・無意識下への働きかけはどのようにして行われるのか 「石原慎太郎死去」を報じる報道内容に見る「政治的利用」の例
・石原慎太郎氏死去に係る報道について
この国では死ねば誰もが「いい人だった」になる。相変わらずのこの「風習」は、状況次第によってはあまり好ましいものではない。
氏の死去にあたり、彼の偉人伝・武勇伝が喧伝されるが、その中で彼が改憲論者であったこと、現行憲法がいびつであり正すべきだという彼の発言、そして国のためにすべての国民が団結して尽くさねばならないという彼の言葉が放送された。
これは単なるいつもの偉人武勇伝ではなく、あきらかに「改憲をにらんだ世論誘導」の一つであると確信する。世論誘導、悪く言えば悪質な「洗脳」は、本当に誰にもその意図を意識させず、いとも無抵抗にその思想を視聴者の中に植え付ける。
彼の「輝かしい英雄伝」を見て、ほとんどの国民は無意識のうちに彼の言葉を好意的に受け止めるのではないか。そしてそれはつまり、彼の思想信条によって視聴者の思想信条もまた同じ色に染め上げられることを意味している。
この報道内容に対して報道関係者がどのような認識を持っているのかはわからないが、やはり現状この国の報道は完全に権力の広告宣伝装置になってしまっていることを再認識させられた。
・改憲に関する彼らの行動
「改憲に係る国民的議論の活性化」という言葉が聞かれるようになってもう何年も経つ。真に国民的議論の活性化を望むのであれば、本来は多角的な材料を大量にばら撒く必要がある。しかし現状彼らが行なっていることは「現行憲法はよくない、改憲が必要だ。」という、たったこれだけのスローガンをただひたすら繰り返すことだけだ。
つまるところこの国は「改憲ありき」で話を進めており、まず初めにやらなければならない「何が問題か、その原因は憲法なのか、ゆえに改憲が必要なのか、いや不要なのか」という「一番最初にやらなければいけない思考」の一切が削られている。
このような行いの一体どこが「改憲に係る国民的議論の活性化」に寄与するのだろうか。こんなものは「改憲に係る国民議論の活性化」ではなく、ただ単純な「改憲するのはいいことだという国民意識の醸成」だ。
上記のように人々の中に、人々が全くそうされているとは認識しないままにある思想や意識を植え付けていくことは、意外にも非常にたやすい。そしてこのような「無意識下の誘導」はありとあらゆる形をとって、ありとあらゆる場所に、それも相当数が仕込まれている。
いつかの自衛隊を取り扱ったテレビ番組で、若い女優(アイドル?)に「自衛隊は優しい軍隊」などというセリフを振った台本製作者が、果たしてどのような経緯でそのような台本を製作したのか非常に興味深い。優しい一個人の兵隊はいるかもしれないが、優しい軍隊などというものは存在しない。
・「石原慎太郎死去」を報じる報道内容に見る「政治的利用」の例
今回の石原慎太郎氏死去に関する、どれも代わり映えのしない同じような横並びの内容の諸報道を見て、このような行いの一材料として人の死すら利用する彼らの手法には、適切な言い方ではないが感心してしまった。
現政権はさしあたり、ともかくコロナ騒ぎで情報を埋め尽くして今夏に予定する参院選をどさくさのうちに終えてしまおうという、前回(は総裁選を利用したが)と同じ炎上選挙のことしか考えていないのだろう。しかしその次に来るのは間違いなく「改憲」である。
改憲の詳細や国防関連の話題については別途記事として作成する必要があるが、ともかくその改憲内容に関して、我々国民がしっかりと吟味せず、前回と同じような無為無関心の末の改憲が成されたならば、この国は本当にあと10年も待たないうちに決定的な局面を迎えるのではないかと強く感じる。
我々国民は、本当に今政治的関心をしっかりと持たなければ取り返しのつかない状況がやってくることを強く認知しなければならないと思うのだが、それは決して容易なことではないのかもしれない。それでも何事も成さなければただ沈んでいく船とともに海底深くへ沈没していくだけなわけで、我々はなんとしても、この選択に対して何かしらの行動を示さなければならない。
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