機会かもしれない。翔太はついにステージに立つことを決意した。
文化祭当日。体育館に集まった生徒たちや保護者の前で、翔太は深く息を吸い、ギターを構えた。観客席には、普段から顔なじみのクラスメイトや友達がいて、少し不安そうに彼を見つめていた。翔太自身、手の震えが止まらず、緊張が体全体を支配していた。しかし、美咲が後ろからそっと肩を叩き、「頑張って」と小さな声で囁いた瞬間、翔太の心は少し落ち着いた。
イントロが流れると、会場は静寂に包まれた。翔太の歌い始めた声は、最初は小さく、控えめだった。しかし、次第に彼の心がメロディに乗り、歌詞が感情とともに解き放たれるように体育館中に響き渡った。
「この声…本当に翔太が?」
最初はざわめいていた会場が、彼の歌声に引き込まれていった。彼の声には、聴く者の心を掴む不思議な力があった。それはまるで、長い間閉じ込められていた感情が解放され、自由に飛び回るかのようだった。歌い終わる頃には、会場中の空気は変わり、多くの生徒が涙を浮かべていた。
「すごい…」
誰かが呟いた。次の瞬間、大きな拍手が会場中に響き渡った。まさか翔太がこんなに素晴らしい歌を歌うとは、誰も予想していなかったのだ。
舞台裏に戻った翔太は、放心状態だった。緊張と解放感が混ざり合い、現実感がなかった。しかし、その瞬間、後ろから美咲が駆け寄ってきた。
「翔太、すごい!本当にすごかったよ!皆が感動してた!」
美咲の言葉を聞いて、翔太はようやく自分がやり遂げたことを実感し始めた。自分の歌が人の心に触れた、そんな感覚を初めて味わったのだ。それは今まで感じたことのない、言葉にできないほどの喜びだった。
「ありがとう、美咲。君がいなかったら、こんな経験できなかったかもしれない。」
翔太はそう言って微笑んだ。美咲も嬉しそうに笑顔を返す。
それからというもの、翔太は歌うことに対して新たな自信を持つようになった。そして、この文化祭での経験が、彼の歌の道を切り開く最初の一歩となることを、まだ彼自身は気づいていなかった。
田舎と夢
文化祭での成功から数日が経ち、翔太の日常は何も変わらないように見えた。だが、彼の心の中では何かが大きく変わっていた。今まで、歌うことはあくまで自分だけの楽しみだったが、この文化祭での出来事が、彼の胸の奥に眠っていた夢の種を目覚めさせた。
「歌って、こんなに人の心を動かす力があるんだ…」
翔太はその日以来、ひとりで家の縁側や田んぼのあぜ道で、ギターを片手に歌う時間が増えていった。風に乗ってどこまでも広がっていく歌声が、彼にとっては自由の象徴のようだった。しかし、同時に彼は心の中にある葛藤と向き合うようにもなった。
翔太が住む田舎町は、自然に恵まれた静かな場所だった。子供の頃からここで育ち、家族や友人たちとのつながりも深い。しかし、この町には音楽を本格的に学ぶ環境も、歌手になる夢を応援する人もいなかった。田舎での生活は安定していて、変わらない日々が続くのだが、翔太の心の中には次第に「もっと大きな世界を見たい」という思いが芽生え始めた。
そんなある日、父親と二人で夕飯を食べていると、父がふいに口を開いた。
「お前、最近よく歌ってるな。文化祭でうまくいったからか?」
翔太は少し驚きながらも、笑って答えた。「まあ、そうかな。あの時、歌うのが楽しかったんだ。」
「それは良かったな。でも、歌は趣味だぞ。お前もそろそろ、現実を考えなきゃならん時期だ。」
父の言葉には、農家としての現実が色濃く滲んでいた。翔太の家は代々農業を営んでおり、翔太が将来この仕事を引き継ぐのは当然のように思われていた。田んぼを守り、地域に貢献するのはこの土地に生きる人々にとっての誇りでもあった。
「そうだよな、分かってるよ…」
そう答えながらも、翔太の心には複雑な思いが湧き上がっていた。歌はただの趣味で、現実の生活は別のもの。それがこの田舎で生きる上でのルールだった。しかし、翔太の中で歌に対する情熱は日に日に大きくなっていた。父親の期待と自分の夢の間で、彼は次第に自分自身を見失いそうになっていた。
夜、翔太は一人で外に出て、満天の星空を見上げた。田舎では星がよく見える。それが彼にとっては安心感でもあり、同時にその広い空は、彼がこれから歩むべき道の象徴でもあった。ここで一生を過ごすのも悪くない。家族や友人たちと穏やかに生きる。それが普通の幸せだと頭では理解していた。
だが、心の奥底では、その普通の幸せだけでは満たされない何かがあることを感じていた。翔太は胸の奥にあるその小さな声に耳を傾けた。
「俺は、このままでいいのか?」
心の中で問いかける。答えはすぐには出なかったが、彼の心に新たな決意が芽生え始めていた。
翌日、学校の帰り道で、美咲と話す機会があった。美咲は翔太の唯一の理解者であり、彼の歌声に最初に感動した一人だった。文化祭以降、二人の会話は自然と音楽についての話題が増えていた。
「翔太、あれからどう? まだ歌ってる?」
