自然と人工の違い
先日、ビオホテルに泊まった。
このホテルに泊まるのは二回目で、また泊まりたいと思っている。
宿泊する前は、ビオやオーガニックなんて金持ちが他を差別するために生み出した商業的なものだろうと思っていた。
実際に宿泊してみると、様々な種類の木で作られた床の感触、その時の旬の植物だけで作られた食事、資源を大切にしながらかまどを焚く体験、テレビのない部屋など、穏やかな楽しみに満ちていた。
夕食の時にワインを注文した。
そのワインは、自然に近い状態で栽培されたブドウを、人工的に温度を調整することなく自然の温度変化の中で発酵させたものだった。
飲んでみると、不思議と味噌や醤油のような味がした。
宿の方曰く、日本の風土で自然に任せて栽培・発酵させると和食似合う味になるそうだ。
とても納得しながら、そういえば、どこまでが自然でどこからが人工なのだろうか、という疑問がわいた。
結論としては、自然は常に不足しながら変化を続ける生きたシステムである一方で、人工は外部に影響されずそれ自体で安定なものといえるのではないかと考える。(ここからは主題からそれるが)そして、今後はそれらをうまく混ぜて、他の生き物を含めた次世代に世界をつないでいく必要がある。そのためには、企業・個人が変わらなければならない。
辞書の定義
じん‐こう【人工】
自然の事物や現象に人間が手を加えること。また、人間の手で自然と同じようなものを作り出したり、自然と同じような現象を起こさせたりすること。
し‐ぜん【自然】
1 山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの。
2 人間を含めての天地間の万物。宇宙。
3 人間の手の加わらない、そのもの本来のありのままの状態。天然。
4 そのものに本来備わっている性質。天性。本性。
Weblio辞書によると、上記の通りだ。
人間の手の加わったかどうかということが自然と人工の違いとなっている。
日常的に語られる自然と人工
辞書の定義の「人間の手が加わる」を厳密に捉えると、地球の表面にある多くの部分は人間の手が加わっている。
一方で、日常的に「自然はいい」「自然と人工は違う」というときには別の要素もあるはずである。
自然と人工の対比について、少し拡大すると以下の対比ができるであろう。
自然ー人工
木ープラスチック
鬼ごっごーTVゲーム
キャンプーグランピング
また、それらを抽象化すると、以下の対比もできる。
不足・知足ー過剰・不満
変化・流動・循環ー安定
全体ー個
生ー死
アートーロジック
多分に僕の偏見も入っているだろうが、自然は常に不足しながら変化を続ける生きたシステムである一方で、人工は外部に影響されずそれ自体で安定なものといえるのではないか。
自然・人工それぞれの特徴
自然は環境に適応するシステムであるため、不安定だが、現時点で人間にはなしえない複雑なものを作ることが出来る。
例えば、先述のワインもそうだろう。土着の酵母などの微生物が自然環境に合わせて発酵する。そのプロセスは、人工的に安定的な味を作るためにブドウや菌や温度を制御するものと比べると圧倒的にプレーヤー数が多い。
人工は決して完全な悪ではない。先人の知恵や科学技術によって、多くの人が生きられるようになった。僕も間違いなくその恩恵をあずかっている。
安定的な食糧の生産と供給、富の蓄積で少なくとも世界の一部は、安心して快適に生きれる状態になっている。
だからすべてが自然になればいいというわけではない。すべてが自然になると、多くの人が生きられなくなる。今のように安価にモノが手に入らなくなる。余剰の時間が無くなる。
SDGsはよくできている。
だが、グレタさんの言うように、私の勤める会社含め、多くの企業は未だに、サステナビリティ≪≪経済だろう。二項対立で右向け右とどちらかを全否定するのでなく、変えていくことが必要だろう。
その中で、僕はほかのnoteでも書いている通り、個人が広告や流行から解放されることが重要であると考える。