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2024年2月/広島駅から芸備線に乗り向原駅に 1960年代の商店街が浮かび上がる。

*元々2024年2月、Bloggerに投稿した記事をこちらに移した。

近年、二ュースで、芸備線、廃線、という語が目につくようになった。

それらの記事をよく読んだら、岡山県北西部の新見市から広島市内を結ぶ芸備線のうち、新見市から広島県北東部の庄原市までの区間をどのように今後運営するか、JR西日本と地元が協議する、ということのようだ。

広島市内にある広島駅から北東部に向かう芸備線に乗ると、各駅停車の場合、およそ1時間で14番目の駅である向原駅に着く。

向原にはかつて母の実家があった。わたしたち家族はその向原の家に、1960年代から1970年代の終わりまで頻繁に行き来していた。

そして、わたしが高校一年生のとき最後に残されたおばあちゃんが家を引き払い、広島市内に引っ越すまでの向原の日々は、わたしという人間の形成に大きな影響を与えた。

だから、JR西日本 芸備線一部区間見直しのニュースをきっかけに、わたしの知る、極めて狭い範囲の当時の向原町を記そうと思った。

わたしは、母方の初孫だ。赤ん坊の頃は、祖父母や曾祖父母、長女である母以外のきょうだい達も、向原の家にいた。

つまり、祖父母、曾祖父母、長男、次女、三女の7人家族だった。

当時、わたしが物心のつく4歳頃から15歳まで、昭和40年代から15年程度、向原の断片的な記憶と会話の数々が、今も日々の原動力のひとつになっている。

住まいのある東京にいても、旅先にいても、どこにいようが、この頃のわたしは、報告したいことを発見すると、胸の奥に住んでいる祖父母たちに話しかける。

例えば、着道楽でセールが好きだったおばあちゃんに、ユニクロの新製品はきっと気に入るよね?とか、

お正月には、ひいおばあちゃんが作ったおせちが、浮かび上がる。他では見たことがないけれど、彼女は、缶詰のミカン入りの寒天と食紅で染まった赤い寒天を、必ずお重に入れていた。

だから、今も正月になると、デパートのおせちだろうが、家庭のそれだろうが、寒天入ってないね?と毎度同じコメントをしてしまう。

でも、一種のひいおばあちゃんとわたしの1年に1度のお約束ごとのようなものだ。おせちの寒天ゼリーのことを口にすることで彼女の存在を確認する。

昨年、3泊4日の日程で広島に帰省したとき、最終日が、夜18時半の上り新幹線の時間まで、ぽっかり予定がなくなってしまった。

いの一番に思いついたのは、芸備線に乗って向原に行くことだ。広島駅からPASMO(IC乗車券)で改札を通り、芸備線、10時の三次行列車に乗った。

向原駅に着くと、2両編成の前方車両から切符の回収ボックスに切符を入れてホームに降りる。

広島駅の改札でIC乗車券のPASMOで通っていたから、困惑し、降りる直前に、車掌さんに、料金はどうすれば?と聞くと駅に降りて清算してください、と言われた。

そういえば、JR東日本のとある在来線に乗ったときもそんなやり方だった、と思い出した。降り立ったホームから、階段をテクテク上り、向原駅の改札を通ったけれど、誰もいなかった。

そこで、2階にある駅の切符売り場から出て、外階段から1階に降り、なかを覗くと、男子学生が、ひとり座っていた。無人駅で料金を回収してくれる人が見当たらないので、向原駅の東口をでた。

料金は、広島駅の改札で、向原駅ー広島駅間の往復を申告し、pasmoから料金860円×2を差し引いてもらった。本来は、列車で整理券をとるべきだった。

向原駅舎は当然建て替えられているけれど、周りの風景は驚くほど面影がある、と想ったとたん、

おじいちゃんとおばあちゃん、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんが、揃って目の前に浮かび上がり、寄り添った。とても不思議な感覚だ。頭のてっぺんから足先まで温まっていくような。一瞬で子供時代に戻った。

キョロキョロしていると、駅の建物1階に「軽食 喫茶 ふじわら、ダートコーヒー」の立て看板を見つけた。

10時の列車に乗って11時5分到着、まず昼ご飯食べなくっちゃ!と思った。スペースの一角をパネルで仕切った喫茶店の中を覗くと、なにやら、10人弱くらいの男女が集会をしていた。

女主人らしい人に、この辺で、ランチやってるところありますか?と聞くと、駅の反対側に「大原屋」という食堂があるという。

店先に立って道順を聞くかたわら、ワタシは試しに、かつて祖父母の家があり、懐かしくて度々思い出してしまうから、とうとうやってきてしまった、ことを打ち明けた。

すると、70代前半の女主人は「なんて名前?」

ワタシは答える。

とたんに、女性は「あぁ~知ってますよ。懐かしい~」と、その喫茶店主も巻き込んで、1960年代の向原にタイムスリップしてしまう。

女性は、母を筆頭にした4人のきょうだいを直接は知らないけれど、祖父が駅周辺で働いていた姿は、よ~く覚えている、と、お互いの向原語りがはじまった。

時は11月、昼間だけど気温が低めで寒さがじんわりと押し寄せてきたから、コーヒーを頂くことにし、さらに店内で30分くらい話しこんだ。

あの人は、どうしてるこうしてる、4人きょうだいの2人は健在なこと、向原の街は、夢に出てきたそのままなこと。女性は、それは良いことなのか悪いことなのか、と複雑な表情を見せた。

