少しだけ、前へ
源頼朝が寄進したという苔むした石段は、崖のように急だった。
自然石を積んだ石段は已己巳己のように、一見同じだがよく見ると一段ずつ表情が異なる。
足を置きやすい石を選びながら、上へ上へ。
息が切れる。
和歌山県、神倉神社。熊野三山の神がはじめに降臨したという。絶壁の上の巨石「ゴトビキ岩」をご神体として祀る。
ふと振り向くと、くらりとした。足を踏み外したら死ぬかも。慎重に、夢中で、前へ前へ。
いつのまにか、日常のざらざらとした悩みも、どろどろとした感情も、消えていた。
木々の間から赤い鳥居が見えた。肩で息をしながら境内に入る。
そして、
目の前が開けた。市街地から海までを見渡す。
空っぽになったこころに、ふわりと海からの風が抜ける。
ゴトビキ岩はずっしりと鎮座していた。
数万年、数百万年。人間が体感できない時間軸。
わたしという存在の取るに足らなさ。
すぅっと息を吸い込んだ。大丈夫、だいじょうぶ。
大したことじゃないんだ。