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正教会における教理とは(クレマン『東方正教会』pp.57-8より)

教理-感動、体験、神の賛美

par.1
 教理は、信仰の定義としては不完全。感動、体験、奉神礼における神の賛美という三つの観点から把握されなければならない。

pars. 2
 定義とは、ある実際的な必要に迫られて、既に自明の事柄が間違った方向に進まないようにすることを目的としている。したがって、教義は、主との交わりや、神の賛美を知的に「限定する」もの。

pars. 3
概念的に神をとらえることは、神の偶像をいくつもつくることであり、これにたいして感動こそがなに物(者)かに肉薄してゆく (ニッサの主教聖グリゴリイ335-395)

教理で神をとらえることはできない。むしろ教理を通して、神が我々をとらえる。東方キリスト教の教理神学の特徴は否定神学であり、それは知性が恩寵により神に捉えられることを期待すること、もしくは恩寵の光に浴して、それをたたえることである。

否定を通して認識を深めてゆくことが、神とは異質の存在のわれわれにできる唯一の認識方法である。(中略)しかし、恩寵の光に浴したものは、この全体的な否定を心に思いうかべながら、恩寵の光をたたえる。この神秘的な光明のなかに身をおくものは、この光がすべてを絶対的に超越していることを理解するであろう(グリゴリイ・パラマ1296-1359)

pars. 3
 教理とは決定的な体験の原理、聖神の光にあふれた明証性の原理を言い表したもの。神秘と神学の間にはいかなる対立もない。「真に祈るものが神学者なのである」。神学的な認識とは、認識主体が存在論的な変化を遂げて、聖成されること。認識することとは、「何か」とともにあって、神の存在の光の中で、自ら生まれ変わること。重要なことは、信仰や戒律の遵守、「清らかな祈り」などを通して「神をじかに感じること」である。「神をじかに感じること」によって、初めて人間は絶対確実なところに身をおくことができる。教理はそれを教唆し、そこに近づけようとするに過ぎない。

pars. 4
  正教会の教理には神を賛美する性格がある。これは奉神礼本来の性格でもある。これは教理が、実際的・実践的な面を持っているからである。教理は聖歌やイコンのかたちをとることもあり、ゆえに教理を奉神礼から切り離すことはできない。

pars. 5
 各人がそれぞれ奉神礼を内的に体験し、神と一体化するとき、教理は人々を沈黙に導いてゆく(「道ひ難き言、人の語る能はざる者」コリンフ人後書12:4参照)。

信経は、それを体験しないかぎり、あなたのものにはならないであろう(モスクワのフィラレート1782-1867)

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