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炉に投げる石

「生まれた時から不幸面のやつっているじゃん。わたしは不幸な運命に生まれたんだって顔してるやつ。むかつくんだよね」

 下北沢に来てから三日経った。わたしは会社をずる休みして東京にやって来て、下北沢でシェアハウスしていた。
 久々に羽が伸ばせると思って新大阪から新幹線に飛び乗ったのに、あいにく東京は雨続きでどんよりしていた。まだ十月だというのに底冷えする天気だった。  
 わたしは下北沢の駅を降りて商店街をまっすぐ歩き、「ちょ美ひげ」という店を左に曲がってローソンを通り過ぎたところにある、シーシャ屋に居着くことに決めた。どこにも行きたい場所はなかったし、雨はなにもかもをぼんやりさせて、どこにも行かせてくれなかった。
 店長のリイドさんは寡黙で、いつも眠そうな顔をしている。あるとき、リイドという名前は本名なのだと教えてくれた。平山 理威都。リイドさんは鼻にピアスを開けていて、けれど絶対触らせてくれなかった。わたしが触ると血の臭いがするから、と言った。わたしはその日、生理だった。
 店員には、ミキという女がいて、こめかみに立ち上る龍のタトゥーをしていた。昔ね、付き合ってた男が彫り師だったの、でも別れちゃったから、このタトゥーもう要らないわね。
 店内は座る席が「ロ」の字に作られているだけで、「ロ」の隙間にシーシャが立てられた。「ロ」の右上にトイレがあった。
 リイドとミキのシーシャ屋で、わたしはいつもダブルアップルリコリス味のシーシャと熱いチャイティーを注文した。
 音楽の趣味はあまりわたしには合わなかった。だから私はiPhoneで自分の好きな曲を聴いたり、外国人の客としゃべったりしていた。
 わたしはその日もシーシャ屋にいて、ダブルアップルリコリスのシーシャを吸い、チャイを飲んでいた。村下孝蔵の「初恋」を聴いていた。死んだ父が一番好きだと言っていた歌、父は離婚した母にまだ恋をしていたのだった、それは馬鹿げているかもしれないが、彼は死ぬまで、私を育児放棄して遊びほうけていた母を愛していたのだった。そして先日、父は交通事故で死んだ。わたしは仕事に身が入らなかった。そして東京にきた。
 「初恋」の二番にさしかかる頃、若い男性二人が客としてやってきた。一人は髪にワックスをべったりつけた黒髪のガタイのいい男で、もう一人は細身で白いパーカーを着、灰色のキャップを被った男性だった。私は一目で白いパーカーの男を、いいな、と思った。いいな。それだけだった。運命の人だとは思わなかったし、そうなることも生涯ないだろうと思った。それほどまでに簡単に出会ったのが、彼だった。
 大柄の男と彼は大学の同級生らしかった。彼はあまりしゃべらなかった。リイドさんがメニューを訊ねに行った際も、適当で、と応えた。わたしはそれが苛立たしかった。もう少し彼に具体性があればと願った。具体性。それは生きている人間が最も必要なものだ。具体性の無い人間は、生きていても、棺桶に足をつっこんでいるようなものなのだから。
 私は彼と向かい合う席に腰を下ろしていた。わたしは彼に話しかけた。
「いくつ?」
「21」
「あたしと一緒。ふふふ」
 おかしくもないのに笑った。笑いは本来攻撃的なものだと、なにかに書いてあったのを思いだした。彼は何も言わず、シーシャを吸った。私はそれに腹が立った。もっとわたしに興味を持ってほしかった。それは本能に近い感情だった。アディクションのアイライナーで囲んだ瞳、RMKのファンデーションで塗った肌、MACで色づけた唇。それらに興味を持ってほしかった。破壊的ともいえる衝動だった。
「あなたってかっこいいよね」
 彼は目をぱちくりさせて、それから、興味無さげに「そんなことないですよ」と応えた。
「名前は?」
「シュウです」
「あたしはネネコ」
 ダブルアップルリコリスが炭を増やし咽喉をイガイガさせた。私は彼を、幽霊だと思った。けれども、私を通り抜ける幽霊だ。
 ミキが気の利いたことを言った。
「ネネコちゃんはシュウくんと話したいんだって」
「話すって」
 わたしは大いに笑った。幽霊と話すだなんて馬鹿げてる。彼には何もない、知性も教養も、そして具体性も。
「じゃあ、連絡先、交換していいですか?」
 ミキのメンツを潰さないため、わたしはシュウに話しかけた。シュウはしぶしぶといった風にiPhoneを取り出して、私とLINEを交換した。アイコンは未設定だった。
 わたしは席に戻り、勢いよくシーシャを吸った。イヤフォンをつけると、「初恋」はもう終わっていて、次の曲が流れていた。suchmosの新盤だった。

