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わたしの美しき人生論第二章3話「聖母」
ママのことが聞きたい?
うーん、どこから話そう。
ママのことは大好きだから、最初から話したいけど、私は忘れっぽいの。
ママのことを思い出すとき、和室の窓際に座って外を眺めている姿が最初に目に浮かぶ。
小学校から帰ってきた私に気づくと、ママはいつも優しい笑顔で振り向き、その薄化粧したきれいな顔が西日に照らされているのを見て、私は、ママは本当にきれいだなあ、と胸がどきどきした。
私がママを思い出すときはいつもそうだ。
ママは本当にきれい。学校の先生も、クラスメートのみんなも私にそう言った。
あんたはお母さんに似て美人さんやねえ。
だから私は幼い頃から、自分はママと同じように美人だとわかっていた。
でも、ママは私よりもっとずっときれいなような気がした。どうしてだろうと思ったけど、たぶんママはマリア様だからだなあという結論に至った。
ママはマリアという名前だった。おばあちゃんかおじいちゃんがつけたのだろうけど、私はどちらとも会ったことがなかった。ママはいつも独りだった。ママの家族はもう死んでいて今はいないのか、生きているけれど仲が悪いのか、別に私はそんなことどうでもよかった。ママは私のことを愛してくれていて、いつもぴったりそばにいてくれた。それだけで私の魂はとても安心した。
聖母マリアのことを知ったのは、ふだんいつもテレビは午後3時以降見せてくれなかったママが、うっかりテレビの電源を切り忘れていた日のことだ。NHKの教育番組でたまたまキリスト教というものの番組をやっていて、マリア様という人は清らかで優しくて、すべての人を包み込む存在だと言っていた。
だから私は、その名前はママにピッタリで、すてきだなあと思った。ママにそう言うと、お母さんは困ったような顔をした。
「どうしてそんなことを知ってるの。なんで……勝手にNHK見たん?」
「……おもしろそう、で」
「面白かった?」
ママの笑顔が、作り物のように見える。いや、そんなわけない。ママは優しい。私を愛してくれてる。
それなのに。
声が詰まって、出てこない。
「……」
「なに?なんか言いや」
「……面白くなかった」
ママは大げさにため息をついた。
「アンパンマン、もう飽きたん?」
「……うん」
「明日TSUTAYA行こう。なにがええかなあ。きかんしゃトーマスは?おもしろいで。しまじろうもええかなあ」
「……うん」
ママは結局、次の日に、テレビを捨ててしまった。きかんしゃトーマスもしまじろうも見ることはなかった。
ママはすごく優しかった。私のわがままを何でも聞いてくれた。嫌な顔ひとつせずに代わりに宿題を解いてくれたし、面倒な夏休みの課題も、朝顔の観察も、ぜんぶやってくれた。きれいな朝顔の絵を描いて、色鉛筆で色とりどりに塗ってくれた。私が言わなくたってママは先回りして、私が嫌がるだろうことを全部やってくれた。
私は……だから、ずっとママの子宮のなかにいて、まだ生まれていない胎児みたいにずっと甘えていた。
でも、ママは時々、心配性だった。教室の隣に座っていた女の子が難しそうな本を読んでいたので、貸してと言って、私は生まれて初めて小説というのを手にした。
家のリビングで本を読もうとランドセルからそれを引っ張り出すと、ママはびっくりしたような顔で、
「そんなん読んだらあかん!」
と言って、私から本を取り上げた。ママに初めて大きな声を上げて叱られたので、私はもっと大きな声を上げて泣いた。すごくすごく悲しかった。本が読めないことよりも、ママが私を嫌いになるんじゃないかという不安でいっぱいだった。
ママは私をぎゅうっと抱きしめると、
「世の中には怖いものや汚いものがたくさんあってな、そういうのをわざわざ書いたりする人がたくさんおるんや。そうやって世の中の人の心を汚くしようっていうような、悪い人間がぎょうさんおるねんで」
「あの本もそうなん?」
「漢字がたくさん書いてあったりしたら、悪いことが書いてあるねん。だからあんたが先生からもらう本はいつもひらがなだけやろ。ひらがなの本は怖くないやろ。妖精さんとか動物さんが仲良しになる話ばっかりやろ。世の中はそういうふうにできていたほうがええねん。やけど、悪い人たちが多すぎて、悪い本ばっかり増えてしまってん」
私は10歳で、小学4年生だった。だけど、宿題はすべてママが代わりにやっていたから、漢字もあまり読めなかったし、算数も苦手だった。でもママは、「それでええねん。学校はええところやないねん。悪い世の中で生きるための、悪い知識を教えるところやからね」
だんだん、私が朝起きて学校に行こうとすると、ママは不機嫌になって、朝ご飯を作ってくれなくなった。だから、しぶしぶランドセルをおろして、ママのスマホでアンパンマンを見ていると、ママは嬉しそうな顔をうかべて、ごちそうをたくさん作ってくれた。名前はわからないけれど、やわらかいお肉や、オレンジをそのまま絞った甘い甘いジュース。
だから私はだんだん学校に行かなくなった。
テストの点数が悪くて先生に怒られるのも嫌だったし、なんとなくクラスメートたちからよそよそしくされている気がした。私はママと絵本を読んだり、編み物をしたりするほうが好きだった。
世界って何?
