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Introducing Eastern Orthodox Theologyの要約6 第一章 6
正教会の聖書の使用 Orthodox use of the Scriptures
par. 1
正教世界において聖書はいかに解釈されているか、ということについて明確な共通見解を述べることはできない。ギリシアやロシアの神学部における聖書へのアプローチの仕方は、西方のカトリックやプロテスタントのそれとあまり変わらない。正教会では、教父学的な解釈も重要ではあるが、聖書の奉神礼的な使用が第一優先事項である。
pars. 2, 3
実際どのような原則に基づいているかは不明だが、奉神礼における聖書の読みは明確に何らかの注意に基づいて編まれている。
聖書の読みは復活祭の日、使徒行実とイオアン伝から始まる。それは聖神降臨の日まで続き、それ以降は聖使徒パウェルの書とマトフェイ伝の読みへと移る。その後、大斎前までパウェル、イアコフ、ペトル、イオアン、と読まれていく。大斎の際には、福音経の読みは週末のみとなる。平日の聖書の読みは旧約聖書が読まれる。また祭日の日には、その日と関連の深い聖書箇所が朗読される。
pars. 4
新約聖書は黙示録を除いてすべて読まれ、常に聖体礼儀と接続されている。ハリストスを記憶して聖体礼儀を祝うことと、新約聖書を読むことの関係は明確である。一方で、旧約聖書の読みは非常に限定的である。また、読まれる機会も基本的には晩課においてである。ビザンティン典礼において晩課は、創世記に見られるユダヤ的な伝統に従って、奉神礼の行われる日の始まりを祝うものである。それぞれの日の創造は「夕あり、朝あり」という仕方で行われる。晩課は新たな一日の始まりを期待し、旧約聖書はハリストスという明けの明星が昇ることを期待して読まれる。
pars. 5
さらに、旧約聖書はギリシア語テクストに則って読まれる。新約聖書はギリシア語の七十人訳に基づいて旧約聖書を引用した。そしてのちには、七十人訳はキリスト教徒にとって権威のあるテクストとなった。
pars. 6
2世紀になると旧約聖書をキリスト教徒の解釈から救うため、ユダヤ人によるいくつかの翻訳が生み出された。3世紀には、オリゲネスはいくつかの翻訳を集め、それを六つの枠に配置して、ヘクサプラHexaplaというテクストを作った。これは七十人訳以上に正確なテクストを確立するためではなく、旧約聖書の持つ意味の豊かさをつまびらかにするためだった。ヘクサプラにおいて集められたテクストは七十人訳にも影響を与え、それは聖師父たちの注釈や奉神礼で用いられる祈祷文に見て取ることができる。つまり、正教徒にとっては旧約聖書の「権威あるテクスト」というのは存在せず、むしろヘブライ語聖書が証言するすべてのことを探求してきた。
pars. 6
ギリシア語の旧約聖書は権威ではない。ギリシアで出版されたゾイZoeによる七十人訳聖書はテクストが祈祷書の言葉と一致するように修正されている。一方でギリシア教会は、それが、本来のテクストの確立を目指して奉神礼において重要な文言を省略してさえいるにもかかわらず、ラールフスRahlfsによる学術的な七十人訳を出版したのである。
pars. 7
正教会は聖書を無謬のテクスト群とは見なしていない。そうではなく、重要性において様々な証言の総体であると考える。ある個所は直接的にハリストスを証するがゆえに重要であり、ある個所は婉曲的に証しするので比較的重要ではない。また、それが教会の体験と結びついているかも、聖書箇所の重要性を判断する基準である。聖書にはヒエラルキーがあり、ある「形」を持ったものだ。福音経が中心にあり、使徒経がそれに次ぐ。そして旧約聖書がある。これらは一冊の聖書として纏められているのではなく、様々な祈祷書から抜粋され、聖歌や聖師父たちの言葉とともにある。聖書は、聖歌のような体験と密接にかかわる「形」を持っているのだ。