20241022/これから書こうと思う事(仮)Vol.8
以前にも書いたと思いますが、私は運動音痴です。今は「音痴」って言葉は学校とかでは使われてないのですかね?差別になるとかで。
「あだ名」が差別にあたるとかは、聞いたことがありますが。なんとなく「差別」の意味を取り違えている様な…。まぁ、いいです。今は関係ない。
話を戻して、私はスポーツが苦手です。子供の頃病弱だったり、どちらかと言えば内向的な外で遊ぶよりは、家の中で本を読んだりすることを好む子供でした。
体育の授業もあまり好きではありませんでした。子供ながらに、笑われるのが嫌だったのか、「劣っている」自分を自覚するのが辛かったのか…。うーん。ちょっと穿ちすぎかな?
まぁ、とにかく体育は好きではありませんでした。それでも運動会などのイベントは好きでした。決して活躍なんてできなかったですけれど。
ただ、入場行進の練習とか言って、グラウンドを延々と歩かせる教師には、子供ながらに疑問を感じていました。ヒステリック、とは言い過ぎかもしれませんが、子供です。小学生です。中には倒れる子もいたと思います。それでも「腕を伸ばせ」だの「足が揃っていない」と叫ぶ教師は、昔のこととは言え少しおかしかったのではないかと。
最近はどうなのか知りませんけれど、運動会の直前に学校に対して「中止しないとどうのこうの〜」と言う電話をかける人がいたと思います。「そこまでしなくても」とは思いますが、やはり人によっては運動会も「恐怖」のイベントだったのでしょうね。
しかし、私にも体育の授業や「体育祭」が憂鬱な、恐怖のイベントに変わる日が訪れました。中学生になってからです。
私が進学した中学校は、生徒が全員なんらかの部に入らなければいけませんでした。強制的にです。(ちなみに男子は丸刈りで、女子はブルマー穿いてました。昭和ですね)
田舎の学校だったからかも知れませんが、部の数がそもそも少なく、ほとんど選択の余地なんてありませんでした。文化系の部なんて一つもなかったです。今も多分ないのてしようね。
運動が嫌でも、学校に逆らうことなんて発想がそもそもなかった私も仕方なく、消去法で残った部に入りました。「部活動に参加しない」という選択肢はありませんでしたから。
ただ、これが学校というモノを嫌いになるきっかけで、人生の躓きの元ではなかったかと今は思います。「あの時、こうしていれば」と何度も思いましたが、やはり「あの時」はどうしようもなく「子供」でした。どうしようもなかったのです。
流されるままに始まった中学生活は、控えめに言っても「地獄」か「悪夢」でした。前回も書きましたが「先輩後輩」という人間関係を受け入れられず、教師はよりヒステリックになり、テストは自分の学力を測る物差しではなく、将来を選別する(他人を蹴落とす)モノに成り下がっていました。
中学生になって、成績や将来に直結する様になった途端、「美術」や「体育」の授業が詰まらなくなりました。絵を描いたり、50メートルを走ることを点数に換えられることを嫌悪する人は結構いるのではないかと思います。少なくとも私はそうでした。
嫌々入った部活動も恐らくちゃんとやっていないと「内申書」に響いていたのでしょうね。「協調性」がない。とか書かれて。まぁ、当時はそこまで頭は回りませんでしたが、やはり部活動にもついていけませんでした。
小学生時代、なんのスポーツもやってなかった人間が毎日「体力づくり」「筋トレ」の名目で突然何キロも走らされたりして、ついていけるわけがないのです。しかし逆らうことなど許されない。ただの子供でも先輩に睨まれたら、学校生活をまともに過ごせないくらいはわかります。だから筋肉痛と闘いながら走るしかなかった。これが「悪夢」でなくてなんなのですかね。
そして(少しは頑張りましたが)、部活動も、理不尽な人間関係も、他人を蹴落とす為の試験も、学校そのものから脱落しました。
「地獄」の始まりです。
私は確かに運動音痴ですが、身体を動かすこと自体は嫌いではありません。今でもです。けれど学生時代に強制された「体育」「部活動」のトラウマは新たに何かにチャレンジする気持ちをすぐに萎えさせます。
スポーツなんて好きなら下手でもいいではないかと思いますが、「下手な人間」は参加する資格すらないという空気を感じるのは私だけでしょうか?
若い人はたくさん食べて、たくさん運動して、元気に育っていけばいいと思います。けれど、今の学校での運動・体育のいつまで経っても変わらぬあり様は、「スポーツに積極的に参加しない人間はダメな人間だ」と言う考えを押し付けているだけだと思います。
身体を動かすこと、スポーツを楽しむことの喜び。この2つを奪っているとしか思えない今の教育の在り方は間違っていると思います。これだけでも大罪です。
増して、それに点数をつけ、人の将来を限定させているのは、どう考えてもおかしいです。
何もかもが学校のせいではないでしょうが、「学校」から変わらないと無力な子供たちがあまりに可哀想です。彼ら(彼女らは)は、まだまたこれからなのですから。