突然、女性の孫からの電話で、昭和40年代から令和5年の向原に引き戻された。ハッと我に返り、教えられた通り、向原駅の西口を出て5分ほど歩いたところにある「食べ処・寄り処 大原屋」という居酒屋兼食堂に向かった。

ランチ時の店内は、地元の人々でいっぱいだった。座敷には、いくつもの少人数グループがランチをしていて笑いさざめく会話に満ちていた。

見渡す限り、若者と言える人はお店の店員だけだった。たぶん、ここにいるひとたちは、祖父母のことを記憶しているかも知れないなぁ、と想いを馳せる。

ワタシは朝食をとっていなかったから、すごくお腹が空いていた。前日泊まった広島駅前の東横インは朝食バイキング付きだったが食べなかった。向原で食べるんだ、と心に決めていた。

本日の日替わり、天ぷら、小鉢、ごはん、みそ汁を、あっと言う間に平らげて、店を後にした。

食べ処・寄り処 大原屋

11時05分に到着して、帰りの電車は、15時59分の列車に乗る予定だった。あまり時間がない。かつて一族が住んでた通りを目指した。

実は、2017年に叔母たちと車で訪ねていたから家がそのままあることは知っていた。

とにかく通りを端から端まで歩いてみる。当時の外観のままになっている家が多い。

八百屋、書店、おもちゃ屋、呉服店など、記憶にあるお店の建物がほぼそのまま佇んでいる。基本的に当時の建物を活かして改築している。

かつてのショーウインドウや店の入り口だったガラス戸など左右に見ながら、ひいおばあちゃんと歩いた通りを歩き回った。

不思議な感覚だ。1960年代の街がそのままで当時の人々は歩いていない。

通りの端っこあたりに「向井櫻」という看板と酒蔵が見えた。

HPを読んでみる。

明治42年「我が町にも酒屋を」と、向原町の有志らの出資により、向原酒造は造られました。

昭和57年、経営に行き詰まり、向原町出身で広島市で運送業などを営んでいる・渋川玉司氏の企業グループの傘下に入る。

その後、品質も向上し、業績も回復した。また、平成に入り、全国新酒鑑評会金賞を6度受賞しました。

100年以上、地元の人々に支えられ、愛されながら歩み続け、現在は安芸高田市でただ1つの酒蔵です。

子供だったわたしは、家から離れた場所にあるこの造り酒屋の記憶はない。

ところで、1960年代にタイムスリップしたわたしと、買い物籠を下げたひいおばあちゃんは、白黒ブチの小型犬チビを伴って、テクテク通りを下り駅前通りに向かう。

今晩のおかずを魚屋や肉屋などで買うためだ。洋服屋もあった。ひいおばあちゃんが、白の襟つきのきみどり色の化繊のワンピースを買ってくれた。

買い物を終えたわたしたちは帰りは別の道を行く。駅前通りから、とある場所を入ったこのあたりに大きな池があった、近年の豪雨災害を機に埋め立てたそうだ。

その池の周囲をぐるりと周りこんだところに、小さな貯め池とセメントの地面をくり抜いた洗い場がある。

地元の女性たちが野菜を洗っていて、ひいおばあちゃんとわたしは、「こんにちは~」とか、挨拶しながら、この洗い場の窪みをまたいだ。今も野菜をここで洗っている人達がいるそうだ。

夏になると、駅前通りから1本入った通りの八百屋の軒先には、青いプラスチックのザルに3個ずつ盛られた桃が並んだ。親戚一同が集まるお盆の頃には、葡萄、スイカ、桃が、向原の家では冷蔵庫に常備されていた。

毎年のようにお盆の時期の昼下がり、一族は、冬は炭の掘りごたつとして使う食卓をぐるりと囲んで、お茶、菓子と共にそれらの果物を味わった。

一同がスイカなど他の果物を食べているときも、わたしはよく「桃がいい」とおばあちゃんにリクエストして「みんながスイカを食べるときは、スイカを食べんと」とお父さんにたしなめられた。

毎年夏にその八百屋に並ぶ桃の、口に含んだとたん果汁がしたたり落ちるほどに、みずみずしくとても桃らしい味は、わたしの中で、桃という果物の、絶対的な基準となった。

いまだに、その頃の味を超える桃に出会ってない。子供時代に覚えた味は美化され編集され記憶に刻まれる。

そういった食のシーンをはじめ、子供の目から見たありとあらゆること、どう振る舞えば褒められて、どんなことをしでかすと叱られるのか、

良い子供と悪い子供、要領の良い子と悪い子、喜びと悲しみ、深い愛と嫉妬、憎しみと寛容、人間という生き物の感情の豊かさを目の当たりにした。

今から思うと人生の縮図のような出来事を、若干の部外者的立場から、向原の家を通して深く味わった。そして、いつしか向原はわたしにとってかけがえのない地になった。



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