Introducing Eastern Orthodox Theologyの要約7 第一章 7
聖師父、会議、奉神礼での祈祷 The Fathers, Councils, liturgical prayer
par. 1
聖書に加えて、聖師父、会議、教会での祈祷といった「権威」についても言及しなければならない。聖師父を無謬の権威とすることは問題外である。聖師父たちの意見は互いに多くの事柄において食い違っており、その違いを均そうとすることには注意が必要だ。聖師父たちの言葉は薄っぺらなユニゾンではなく、豊かなハーモニーである。
pars. 2
会議やカノンについても同じようなことが言える。それは特定の目的のため、特定の文脈において会議で決定されたものである。それらをすべて列挙しても現代の諸問題への詳細な手引きは得られない。正教会の思想家たちには、カノンは却って創造的に福音を生きるための自由に開かれているという者もいる。
pars. 3
聖書に次いで重要なのが、祈祷文と聖歌である。それは我々を聖なる神秘の体験へといざなう。例えば、生神女就寝祭のコンダクkontakionはどんな教理的な定義よりも祭の意味に我々が近づくことを可能にする。
祈祷に眠らざる生神女、轉達に変らざる倚望なる者を、柩と死とは留めざりき、蓋永貞童女の胎に入りし者は彼を生命の母として生命に移し給へり
生神女就寝の神秘はいのちを施す轉達(執り成し)の神秘である。いのちは死を打ち破り、生と死の間の壁は打ち破られたのである。
pars. 4
パウェル・フロレンスキー著『真実の柱、真実の土台』The Pillar and Ground of the Truthより
教会のいのちとのい一致やそのいのちを知ることは、抽象的な仕方によってでも、合理的な仕方によってでもなく、ただ生きることを通してのみ達成される。それでも、もし教会のいのちに概念を当てはめるとすれば、もっとも適切なのは、法的なものでも考古学的なものでもなく、生物学的、美的なものである。教会性ecclesialityとは何だろうか。それは新しいいのちであり、聖神におけるいのちである。このいのちの正しさの規準とは何だろうか。美beautyである。そう、美には論理的な公式によって把握されえない、特別な精神の美があり、それは同時に何が正教で何が正教でないのかを定義するための唯一にして真実の道なのである。
スタルツィстарцыは、この美に対する慧眼を備えた長老であり、聖師父たちが修道と呼んだ「技のなかの技」art of artsの達人である。スタルツィは精神的いのちの質を評価することに熟達している。正教の味わいや、特質は感じられるものであって、数学的な計算の対象ではない。正教は示されるのであって、証明されるものではない。ゆえに、正教を理解するための方法は一つしかない。正教徒になって正教を直接体験することである。正教の道に生き始めるためには、自身を一気に正教の要素のうちに浸さなければならない。それしか方法は無いのである。
Pavel Flarensky, trans. Boris Jakim, The Pillar and Ground of the Truth: An Essay in Orthodox Theodicy in Twelve Letters, Princeton, Nj: Princeton University Press, 1997, pp. 8-9.