Introducing Eastern Orthodox Theologyの要約4 第一章3、4
神学へのアプローチ
par. 1
神学と呼ばれるものへの理解を深めるための事柄はいくつもある。神学への理解を深めるものとは何だろうか?どのようにして私たちはそれに接近することができるのか?
pars. 2
正教の伝統において神学的理解には何が含まれるのだろうか。1.聖書。2.シノドと呼ばれる伝統の解釈をめぐる議論を解決するための会議。特にそれらは全地公会とも呼ばれる。3.異なる時代や状況ごとに伝統を開示する教会の生きた声。それは、単なる人間の声ではない、神の恩寵によって鼓舞されて「真実の言を正しく伝うる」ことのできる主教品から聞くのである。4.教会の祈りもそうである。5.祈りの生活もそうである。修道士たちの生き方にはハリストスのいのちによって生きる生き様を見て取ることができる。ゆえに、彼らの生き方は権威を持つのである。6.聖人たちの生活。これも正教会の歴史において根本的な重要性を持ち続けているのである。
pars. 3
聖書の解釈学、教父神学、全地公会の神学、教会史と異端への反駁、位階制の役割、修道たちの立場や祈りの役割というように、これらはリスト化されうる。このリストはただのばらばらのレッテル張りではなく、手足のように有機的な関係性を示すものとなりうる。
キリストとの出会い
par. 1
これらの異なる諸要素を一つの有機体として見るためには二つの要素がある。一つは、全てはハリストスにつながるということ。聖書は最も信頼に足る、ましてや無謬の情報源ではない。むしろ、ハリストスが中心にあって、聖書は彼を証しするのである。聖書Bibleを聖典Scriptureとして読む者はハリストスとの出会いに開かれるのである。同じことが、聖師父の著作にも、教会史や公会議の歴史にも、聖人の生き方にも当てはまる。すべてはハリストスと出会うための方法であり、これを可能にするのが祈りなのである。祈りこそが、ハリストスの声を聴くことを可能にする。
pars. 2
このことは私たちを二つ目の要素へと導く。それは、神の神秘である。それは単なる知的な神秘ではなく、より深いものである。ハリストスとの出会いによって我々は内的な変容と根本的な痛悔へと開かれるのである。
pars. 3
修道女テクラは、修道院における内的な喊声、生きられていない事柄について議論することを拒否すること、そして自分の力のみで生きることの不可能性について語り、何度も痛悔して、人ではなく神に向き合うよう説いた。この神学観、つまり神学は体験に根差したものであるが、その体験は我々の範疇を越えており、常に神と再び向き会うために痛悔へと引き戻されるという神学観は、正教の神学的体験、つまり神を知ることの体験の中心をなすものである。
pars. 4
ここで、二つの要素elementsに加えて、二つの次元dimensionsを見出すこともできる。それは、神の前に立って聴くことと、神の前に立って話すことである。私たちは、ハリストスの体の一部、つまり教会の一員として、ハリストスの声を聞き、ハリストスの声でもって応えるのである。これは、ハリスティアニンが聖詠を用いて祈る際に明らかである。また、それは聖書でも同じことである。私たちは聖書を聞くと同時に、聖書は私たちに神に呼びかける際の言葉を与えてくれるのだ。