見出し画像

わたしの美しき人生論 第二章2話「憂鬱な少年たち」

〈嫌われ者のサマー〉 
 年末が近づく師走の日、城下町は爆ぜるような太陽に照らされていた。
 士官学校に預けられた少年たちは汗ばみながら、中庭や食堂で午の休みをとっていた。
 サマーズ伯爵家唯一の正妻の嫡子、クリステン・サマーズは久々に戻ってきた街の雰囲気の変わりように飲み込まれないように、深呼吸をした。一、二、三。そしてアイロンをかけた制服の襟をただし、ボタンが外れていないか、革靴の紐が緩んでいないか確かめ、また歩き出した。
 寄宿舎の離れ、学校の敷地の東側は茂った森が数エーカー広がっている。ほとんどの生徒は知らないが、その森を少し進むと、小さなガラス張りのドーム型温室がある。ずっと放置されていたが、エイベル皇子が入学した際に教区長から寄贈され、今は彼の執務室代わりになっている。
 スモモの木が咲き乱れ、ハコヤナギの並木が風に揺れる。温室のそばには池があり、緑色の水面がわずかに波打っている。スイレンの花が洋々と花開き、池のまわりのヤグルマソウのあいまで野良猫が日向ぼっこしている。
 ほんの幼い頃、母が女神の話をしてくれたことがある。女神が来れば世界はなにもかも変る。それがどのような変化であろうと、わたしたちにはなすすべがないのよ……。 
 温室のそばで古い木製のハイローチェアに座っている男がいる。男は熟れたメロンにブランデーをかけて一心不乱に頬張っていた。クリステンは男の前まで歩いていくと、
「ブルート」
 炯眼の少年、ブルート・へイルデインは一瞬驚いたように目をひらくと、ブランデーの小瓶を地面に置いて、皮肉っぽく口の端を上げた。
「おまえまで来たか、クリステン」
「昼から酒か」
「説教はやめろよ」ブルートは見せつけるようにブランデーを一気に飲み干した。
「酒くらいすぐ手に入る。みんな口うるさい親元から離れてきてんだよ」
「別に……説教するつもりはない」
 クリステンの翡翠色の瞳の先は地面の上を歩く蟻。メロンの食べ残しに群がる蝿。ブルートは吐き捨てるように言った。
「相変わらず辛気臭いツラしやがって。おまえを見てるとむかむかする。この数年忘れていられたってのに」
「……皇子は中に?」
「ああ」
ブルートは温室のほうを見やって、
「この植物園がエイベル様の執務室だ」
「午前の間にネイヴ様からあらかたのことは聞いている」
「またお前と同じ仕事か。昔みたいに鞭でぶたれるだけの仕事じゃない……女神がいる今ではな」
 ブルートは大きくげっぷをした。クリステンは、彼がわざとそうしているのだ、とすぐにわかった。ブルートはへイルデイン公爵家から、クリステンとともに皇子の小姓として、皇室で育てられてきた。ブルートは親元で許されなかった、街で見かける貧乏人たちの粗野なふるまいを真似ているだけだ。反抗期か、あるいは、自分が今この地位にいられるのはただ血のためではないと誇示するためか。
 クリステンはブルートから目をそむけた。
「入ってもいいか」
「いいんじゃないか。お前は皇子に好かれているしな」
「俺がいなかった数年のあいだ……皇子は変わりないか」
 ブルートは首をふった。
「女神が降臨した日、皇子ははじめて箒で飛べた。だが、それ以外なにも好転しなかった。魔法の力が多少強くなったが、ほかの状況は変わりない」
「そうか」
 ブルートは空を仰いだ。大きな鴉が集団で旋回している。雨雲が太陽を覆い尽くそうとしている。クリステンは突然気温が下がったことに気づく。日向ぼっこしていた野良猫の姿はもうない。鬱蒼とした森にひんやりと暗い風が吹きすさぶ。
「俺の剣で皇子の敵を殺すことはできる。だが、皇子の魂までは救えない。俺は死にたいなんて思ったことがないから」

