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Introducing Eastern Orthodox Theologyの要約5 第一章 5

聖典 The Scriptures

par. 1
 いかにして正教の伝統において聖書を解釈するか。正教の聖書解釈は他教派、及び学者のそれとどう異なるのか。聖師父たち、会議、祈祷の役割は何なのか。

pars. 2
 私たちは福音書を読むだけではなく、それを崇敬する。福音経は小聖入の際に持ち運ばれたり、イコンで装飾された装丁がなされているが、これは表面的なことなどではない。なぜなら、福音経はハリストスのイコンだからである。ストゥディオスの聖セオドロスSt Theodore the Studiteは福音経が「インクで書かれた」ものであるのに対し、イコンは「金で書かれた」ものであると言った。ということは、ちょうどイコンが描かれたものへのアクセスを可能とするように、福音経もまさに福音経であるもの=ハリストスへのアクセスを可能にすると言える。確かに解釈されるのはインクで書かれたものであるが、福音経が重要なのは、それがハリストスを開示するからである。

pars. 3
 正教の聖書への取り組み方は「インクで書かれたもの」としての次元とハリストスの開示という二つの次元の均衡を保っている。聖書の書かれた時代背景や異読を含む多くの写本の存在を考えれば、学術的な取り組みも重要だ。

pars. 4
 しかし、学術的な取り組みはオリジナルのテクストと意味の確立を志向しているために、時に不十分である場合もある。というのも、聖書はただそれかが書かれた当時の文脈だけに属すのではないからだ。それは何世紀にもわたって読み継がれてきたのである。
 正教徒が福音経を崇める時、それは今この時に属すと考えられている。生きて今の私たちに語り掛けてくるテクストを扱っている、という認識があって初めて学術的なアプローチを考慮することが可能となる。

pars. 5, 6, 7
 例えば聖詠は、様々な時代の個々の作者に帰せられる詩の集まりだが、同時に神殿での礼拝に用いられる宗教的な詩の集成でもあった。聖詠は神殿での奉仕と結びつき、人々が自らの関心をその奉仕と結びつけるのを助けた。
 聖詠経はキリスト教会でも歌集となった。それは、ある文脈において特定の詩を用いることから、全体を20のカフィズマkathismataと呼ばれる部分に分けて通読すること至るまで、様々な仕方で用いられている。
 聖詠の様々な用法を考えてみると、特定の詩の意味するところはもはやその作者が本来意図したことに限定されない。それは他の解釈を退けることはないのである。

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