わたしの美しき人生論 第3話「美貌の端女」
ユハは、目覚めてから三日経っても、ベッドの上から動こうとしなかった。それどころか、ネイヴをアパートから追い出し、ニッキ(女はついに自分はニッキであると名乗った)でさえ、寝室に入ることが許されるのは、朝と夜の食事の運搬のときだけだった。
ユハはすべてを拒絶するようにベッドの中にうずくまり、夜がくるのをひたすら待った。朝になれば、春の祝宴が城下町で行われ、人々の笑い声や話し声が聞こえてくる。ユハは目を閉じ、耳をふさいでじっとしていた。
彼女は、ここがどこかわからなかった。
自分がユハという名であることも、ネイヴに聞かされて初めて知った。それから、ネイヴを部屋に追い出す前に「おまえはこの星を救う王女だ」とか、「救世の女神だ」とか言っていたのも、理解できなかった。
それにしても、とユハは思った。目覚めてからひどく身体が重い。それに、食欲が止まらず、夜中にニッキを叩き起こして羊肉のシチューや、ココナッツ・シュリンプ、アプリコットジャム入りのクレープなどいろいろ作らせて、一人でたいらげた。猿の頭を食いたいとさえ言って騒ぎ出した。調理の時間のあいまには、チョコレート板をそのまましゃぶった。それでもユハは、浮浪児のように痩せこけて、一向に太る気配がなかった。
そしてなにより、いったん空腹がおさまると、ひきつけを起こしたように泣きじゃくった。あまりにも悲痛に、叫ぶように泣くので、ニッキは寝室の扉に耳をぴったりつけて、静かに声をかけた。
「ユハさま。わたしはここにおります。あなたが眠るまで、ここにおります」
寝室の扉がゆっくりと開いた。そこには、お気に入りの人形を取り上げられた子どもみたいに、恨めしそうに上目遣いでニッキを見上げるユハが立っていた。三日も泣きどおしたまぶたは赤く腫れ、食欲のおもむくまま料理を口にした結果、腹が妊婦のようにぽっこり出ていた。
「ニッキ」
ユハは小さな声で言った。「なんで寝ないの?」
「あなたをお守りするためです」
「三日も寝ていないのに、平気なの?」
ニッキは一瞬おし黙ると、
「わたしとネイヴは……あなたさまがお下生になったら、この世界のことを少しずつ知ってもらおうと思っていました。なぜなら、ここはあなたさまにとっては見知らぬ異郷で、孤独や不安だけがあなたさまを支配してしまいかねないから……」
そしてニッキは、ひとつに結った髪をほどいた。熟した赤ワインを頭からかぶったような色の髪は腰まで届き、ユハはそのときはじめて、ニッキがとてつもなく美しい女であることに気づいた。ニッキはゆったりとした動作で傅いて言った。
「わたしは人間ではありません。わたしは機械じかけの人形。あなたさまのために生まれた奴隷」
「に、人間じゃ、ない?」
ユハは思わずうしろにのけぞった。ニッキの動かぬ表情筋、作りもののような色の瞳、それらはたしかに人間味のない、美しさのためだけに生み出された人形である証左のように思われた。
「あなたさまはこの世界のことを何もご存知でないことを、神は危惧されました。そして、あなたさまは、おひとりでこの世界で生きてゆくには、あまりにも脆く、弱く、多感であるあなたさまの、朝餉を、夕餉を、夕方のお菓子をつくり、毎日の眠る前には、その日にあったうれしかったこと、悲しかったこと、すべてお話くださって、そう、あなたさまがこの世界での日々の些末なことをお忘れになっても、わたくしが覚えているために……」
「だからあなたはニッキなの?人の形をした日記帳ってことなの?」
ユハは、不気味に思う気持ちと、ようやくこの献身的な小間使いを信用してみようかという気持ちの合間で揺れていた。
「ニッキという名は、便宜上必要だからつけたものです。わたしもわたしの本当の名を知りません。ある日目覚めるとこの部屋にいて、ネイヴがわたくしを見つけたのです」
「つまりあなたも……この世界に来たのは最近ということ?それとも記憶を失っていたとか?それなら、あたしとたいして変わらない状況ってことじゃん」
「いいえ」ニッキは首を振った。
「わたしはここにいる目的を知り、そのためにここにいます。あなたさまのニッキ。それがわたしにとって最も意味あることなのです」
ニッキは、自分が、今ここに立っていることの必要性を、きちんと理解し納得していた。ユハにはそれが羨ましかった。
ユハは自分が何者かわからなかった。何歳であるかも、どこで生まれたのかも、両親が誰なのか、どのようにしてこの部屋のベッドにやってきたのか。そして、ネイヴやニッキ、町中の人々が歌うように自分を祝福している。
私は女神。
私はこの星を救う王女。
なにもわからなかった。女神なんて本やゲームの中の世界のものだと思っていたし、自分が王族だとか、ものすごく大きな力を持っているなんて信じられなかった。
すくなくとも、ユハの脳内にそんな記憶はなかった。
「あたしは誰?女神って何?この世界を救うってどういうこと?そんなことできる、あたしが?」
必死にこらえていた感情があふれだしそうになる。何も知らない世界に放りだされて、どうしたらいいのか、ユハはわからなかった。
ニッキはユハを抱きしめた。
「明日、ネイヴを連れて大聖堂へおゆきなさい。教区長がすべてお話くださるでしょう。あなたさまを待っていらっしゃるはずで す」
「あなたは来ないの?なんでネイヴと?」
「わたしは」ニッキは顔色一つ変えずに言った。
「わたしは奴隷です。いやしい身分です」
そしてニッキは、ユハをベッドに座らせた。
「もうおねむりなさい、ひどく眠いでしょう。身体がほてってたまらなかったら、窓をあけてくださいな。そしてわたしの言うことをきちんと聞いてください。わかりましたか」
ニッキは真剣な眼差しでユハを見つめると、ユハの手を両手でぎゅっと包みこんだ。痛いほどに彼女の手は冷たかった。人形のニッキ。わたしの日記帳。
「ネイヴがこの部屋に来るまで、外に出てはいけません。誰にも会ってはいけませんわ、おわかりですか。もしそんなことをしたら、大変なことになりますからね」
ニッキには感情がない。ニッキには心がない。それなのに、ニッキの言葉には、まるで、母親が小さな子どもをしつけるような、有無を言わせぬぬくもりと冷静さがあった。ユハは食べすぎたのか、泣きすぎたのか、強い眠気に襲われながら、こくこくと黙って頷いた。ニッキの知らぬ間に、すでにエイベルと偶然会ってしまったことは、黙っていた。エイベルからもらったキンバイカの木の枝はベッドの下に隠した。
ニッキはユハを優しく抱きとめると、消え入るような声で言った。なにか祈るような声で。Ya'aburnee.