
【呪術廻戦】作品が示す「北」と「南」の捉え方とは【考察・解釈】
はじめに
本記事では作品内においてぼんやりと示されている「北」と「南」の概念と、作品内におけるその扱いについて書いていく。一応考察ではあると思うが筆者なりの解釈の面が強い為、より曖昧な内容になるかと思われる。ネタバレも含めて留意していただきたい。
1.冥冥が示した「北」と「南」の概念
本記事で中心的となるのが26巻で冥冥が示した「北」と「南」の概念である。

これ自体かなり抽象的な言葉であるが、本記事ではこれを死に際に何を思うか、という風に捉える。
実際、この概念が示された話は五条の死に際であり、サブタイトルや場面の表象が彼が「南」を選んだ事を端的に示している。
では「北」と「南」が死に際に何を思うか、という捉え方で考えた場合、仮に「北」を選んだ人物が居たとすればその人物は何を思うのだろうか?
新しい自分を志向するとすれば、その内容は必然未来のものになるだろう。しかし具体的に思い起こせる記憶がある過去(南)とは違い、未来(北)にはそれが無い。
この場合、この先自分がこうなっている筈だ、という夢想がそれに該当する訳だが、それはそれで不自然である。死の間際に未来の自分を考えたところで意味が無い。次の瞬間には死ぬのだから、どれほど願おうともその未来が訪れることはないのが道理である。
では、自分が死んだ後も残る未来のモノ、であればどうだろうか。具体的に言えば他者である。
自分が死んだ後も残る他者であれば未来がある。幸せになってくれ、長生きしてくれ、救われてくれ。そういった自分を度外視した自分以外への純粋な期待や願いといった内容であれば、死に際に考えるモノとしては妥当だろう。
そして、「北」をそう捉えた場合、「南」とは過去を通した自分という存在への自己満足、という風に捉えられる。
ここまでの流れを以って、自分以外への優先を「北」、自分への優先を「南」、という風に解釈し、作品全体及び特定のキャラクター達を見ていこうと思う。
2.自己犠牲
自分以外への優先(北)、という観点で見た場合、それに該当する思想や行動を取りがちなキャラクターが二人居る。
虎杖悠仁と伏黒恵である。


そもそも虎杖の本来の目的は宿儺を取り込んで死ぬことであり、伏黒は虎杖のように死ぬことで達成される目的こそ無いが、自分の生死に頓着が無い。これは画像以外にも、不利を悟った瞬間に魔虚羅を出し自爆を狙う姿勢から窺える。
そして彼らはこういった行動の他にも、自分以外への優先(北)と取れる思想を主軸にしている。


自分は歯車の一つに過ぎないという考え方は、自分以外への優先(北)という観点の究極系であり、端的に言えば自己犠牲的とも言える。
そしてそんな思想が作品を通して肯定されてるかと言えば否であり、それが示されたのが宿儺の伏黒への受肉である。

自分を度外視した縛りによって虎杖は宿儺に裏を掻かれ、また自分や虎杖が死ぬだけなら構わないと判断し、乙骨という抑止力を軽視した伏黒は肉体の主導権と姉を失っている。
このように、宿儺の伏黒への受肉という物語内の転換点とも言える大事件を引き起こしたのは、虎杖と伏黒の自己犠牲的な精神、自分以外への優先(北)を基本とした思想によるものなのである。
3.「北」へ向かうということ
本質的には自己犠牲的な思想や行動を「北」とするならば、「北」を選べる人間は限りなく少ないと言っても良いだろう。
そもそも人間とは第一に自分という存在を主体とするモノである。


乙骨は誰かの為ではなく何よりも自分を肯定する為に夏油と敵対し、五条は自分の手で救える者の限界を悟った。五条が語る他人に救われる準備がある奴とはつまり、誰かに助けを求める者であり、そういった人間は自分自身に意識を向けているからこそ、誰かに助けを求めるのである。自分はどうでも良いという思考の人間はそもそも誰かに助けを求めないのだから。
こうした自分への優先(南)という観点は作品の至る所で見つけられるだろう。そしてそれはある意味当たり前である。程度の差はあれど自分という存在に主軸を置くのは人間として普通のことであり、だからこそ多くのキャラクター達は死に際に際し、今と過去を振り返る事で自分という存在の総決算を果たし、ある種自己満足的に死んでいく。
対して自分以外への優先(北)とは、極めて行くほどに普通とはかけ離れていく。それこそ自己の存在しない歯車というのがその究極であり、そんな人物が死ぬとすれば一切の自己の振り返りは無く、ただ他者に何かを願いながら死んでいくだろう。

だからこそ自分以外への優先が「北」で自分への優先が「南」なのである。寒々しい北と暖かい南。作品内において、どちらを選ぶのがより普通で自然なのかを、率直にイメージさせる為の表現なのである。
そして「北」へ進んだ先にある新しい自分とは、死に際にただ他者の未来だけを思うという事に成功した自分なのである。それを非人間(あるいは機械)化と取るか解脱と取るかは人それぞれだろう。
そして現段階の話ではあるが、本記事で「北」へ向かっていると述べた二人の内、一人はその洗礼を受け生きる意思を失っている。
残る一人も含め、彼らはどう落着するのだろうか。