そんなこと知りたくなかった。だって私は幸せだったから。ママと二人だけで、大好きなママは、私のことが大好きだったから。それだけでよかった。
***
私とママの生活には、もう一人たまに加わる女の人がいた。
その女の人が誰なのか私は知らないけど、月に何度か家にやってきて、ママと何やら話し込んでいた。たまにママが子どものような声をあげて笑ったりしていた。
あれはママの「お友達」なんだ。
そう思うとなんだか私まで嬉しくなった。
だってその女の人が来るとき、ママは本当に嬉しそうだったから。
その女の人はとてもとても綺麗だった。ママはお花のような優しげな顔つきをしていたけど、その女の人はまるでお月さまのように冷たい、話しかけることも恐ろしくなるような美しさだった。だから私はその人がやってくると、リビングの隣の、ママと私の布団が敷いてある寝室に行くようにしていた。
でもその女の人は怖い人じゃなくて、いつも高島屋のお菓子や、見たこともない外国の文字のラベルの箱を渡してくれた。
中を覗くとそこにはキラキラ光る宝石が入っていた。これってお姫様がつけるものじゃないのかな。どうしてその人は私なんかに宝石をくれるのだろうといつも不思議だった。寒くなると毛皮のコートやマフラーもくれた。そのたびにママは気まずそうな顔をして、
「いつもお高いものを……」とその人に頭を下げていた。
「気にしないで」と、その女の人は決まってそう返事した。私はその鈴の鳴るようなきれいな声にうっとりしていた。女の人はうっすら笑って、
「これもお導きだから」
ママがマリアさまだとしたら、あの人はなんだろう?
私はだんだんとそのきれいな女の人への興味がふくれあがってきて、たまらない気持ちになってきた。ママは香水をつけないけど、その人は大人の香りがする。ママはあまり化粧をしないけど、その人はいつも赤い口紅を塗っている。
すごくすごくきれい。私は誇らしくもあった。あんな素敵な人がママの「お友達」。
でも二人が何の話をしているのか、聞くことは許されなかった。あの人がやってきてチャイムの音が鳴ると、ママは私のほうを見て、
「ちょっと、あっちでおねんねしてきなさい」
でも、ある夏の日。
あの人がやってきて、数時間経っていた。私はいつもみたいに暗い寝室で、窓の外の鳩の数を数えて暇をつぶしていた。スマホはママが持っていたし、テレビもなく、絵本も読み飽きた。私はすごくトイレに行きたくなって、思わず寝室のふすまを開けた。おしっこがしたくて、トイレに行こうとしただけだった。
ふすまをちょっと開けると、ママと女の人は重なり合っていた。
女の人がママのお股に手をつっこんで、ママは両手で口に手を押し当てて、少し泣いていた。
その涙は、うれしそうに床に落ちてはねた。ママの身体がしなやかに、生きた魚みたいにうねり、時折びくびくと跳ねた。
女の人がママのおっぱいを舐めながら、私の方を見た。
青い海の色の瞳。銀色の長いつやつやの髪。
「お友達」はこんなことをするの?
私は寝室のふすまをゆっくり閉めた。そしてあの二人のように自分の股に人差し指をあてた。指を上下にこすると、だんだんと身体が熱くなって、声が出そうになる。
私も「お友達」がほしいなあ……。
ふすまにぴったり耳をあてる。ママの小さな声が響く。いつもの優しいママじゃない。全然知らない人みたいな声。猫の鳴き声にそっくりだった。
女の人が帰った。私は布団にねそべって、眠っていた。
「見たんやろ」
ママがドアを開けて、私を見下ろした。なんの感情もない、人形みたいな目だった。私は本能的に、怖い、と思った。
「お部屋から出たらあかんって言ったよね」
「……おしっこ……したかった……」
「そう……」
ママは布団に座ると、私の手を握った。さっき股のなかを触っていて濡れていたので、私は少し焦った。
「……見たんやね」
「……ごめんなさい。ママ……」
ママは黙って私を見ている。そして突然私の手を包み込むと、その手を私の股ぐらに押し込んだ。
「手え広げて。お母さん指いっぽん上げて」
私は言ったとおりに指を指した。
「それでここを触るんや。ぐりぐりするんよ。優しく触るんよ。それから手ぇ洗ってな」
私の……私の身体にずっとあったのに、今まで気づきすらしなかった場所。私の本質が詰まった場所。そこを触れただけで電流が流れたように体中しびれる。
「……今度からそうするんよ。ママも手伝ってあげるからね」
ママはそう言うと立ち上がって、「晩ごはん作らな」と言った。
「ママ!」
私は思わず大きな声を上げた。ママが私を見た。
「なあに」
「……あの人、誰なん」
お母さんは、笑った。きれいに笑った。
「……ママのお腹にあんたを入れてくれた人や」
せいぼまりあは……しょじょのまま……いえすきりすとをおなかにやどした。
