癒しの扉 ~鍵はわたしの手の中に~
わたしにとっての癒し
『癒し』とは、体験するもの。
『癒し』とは、声なき声に耳を傾けること。
『癒し』とは、わたしの心に従う道標となるもの。
わたしに隠しているわたしの気持ち
にっちもさっちもいかないとき。
それはもうもどかしく、苦しくて。
癒されたいわたしが「ドンドンドンッ」と内側から扉を叩いて、「気づいてよ!こっち向いてよ!」と叫んでいる。
だけど、外側のわたしはその声を聴くのが怖い。
何が出てくるのかわからないから。
怖いけど、もうそんなこと言ってられない。
にっちもさっちもいかないのだから。
「腹から決める」と決めているのに、決めきれていないわたしが露になる。
ガイドAの
「自分の恐れをみなきゃ。」
というひと言で。
にっちもさっちもいかない自分から抜け出すために行動していたのだけど、にっちもさっちもいかない原因となっているものを明らかにしないままの行動は、対処療法にすぎない。
「恐れかぁ。」
「恐れねぇ。」
「うーん、恐れ。」
頭の中はぐるぐるし、気持ちは焦っていた。
そんなわたしに向かってガイドBが、
「そういうときにわたしがやる3つのことを教えるね。」と。
「1つめは、深呼吸。ゆっくり吐いて吸ってを繰り返すの。2つめは、飛ぶ!身体を揺さぶる感じで動かすってこと。そして3つめは、アウトプットする。とにかく何でもいいから。文句でも愚痴でも何でもいいの。出てくるものを声に出しもいいし、書いてもいい。吐き出すの。」
そして、最後にわたしを助けるのは、わたし自身。
わたしの中に、必ずわたしを助ける人がいると信じる。
出てきたのは、アドバイス通りにやってみる素直で正直なわたしと、わたしを知っていかすことを学び続けてきた自分を信じるわたし。
深呼吸をして、身体を動かして、わたしの内側から出てくるものを書いてみた。
すると、幼少期に家族といて、「わたしなんていない方がいいんでしょ。わたしがいない方がみんな楽しいんでしょ。」ずっとそう思っていたわたしを思い出した。
ぶわーっと涙が出て、「あぁ、こいつだ、わたしの癌。」そう確信した。
当時のなんとも言えない悲しみと虚しさを感じながら、胸のあたりが暖かくなり同時に安堵していた。
この「わたしなんていない方が、その場がよくなる。」という感覚は、幼少期以降家族以外の人といるときもよく感じていたこと。
そして、ふと開いたnoteの記事を読んだ。
「恐れと向き合わなきゃね。」と言ったガイドAのnote。導かれるとはこういうことなのだろう。そこには、そのときのわたしが求めていたこたえがあった。
どんなトラウマがあるのか、あぶりだせたらラッキー!
と。
そのトラウマに身を任せながら生きるのか、今のわたしが描く未来を実現するための行動をとるのか、選択することができるから。
物心ついた頃にはもう「わたしなんていない方がいい」と自分を無価値にするわたし。それは、過去世からいるわたしで、癒されていないわたし。
そのわたしは、自分の居心地の悪さを認めず、居心地が悪いと感じているわたしに協力しない。
そうやって自分を無価値にすることで、人との関わりを深めることを避けてきた。相手のことを知り、自分ことを伝え、わたしの居心地がいい場所を自分でつくることを諦める理由にしてきたのだ。
わたしの希望は、居心地のいい場所で楽しく生きること。
居心地のいい場所とは、居心地がいいと感じる人との関係性のこと。
わたしの楽しいは、日々刷新されている。
長いことアップデートしていなかったから、随分と不満足なことが多かったな。
ここから先は、また追追記していこう。
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