能動的な時間を
我が家では、夕食のときに撮りためたビデオを見ることが多かったが、最近それをやめた。
もともと金曜や土曜などゆっくり食事を楽しむときは、テレビをつけていなかった。
妻から平日もテレビをつけないでおこうと提案を受けて、実行してみると、食事の時間がより有意義になった。
(このところ、世界遺産・食彩の王国・ごはんジャパンなどの録画がHD容量を締め付けてきたので、録画もやめようかとも考えている)
家族での食事はとても貴重な時間だ。
食べ物と時間というとても大事なものを共有することができるからだ。
テレビをつけてしまうと、その両方の要素が薄くなってしまう。
テレビから絶え間なく情報が流れてくるから、誰もが食事に集中できないし、家族間の直接的な対話ができなくなる。
なぜこうなるかというと、テレビが注意をひくように作られていることと、僕たちが欲張っているからだ。
注意を引くモノを少し遠ざけ、僕たちが一時に一つのことしかできない不器用な存在であることを認識するだけで、受動的で虚しい時間をなくし、能動的で有効な時間を過ごせるようになる。
注意を引くモノたち
先程テレビを挙げたが、最近はスマホがその代表といって間違いない。
仕事や家事の時間を除けば、自分だけで自由に使える時間は2時間程度だ。
その2時間を有効に使いたいと思っても、「とりあえず」「ちょっとだけ」YoutubeやYahoo News、テレビ、昔読んだマンガなどを開こうものなら、あっという間に時間がなくなる。
能動的にしようとする勉強などと比較して、それらのコンテンツは僕たちを甘やかしてくれる。ほとんど何も考えずに刺激を提供してくれるからだ。指さえ動かせば、気を紛らわせてくれる。そのズブズブに優しくて刺激的なものは、僕たちを誘惑して常に注意を引くように設計されている。
それに抗うには強い意志が必要だ。
欲張って損する
ちょっと音楽でも聞きながら、レポートを仕上げようと思って、Youtubeを開くと当初探していなかった漫才を一本見て気分転換しようとしてしまう。
食事中にテレビを見ようとしてしまうのは、ビデオをせっかく撮りためているんだからといったサンクコストや、テレビで情報入手しながら食事や家族のコミュニケーションができればよいかというコスパ的考えによるものだ。
でも結局、ついでにやろうとしたYoutubeやテレビが勝ってしまって、当初やろうとしていたことはできなくなる。
能動的な時間のメリット
先程、気を引くものやコスパ意識でやろうとしていたことができなくなる、と書いたが、「やろうとしていた」ものというのは「やるべき」ものである事が多い。
食事は冒頭で述べたとおり、家族や友人が多くの物事を共有する貴重な時間で、相手と向き合うことを邪魔するテレビはないに越したことはない。
沈黙を恐れず、食べ物と相手に集中して、お互いのことを考えたり知る時間にすることは、お互いを尊重することだ。一方で、テレビをそこに挟むことはお互いを軽視することだ。
(もちろんすべてがそうではなく、ときに共通の趣味のスポーツを見るなどはいいと思う)
勉強は、まさにやるべきものの代表の一つだろう。
ここでの勉強は、最低限必要とされている知識を義務教育で身につけることも含まれるが、自分のやりたいと思っていることや興味のあることにむけたものを主に指す。
勉強、知識を得たり、自分で物事を考えることはとても大変だ。エネルギーを使うからだ。
それに時間と労力を費やすことこそ、人生のやりがいだと思う。
世界・社会に個人として向き合って、その中に深い興味を持って調べたり・創ったり、問題を解決しようとしているとき、活力が湧いてくる。
能動的に生きることは、エネルギーを使うけれど、やりがいや長い目で見ると自分の目指す姿・心地よい姿につながるだろう。