神々しい感覚
ときどき神々しいと感じることがある。
最近では、北鎌倉の建長寺のビャクシンの木を見た時だ。
自分とはスケールの違う大きさや力や時間を感じたくて、ときどきこの木を見たくなる。
自然美を前にした時の神々しさの感覚について、カントは以下のように定義しているそうだ。
巨木をみると、普段とは違うスケールの時間を想像する。
それが、神々しさの感覚とつながっているのだろうか。
宇宙の始まりについて、多くの人は考えたことがあるだろう。
ビッグバンによって始まったと言われると少し納得した気になるけど、じゃあその前は何があったのか?何もないって何だろう。もしかしたらその前にも何かがあったとしたらどんなものだろう。でも「その前の何か」の前には何があるんだろうか・・・・・
とてつもなく大きな流れを想像すると、不思議なぞわぞわした感覚に陥る。
人工物に対して神々しさを感じることもある。
トルコにある聖堂や、鎌倉や京都にある寺院には、特別な雰囲気が漂う。
「神」の意味があることを僕が知っているから神々しいと思う部分があるだろうが、「神」を信じて作り上げられたものに長い時間が加わることで、それは人間の営みを越えたものになる。
Googleの検索エンジンは、とてつもなく巨大で、長い時間の情報を持っているけれど、それに対しては神々しさを感じることはない。
それは、目に見えないという理由もあるかもしれないが、しょせん人間が作ったもので、経年で変化することがないからか。
神々しさとは結局のところよくわからない(とてつもない時間・空間を想起すること?)けれど、ときに神々しさを感じることはよいことだと思う。
目の前の仕事やこだわり、生きがいを遠くから眺めることができるからだ。
そして、思いあがった自分をいさめることが出来るからだ。
実は、そこらへんに転がっている石も悠久の時を経ている。
わざわざどこかに行かなくても、僕たちは自分を圧倒的に越えた存在に囲まれている。要は、気づくか気づかないかだ。
明日は、地面でも見てみよう。