「ママ……」
「どうしたん」
「……おまたから……血ぃでてきた」
……せいぼまりあは……とつぜんあらわれたてんしに……かみのこどもをやどしているとつたえられた。せいれいがそうさせたのである……
せいれい……あの人は……
***
「な、お友達きてはるで」
ママが大きな声でそう言ってリビングまで小走りでやってきた。ママは怯えたような、焦っているような顔だった。
「友達?」
学校に行かなくなって一年が経ち、私はもうすぐ小学六年生になろうとしていた。「誰やのん」
「メガネかけた子や」
メガネ。私はぴんときた。一年前に本を借りた、隣の席の女の子だ。
いつも成績は学年で一番、いつも背をぴしっと伸ばして、まじめで、まじめすぎて、ちょっと浮いた女の子。無口だけど、初めて会話して一言「それ、貸して」と言ったら、何も言わず本を貸してくれた、不思議な子。
私は急いで玄関を開けた。やっぱり、その子だ。
「ア、アンリちゃん」
「……久しぶり」
アンリちゃんは少し背が伸びて、顔つきも大人っぽくなっていた。メガネは相変わらずかけていた。
「学校……来ないの」
アンリちゃんが言った。私は、どうしていきなり、と思った。
「ママが、行かんでええって」
「……どういうこと?」
「やから……わたし、勉強苦手やし……お母さんがいかんでええって言うから……」
「じゃ毎日、何してるの」
アンリちゃんはたしか、東京からの転校生だった。頑なに方言を使おうとしなかった。
「……」
少し後ろを振り返ると、ママが和室のふすまから顔をのぞかせていた。その顔は、恐怖で満ちていた。アンリちゃんもそれに気づいたようだった。
「……いいけど……本、返して」
「あ……そや。一年も借りっぱなしや……待ってて、取ってくる」
私があわてて部屋に戻ろうとすると、アンリちゃんはぱっと私の腕を掴んで、ママに聞こえないように小さな声で私の耳元でささやいた。
「あの本、読んだの?」
「……」
私は首をふって、アンリちゃんにささやきかえした。
「……漢字が多いから……」
「読めなかったの?」
「読んだらあかんって……」
「誰が?」
「ママが……漢字がいっぱいある本……読んだらあかんって……」
アンリちゃんは少し驚いたように目を見開くと、私の腕をぱっと離した。
「……虐待、受けてるのね」
「ギャクタイ……?って。……なにそれ?」
アンリちゃんは首をふるふると振ると、「なんでもない」と言った。そして、
「ちょっと質問なんだけど」
「な、なに?」
「あなたのお姉さんって、どこにいるの?」
私はその瞬間、宇宙に飛ばされた気がした。なにもわからない真空の世界。呼吸が苦しくなって、だれか助けてほしくて、たまらない。
ママが後ろから走ってくる音がする。
ああ。
ママ……大好きなママ。
あのときと同じ顔、してる。きれいな顔が歪んでる。
絵本のなかの、シンデレラをいじめる、ニセモノの母親。でも、その隣にいる、男は、ホンモノの親。
父親……
私のパパって、どこにいるの。そう聞いたときも、同じ顔をしてた。
すごくすごく、怖い顔。
それで、すごくなにかに怯えている顔。手が震えて、私の手を握る、ママの手も、汗びっしょりで、ぬるぬるして。
ものすごく大きな音が聞こえて、はっと意識が戻った。アンリちゃんはマンションの廊下の手すりに頭を打ち付けて、倒れ込んだ。
ママがアンリちゃんを殴って、押し倒したのだ。
「やめて……ママ」
「……悪魔……」
ママはアンリちゃんの頭を両手でつかむと、また金属製の手すりに打ち付けようとした。
「ママ!」
私はママに抱きついた。
アンリちゃんが死んじゃうかも、なんて、どうでもよかった。
こんなところを誰かに見られたら。怖い人がやってきて、ママを連れ去っていくんじゃないかって。
アンリちゃんは細い足で立ち上がると、私達ふたりのほうを見て、
「こんなのなら、どうなっちゃってもいいわ」
強く頭を打った様子のアンリちゃんは、何度もよろけながらも、マンションの廊下を渡って帰っていった。
腕になにかあたたかいものが落ちてきた。
ママの涙だった。ママは泣いていた。
「……悪魔……」
「アンリちゃん……本返しに来ただけやで……ママ」
「……あの子の言う事、忘れなさいよ」
ママの顔は、悪魔のようだった。つりあがった眉、目、ひくひくと震える口の端。
ママ、ママはマリア様でしょ?
アンリちゃんが去り際に、エレベーターホールから顔をのぞかせて叫んだ。
「あの本あげるから、読みなよ!」
本はもう捨てられてしまった。なんていう本だっけ?ああ……たしか……
「わたしが! お前の母親が!」
「だからこそだ。」
「わたしは、お前の生みの親よ!」
「産んでくれと頼んだ覚えはありませんよ。それに、あなたがくれたのは、いったいどんな命です?こんなものはほしくない!返しますよ!」