「うん、まあね。でもさ…やっぱり現実は厳しいよ。父さんも、歌で食べていけるわけじゃないって言ってるし。」
翔太の言葉に、美咲は少し眉をひそめた。
「そんなことないよ。翔太は特別な声を持ってる。私、いつか翔太の歌をもっとたくさんの人に聞いてほしいって思ってる。だから、あきらめないで。」
その言葉に、翔太ははっとした。美咲は彼の夢を応援してくれていた。彼女の励ましが、翔太にとってどれほど大きな支えになっているのか、その時に初めて実感した。
「ありがとう、美咲。お前のおかげで、少し勇気が湧いてきたよ。でも、どうしたらいいんだろう。ここじゃ何もできない。」
「翔太、思い切って上京してみたら?」
「…上京?」
美咲の言葉は、彼にとってまるで雷に打たれたような衝撃だった。上京するなんて、今まで考えたこともなかった。だが、その言葉は彼の心に強く響いた。
「東京なら、もっと大きな舞台があるし、翔太の歌を評価してくれる人もいるかもしれない。ここじゃ限界があるかもしれないけど、東京なら可能性は広がるよ。」
翔太はその提案にしばらく黙って考えた。彼にとって、東京は未知の世界であり、恐怖もあった。しかし、それ以上に、その未知の世界には無限の可能性が広がっているように思えた。
「…上京、か。考えてみるよ。」
その日から、翔太は本格的に自分の未来について考え始めた。そして、田舎と夢の間で揺れ動く心は、次第に一つの方向へと向かっていく。
家族の反対
翔太は、美咲との会話以来、頭の中で「上京」という二文字が離れなくなっていた。東京に行けば、今の自分よりもっと大きな可能性が広がるかもしれない。自分の歌が多くの人に届くチャンスがあるかもしれない。しかし、それは簡単な決断ではなかった。
田舎での生活は安定していた。家族や友人がいて、何よりも父親の期待を背負っていた。家の農業を継ぐことは、翔太が生まれてから暗黙のうちに決められていた未来だった。翔太にとって、父の期待を裏切ることは、容易な選択ではなかった。
「どうやって父さんに話すべきか…」
夜、寝床に入りながら翔太は何度も自問自答した。歌うことが好きで、夢を追いたいという思いは日に日に強くなっているが、それをどう伝えるべき
だろうかという悩みが頭を離れなかった。父親は厳格で、家業を大切にしている。自分の意思をどう伝えれば、父親が理解してくれるのか、翔太は答えが見つからないまま、眠りについた。
数日後、夕食の席でついにその瞬間が訪れた。いつものように食事が終わり、父親が新聞を読み始めたタイミングで、翔太は思い切って口を開いた。
「父さん、ちょっと話したいことがあるんだ。」
父親は新聞を少し下ろし、翔太をじっと見つめた。「何だ、翔太?」
その視線に圧倒されながらも、翔太は深呼吸をして、決心を固めた。
「俺、上京して音楽をやりたいんだ。」
その言葉が口から出た瞬間、食卓の空気が一変した。母親は驚いた表情を浮かべ、父親はしばらく沈黙したままだった。翔太はその沈黙が、どれほど重いものかを感じていた。ついに父親が静かに口を開いた。
「上京? 音楽をやる? 翔太、お前は家を継ぐんじゃなかったのか?」
その声には、怒りというよりも失望が含まれていた。翔太はその言葉を聞いて、心が痛んだ。
「わかってる、父さん。でも、俺、あの文化祭以来、どうしても歌を続けたくて…。ここじゃできないことが、東京ならできるんじゃないかって思うんだ。」
父親は新聞を机に置き、翔太に向き直った。「歌が好きなのはわかる。だが、歌で食べていけるのはほんの一握りの人間だけだ。夢を見るのは自由だが、現実を見なければならん。家族を支える責任があるんだぞ。」
その言葉に、翔太は反論したくてもできなかった。父親の言うことは正しい。夢を追うことは、家族に対しての責任を放棄するようにも思えた。しかし、それでも翔太の中で消えない強い思いがあった。
「俺…それでも挑戦してみたいんだ。たとえ失敗しても、自分の力で何とかやってみたい。それくらい、歌が俺にとって大切なんだ。」
父親はしばらく黙り込み、真剣な目で翔太を見つめていた。翔太もその目をそらさずに、父親の判断を待った。時間がゆっくりと流れる中、ついに父親は重く口を開いた。
「お前がそこまで言うなら、止めはしない。ただし、覚悟を持っていけ。俺たちの支えは期待するな。自分の力で道を切り開け。それができなければ、すぐに戻って来い。それでいいな?」
その言葉を聞いた瞬間、翔太の胸に熱いものが込み上げてきた。厳しい言葉ではあったが、父親は翔太の意思を尊重し、彼にチャンスを与えてくれたのだ。
「…ありがとう、父さん。俺、絶対に自分の力で頑張るよ。」
その夜、翔太は上京する決意を固めた。家族との絆は大切だが、それ以上に、彼には追い求める夢があった。そして、その夢に向かって、翔太は一歩を踏み出す準備を進めていった。
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