〈青き血の苦悩〉
 エイベル・フォン・シュルトハイスは大きく息を吸う。薔薇、西洋躑躅、木蔦、白芙蓉、腐葉土の匂い。温室のなかの花のほとんどはエイベル自らが育てたものだった。突然の春の訪れによってほとんどの花はもっとも美しい時期を迎えていた。
 温室のなかに置かれたマホガニーの机の上のオプティマラの鉢をどけると、安全ピン、銀のコイン、雨花石。大小さまざまな宝石。エイベルは体の筋肉の硬直がとけるような安堵感に包まれる。
 午前の授業が終わって(といっても、ここ数週間は授業らしい授業は行われなかったが)温室へやってきたとき、煙草の匂いがぷんと鼻をついた。エイベルはすぐに、キリーヌ・リリエンタールが吸っている煙草の銘柄だと気づいた。あの双子は陰湿にも、この小さく穏やかな借家ですら、自分を落ち着かせてくれない。
 しかしエイベルはそれをブルートに伝えることはなかった。リリエンタール家はかつては一商人の家だったが、数代前に貿易業で財を成し、今では政治に口出しするほどの豪商となっていた。爵位ですら金で買った一族は恐れるものがない。皇帝は彼らを嫌い、花瓶に生けられた一輪のユリの花でさえも憎んだ。やつらは金貨によって青き血まで盗むのだ。
 大丈夫、大丈夫。煙草の匂いはいつか消え去るし、双子だっていつの日にか、ともに国を良くする友になれる。信じることが大事なんだ。皇子は腐葉土の下の大量のビー玉や、ざらざらとした鉱物のことを考える。
 温室の扉が開いた。かつて……そして立場上はずっと従者であるクリステンだった。エイベルは思わず机から立ち上がり、クリステンに駆け寄って抱きしめた。
「クリステン!帰ってくるなんて」
「手紙の一つもお送りできず、申し訳ありません」
 クリステンは皇子になるだけ触れないように軽く抱き返した。
「あまりに急のことでしたから」
「外にブルートがいただろう?また三人でいられるんだね。ブルートも喜んでるよ」
「いいや……」クリステンは下を向いた。「俺は嫌われ者ですから」
 エイベルはクリステンの腕を掴んだまま、泣きそうな顔を浮かべた。クリステンはエイベルより一つ年下だったが、ずっとエイベルより背が高かった。しかし久しぶりに会うと、背はわずかにエイベルのほうが高くなっていた。エイベルは若くたくましく、そして美しい青年になっていた。
「君は優秀で……僕が生まれたときからずっと親友だ。ブルートだってそう思ってる。どんなことがあっても、最後は打ち解けあえる」
 エイベルは昔からまるで訓示のような言葉を言う、とクリステンは思った。しかしそれを本人自身が信じられていない。だからをするのだ……
 クリステンは鞄からいくつかの手紙を取り出し、エイベルに手渡した。「皇子宛の手紙のいくつかが、教会に届いていました。教区長様から手渡すように言われました」
「ああ、ありがとう」
 エイベルはクリステンに見られていることも気にせず、その場で封を切った。
「シャペイ辺境伯夫人からだね……モーラをもっと守ってやらないと。キリーヌたちのいたずらは度が過ぎるときがあるからね。……これは、」
 エイベルの顔から一瞬血の気が引いた。
「ヴィンゴルヴ家からだ……」
「……フィンブルが行方不明だそうです。もしかすると、この街へ来るかもしれません」
「いいさ。誰が生徒になるかは僕が決めることじゃない。教区長様がおゆるしになるなら、ぼくたちはみんな級友だ」
 エイベルは17歳の学生である以前に、皇帝の長男として生まれ、いずれこの国の王になる運命のもとにあった。王であることは、すべての臣民の父であることだ。貴族同士の揉め事に注力し、内紛が起こらぬよう常に人々の瞳のなかを覗き込んで、みなの欲望を満たすことに東奔西走する。しかしその努力は知られてはならない。王は常に、何もしていない、という顔を示しながらも、すべての問題を解決し、決して侮られてはならない。毅然としていること。迷いや不安を見せぬこと。それはエイベルが生まれた日から、召使や官吏たちの訓練によって、彼の身体に染み付いた反復運動だった。
 クリステンはつかつかとエイベルの執務机に近寄ると、鉢植えを取り上げた。エイベルが溜め込んだ石やコイン、ピン。縫い針。
「……」
 エイベルの生来青白い顔がますます青くなるのがわかった。
 クリステンは黙って机の上のそれらをポケットにしまいこんだ。そして温室の扉の取っ手に手をかけ、エイベルの目を見つめた。青い瞳と緑の瞳がお互いを見る。
 あの日……クリステンが「嫌われ者」になった日のことを、お互い黙っていても同時に思い出していた。
「……女神が現れたんです。もう憂鬱の日々は終わりですよ。そう信じてください」
 クリステンは扉を閉めて立ち去った。
 エイベルはアゼリアの花のほうへ走ると、取り憑かれたように土を手で掘り返した。爪の間に土が入り汚れることもいとわなかった。 ハムスターのように溜め込んだ大量のビー玉がカチカチと擦れる音がする。皇子は一つ赤いビー玉を手に取ると、目を閉じてぐっと飲み込んだ。もう一つ、また一つ。ぶしゃっと鼻血が飛び散る。アゼリアの花弁が鮮血で染まる。
 鴉の声がうるさい。なぜ温室のなかまで聞こえるんだ。いや、自分の耳の奥底で鳴っているのか?
 あの日も同じだった。乳母が死んだ日も、母が死んだ日も。誰も涙を見せなかった。王女の母ですら葬儀は行われなかった。服を脱がされ、宝石まで奪われ裸になった母が、乳母が、ただ土の中に放り込まれるのを見ていた。   
 この国では、女神以外の女には価値がない。王女ですら路傍の石ころと同じだ。エイベルは母が嫌いだった。しかし母の死に顔を見て……
   そのとき、大鴉が鳴いた。Nevermore.悪魔の目をした鴉。その鴉の顔は……たしかにあの女神ユハだ。彼女はにやにやと卑しい乞食のような笑みを浮かべて鳴いた。

兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。

だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。

いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

テサロニケの信徒への手紙一 5章14~18節

いいなと思ったら応援しよう!