 その日の晩だった、シュウから「一緒に飲みませんか」とだけの、ぶっきらぼうなメッセージが送られて来たのは。
 私はあわてて下北沢から井の頭線に乗り込み、指定された渋谷駅のTSUTAYA前に急いだ。わたしは今夜、幽霊に抱かれるのだ、と思うと興奮した。幽霊に抱かれるってどんな気持ちだろう。頭の中はそれだけだった。どんな気持ちなのだろう、きっとひんやりしているだろう。彼には筋肉も脂肪もない、薄い皮をした身体を幽霊のように持ち合わせているのだろう。そして幽霊のように透明に女を抱くのだ。
 TSUTAYA前には既にシュウがいた。よく近くで見てみると、リイドさんと同じ箇所、鼻にピアスをしていた。それがなんだかおかしくて私は笑いそうになってしまった。
  シュウは疲れた顔をしていた。一仕事終えたような顔つきだった。
「バッグ、持ちましょうか?」
「なに?どうしたの。さっきと全然違うじゃん。雰囲気が。バッグ持ちましょう、とかさ」
「私、本来こういう性格なの」
 居酒屋に入り、薄い酒を飲んだ。ほとんどジュースのような酒だった。わたしはこんなもので酔えるわけがないと不安になった。こんな酒では幽霊に抱かれる時、喜べないじゃないか。彼に抱かれるとき、わたしはベッドの上で跳ね上がるほど喜びたいのに。
 私たちはいいちこを一升瓶買った。半分ほど飲んだとき、彼は渋谷の路上の隅に座りこんだ。
「お水いりますか?」
「ああ……要らない。要らない」
「バッグ、持ちましょうか?」
「いらない、いらない」
 私たちはカラオケに入ることにした。私は歌うことが好きだったし、幽霊となんとしても個室に入らなければならないと思ったからだ。
 しばらく二人で歌った。わたしは村下孝蔵と椎名林檎と少女時代を歌った。彼はつまらないロックバンドの歌を歌っていた。
 四十五分が経った。彼はいいちこを飲んでいた。私がYEN TOWN BANDの「あいのうた」を歌っている途中、〈ママの靴ではやく走れなかった日〉という箇所で、彼は私にキスをしてきた。長い長いキスだった。彼の舌は冷たくアルコールの味がした。幽霊は冷たくアルコールの味がしなくてはいけないと思っていたので、私はとても嬉しかった。

 彼とカラオケを出た。
「ホテルに行きますか?」
「いや、帰る」
「私もついていく」
「だめだ。俺、実家なんだ」
「だったら、実家近くのホテルに行く」
 終電はもう近かった。私たちは田園都市線に乗って、溝の口で降りた。彼は一度改札で引っかかった。電子パスの料金不足だった。

 溝の口のホテルに泊まった。私は一万円を出した。綺麗なビジネスホテルだった。
 彼はベッドに倒れ込むと、キャップを外した。彼は髪を刈り上げていた。そう、まるで、ファッションモデルのように。そんなシャレたことは、幽霊には必要なかった。
 私たちは風呂に入った。私は丹念に彼の足の指までボディソープで洗ってやった。彼は勃起していた。彼は少しだけ自分の話をしてくれた。
 青山学院大学に通っていること、水泳サークルに入っていること、水泳サークルの人間関係が悪くて悩みの種であること、そして腹筋が割れていないことが恥ずかしいと思っていること。
 彼のペニスは青白かった。そう、まさに青白かったのだ。ペニスが河豚のように青い静脈で波打っていた。
 わたしたちはベッドに入った。私は彼のペニスを舐めた。咽喉の奥まで鳴らした。彼は強く勃起した。
 彼は私の股を広げると、うざったいほどにべたべたにヴァギナを舐めた。べちょべちょになるまで。それがとても幽霊らしい、と思った。
「挿入したい?」
「したい」
「でも、ゴムがないから、だめだよ」
「そう」
 彼は挿入にこだわらなかった。幽霊は決して、生身の女と交わらないのだ。交わ「れ」ない、のではなく。
「寂しい?」
 私は彼に腕枕しながら訊ねた。
「うん」
 彼は胎児のように膝を抱いた。
「なんで?」
「家が嫌い」
「問題があるの?」
「兄貴が……」
 彼はそこで口ごもって、黙りこくった。彼は不幸そうな顔をした。私はそれが厭だった。
 不幸な顔をしているやつは、みんな幸福なのだ。なぜなら不幸な人間は、すでに死んでいるからだ。 そして彼は生きていて、幽霊だった。
 彼は眠った。私も眠った。夜の二時だった。
 彼は四時半に目ざめた。
「もう帰るの?」
 私はつけまつげが片方取れているのに気付いて、目を伏せながら問うた。
「帰って課題やんないと」
 彼はジーンズを履きながら応えた。彼は四千円を私に手渡して、そのまま帰った。
 私は帰り際に鏡を見た。化粧が半分取れていた。

 私は一度、東京のシェアハウスに戻った。躁鬱病の女の同居人がいびきをかいて寝ていた。私はまた眠った。
 目が覚めると夕方だった。また雨が降っていた。私は風呂に入って髪を綺麗にして、化粧をして、また下北沢に行った。
 シーシャ屋にはリイドさんもミキさんもいた。退屈そうに株価の話をしていた。
 私は彼らに村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』の話をした。それがどれだけ美しい物語かを説いた。彼らは興味無さげにそれを聞きながら、シーシャを吸っていた。
 私もダブルアップルリコリスを吸った。味はすぐに無くなった。
 私はシーシャ屋を出たすぐ真横にある、炭を燃やす炉を見つけた。私は雨に濡れた小石を炉に放りこんだ。石は音も立てず炉の中に入った。
 東京は今日も雨だ。きっと、ずっと雨なのだろう。

(コメント 2024・3・14)
2017年に書いたものの再掲。当時勤めていた職場を休職し、休職手当をもらって東京で色んな人達の家に泊めてもらっていました。その頃の話で、ほとんど実話なのですが、あまりよい思い出ではないです。今まで書いた中でもかなり駄作だなあと思います。

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