わたしの美しき人生論 第二章第4話「万人の死の上の塔」
〈塔〉
ユハには、死の記憶があった。
正確にどのように死んだのか、具体的なことはなにも思い出せないけれども、たしかに自分の精神が肉体を離れていく瞬間の痛みや絶望を思い出すことができた。
そして明朝にもまた、全く同じ悲嘆を味わった。
太陽がのぼるころ、窓いっぱいに金色の強い陽光が差し込み、ゆくりなくユハは目が覚めた。
首元にしめったひりひりとした痛みが走る。目線を下に落とすと、自分の足がぶらんと垂れているのが見える。ユハは夜のうちに首を吊り、そのまま覚醒したのだった。床に酒瓶が転がっていた。
なぜこんなにも喉元を締め付けられ、呼吸さえもできていないのに、自分がまだ意識を持ち生きているのだか、ユハは不思議だった。
すると寝室の扉が開いた。あいかわらずノックもしないで、不躾な美貌の女小間使いのニッキが入ってきて、
「朝餉のお時間ですわ」
と、首を吊っているユハに向かって言った。ユハは呼吸絶え絶えに、涸れた声で、
「ねえ、なんで私は生きてるの」
「よりにもよって神が自ら死になさることなどできないからです」
ニッキは赤ん坊をあやすことに疲れた母親のような虚ろな目をして、
「できるはずがありませんもの。あなたさま、夜中に酒、酒、っておっしゃって、わたくし、夜中に市場まで酒を買いに走りましたのよ。ほんと、寝穢いお方ですこと。椅子に座ってはやくお肉を召し上がってくださいな。鳥を捌いてポルト酒漬けにいたしましたわ」
「私は死ねないの?」
縄が首を食い込み、ユハはまた気を失いかけそうになる。
「神は死なないから神ですのよ」
ニッキは食卓から椅子を引っ張ってきて、梁にひっかけた縄を紐どき、ユハを床に下ろした。
鏡を見ると、首まわりに怪物に咬まれたような赤い跡がついていた。
ユハはゼエゼエと咳き込みながら、半ば身体を引きづるように居間に向かい、食卓について、フォークで陶磁器の皿の上の死んだ小鳥をつっついた。
窓の外をぼうっと眺めていると東のほうに大きな塔が見えた。
塔は今まで、ずっとそこにあったのかもしれないが、自分はこのところずっとうつむいて、死ぬことばかり考えていたので、気づくことができなかったのか、と、ユハはワイン漬けの鳥を口の中に押し込みながら考えた。
「あの塔は何?」
「え?」
ニッキはキッチンに立って野菜のスープ鍋を掻き回し、振り向くこともなく応えた。
「あの東の塔のことですか」
「そう。なんだか鉄塔のように見える」
「誰も知りませんわ。あそこは国の領土ではありませんもの」
「え?」
ユハは思わず声をうわずらせ、ニッキのほうへふり返って、
「領土じゃないって?あんな近くが外国だってことなの」
「知りませんわ」
ニッキは本当にてんで興味がないといったふうに、
「そういわれているからそうだと思いますわ」
「あんたって本当に何も知らないんだね」
ユハはニッキの縫ったタフタ生地の白いパジャマを脱いで、真裸になると、外行きの服に着替えた。これもニッキが市場で生地を買ってきて一からこしらえたモスリンのシュミーズドレスで、ユハの愛らしい顔によく似合っていた。ニッキには出来ない家事がないといえるほど、生地の断ち方まで美しく仕上がっていた。
「図書室に行くしかない。ここのことを何も知らないし、自分がどうしてここにいるのか、すこしはわかると思う。あたし、図書館に行くから、お昼ご飯はいらないからね」
ユハは銀食器を投げ捨て、足音を大きく立ててながら玄関へ走って行き、天火のなかのような蒸し暑い外へ飛び出していった。